終わりの始まり
「貴方はいずれこの世界の救世主とさえ言われるかもしれません。どうか安らかに、さようなら」
微睡の中できんきんと喚く何処かの誰かの声に、そんな事はいいから早く終わらせてくれ、と応える。
僕は今日、自ら死ぬために、幸福世界安楽死センターへと訪れた。その名の通り安楽死のための施設で、妻の紹介だった。安楽死センターは正しく認められた施設であり、ここで死ぬことによって来世での幸福が確約されるという、胡散臭いキャッチコピーで政府により推進された制度であった。今時の僕たちには、生きるという苦役から逃れる権利があるのだ。
安楽死センターとは言うが、死に方の選択肢は多種多様であり、拷問や残酷な処刑による死も選ぶことも出来る。例えば償いきれない罪を犯した人。単純な好奇心。自分がどれほど苦しんだのかを見せ付け、遺族や自殺へ追い詰めた人の心を少し引っ掻いて去る人だとか、あるいは、動画配信者の度胸試しや、小説家が拷問をその身で体験しながら遺作を書く、といった目的でそれらを選ぶらしい。僕にはその心情は永遠に理解出来そうにない。
僕はそんな酔狂な事をするつもりはなく、ごくシンプルな、眠りながらの死を選んだ。僕は死後、誰かの何かの研究に使われるのだという。研究というものに興味は全くなかったのだが、死体を提供すれば、遺族にお金が入るらしい。その金額は引き取り先によって多少変動があるものの、人生が変わる程度にはもらえるようだ。妻が幸せになればいいのだが。そう考えながら、僕は永遠の眠りについた。
──はず、だった。眠りはやけにあっさりと覚めてしまったのだ。僕は暗闇の中に居た。しかし身体は一ミリたりとも動く気配がない。金縛りというのはこういう状態をいうのか、と思った。意識は明瞭。何か機械の側にいるようで、辺りには低く静かなモーター音が鳴り響いているようだ。そしてそのモーター音は、水の膜を一枚隔てた向こう側のような音だった。酷く寒い。少しでも動くことが出来ないか、可能な限り色々な部分を意識するが、無意味だった。それどころか呼吸をすらしていない事に気付く。
己の身に何が起こったのか、判明したのはそれから数時間後だった。もちろん目が開いていないので正確な時間はわからない。足音と話し声が近くを通りかかったのだ。
「いやあ、旦那を標本にして飾りたいだなんて、あの奥さん、気味が悪いな」
声はひどく聞き取りづらいものだった。聞き間違いでなければ、この状況を作り出したのは妻であるらしい。その事実に多少の意外性はあったものの、悪い気はしなかった。
「旦那を売った金でやったんだとよ。可哀想に、処置を薦めたのも奥さんらしいぜ」
「新たな愛の形ってか。小説ならともかく、現実でそれをやるのはちょっとなぁ」
妻がそれを望んだのなら、と思えば、幸福とさえ思う。衣食住の不安なく、面倒な会話もせずにそばに居られるのだ。
「さ、そろそろ支度しようか。何せ人間一人入ってるんだ、これは重労働になるぞ」
どうやらこの身体は常に目を瞑っているようだが、それでも睡眠という概念はあるらしい。起き抜けにどやどやと音が聞こえた気がするが、それもしばらくすると止んでいった。ぎいぃ、バダン。どうやら重厚そうな扉があるそこは、玄関らしい。こつ、こつとヒールの音がして、それから、あなた、と声が聞こえた。
「あなた、私、あなたの事大嫌いだったの」
笑いを含んだ声で妻が囁いた。え、と心の中で問い返す。それに応えるように妻は続けた。
「だから、ね。二度と悪さをしないようにと思って。ねえあなた、今、丸裸なのよ。小さなオチンポが丸出しで、足も短くて、ふやけて、気持ち悪い。ふふ、きっと人が来るたびに嫌な目で見るわ。いい気味。」
標本ならば当然だろう、と理解はしているがそう言われると突然恥ずかしくなってきた。その嫌がらせのためだけに、こんな手の込んだ事をしたのだろう。脳だけを生かす技術があったのか、脳がまだ生きている事に誰も気付かないのか、あるいは、ここにあるのは生命ではなく魂とでも言うのだろうか。これからの妻との生活に暗澹たる思いを抱え、来世が始まった。
比翼の鳥 旺璃 @awry05
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