120.巫女の願いを踏みにじる者

 最後の夜が来る――窓の外で傾いていく太陽を目で追いながら、シオンは椅子から立ちあがった。魔王城の周辺は、生き延びたいと願った人間達が溢れている。彼らは多少の欲があっても、魔族との共存を望んだ。紛い物が混じれば、それは宰相たるネリネが排除するだろう。


 世界を分離した後、魔族に危害を加える人間は許さない。それは魔族の総意だった。穏やかに共存したいシオンの願いと違っていても、虐げられた同族の願いを優先する。それは魔王としての覚悟だった。


 好んで他者を傷つけたいとは思わない。それでも肉を裂く鋭い爪を持ち、獰猛さを示すような牙を備え、圧倒的な魔力を保有する。魔族の頂点に立つ王であることは、シオンにとって誇りだった。優しい同族を護る盾になる者が王であり、傷つける敵を排除する剣を躊躇うことはない。


「我が君、誇り高き魔王陛下に申し上げます。ミューレンベルギア殿が儀式の準備を終えました」


「わかった、ご苦労」


 労う言葉の後、シオンはネリネを振り返った。紺色の瞳が映した側近は、声をひそめて付け加える。


「彼女は何か隠しています。おそらく術に関し、犠牲が必要かと……」


 ネリネの報告に、シオンは溜め息を吐いた。少女の姿の老女は、我ら魔族を欺く。ならば、自ずとその方向性は決まっていた。


 魔族を傷つける女ではない。誓約を反故にする卑怯者でもなかった。強大な魔力を親から受け継いだが故に成長が遅く、リクニスの中ですら異質だった巫女。呪いで死を遠ざけられた女の望みはひとつだった。


「死ぬ気か」


「はい」


 己の魂と命をすべて捧げ、供物として世界に還す。死ねない彼女が消滅するための方法だ。死んでも死ねないシオン達にも、彼女の想いは共感できた。二度と蘇りたくないと願いながら、殺されるために世界に戻される。その痛みと苦しみに似た感情を、ミューレンベルギアも抱いてきた。


「開放してやるのが優しさだとしても……」


「ええ。我らは人間の敵と呼ばれた魔族です。自分勝手な欲望に従い、巫女の願いを踏みにじるのもまた……魔族らしいのかと」


 互いに断定を避けながらも、望む結末は同じだった。彼女を死なせる気はない。世界を分離する以上、足りない魔力は補わなければならない。


「女神ネメシアに預けた魔力は、いかほどだったか?」


 ネリネは何も言わない。尋ねる響きながら、シオンも答えを求めていなかった。窓の外はいつの間にか夜の帳が降りて、美しい星空が広がる。


「予定通りに手配いたします」


 今夜も竜の姿をとり、聖女を乗せて人間を助ける主君へ、宰相ネリネはゆっくりと頭を下げた。無言で部屋を出るシオンの足音が遠ざかる頃、ネリネは前髪をかき上げて口角を持ち上げる。身を起こした先で、部屋に注がれる月光を大きな竜が遮った。


 足元の人間達が歓声をあげる。魔王城の上を旋回した竜が飛び立ち、今夜も新たな人間が送られてくるだろう。世界を分離する準備は済んだ。


「後を任せます」


「「「はっ」」」


 重鎮の答えを待って、ネリネは魔王城の地下に向けて転移する。魔女と呼ばれた巫女の願いを邪魔する悪魔の笑みを浮かべて――。

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