117.その耳は人間より聞こえるのか?

 大人しそうな猫を抱いた幼女に微笑んだバーベナは、ぐるりと辺りを見回す。


「バーベナ、こっちを手伝ってくれる?」


「はいっ! ケガ人ですか?」


 鼻をついた血の臭いに、慌てて駆け寄る。右腕の肘より少し上を切った男性に、リナリアが慣れた手つきで魔法陣を乗せる。わずかな魔力で発動する、小さな小さな魔法陣だ。切り傷が薄くなり、すぐに消えた。


 転送時に抱えてきた商売道具で切ってしまったらしい。足元に落ちた金具からも血の臭いがした。


「すげぇ!」


「職人さんは、これから腕を奮ってもらわないとね」


「職人さん、ですか?」


 歓声をあげた男が腕を上げ下げして、痛みがないことに感動している。くすくす笑うリナリアの単語に、バーベナは興味を示す。


 魔法である程度のことをこなす魔族にとって、人間の職人は魔法より珍しい。手先の器用さと受け継いだ経験で、魔法もなく美しい物を作り花を咲かせる。その姿は、魔族から見たら手品のようだった。仕組みが分かっても感心してしまう。


「おうよ! 俺はガラス細工が得意でな。……お? 魔族なのか」


 バーベナの頭で動く耳に気づき、男は一度言葉を止めた。じっくりと猫耳に見入ったあと、申し訳なさそうな顔をした。


「悪かった。じろじろ見るなんて失礼だよな。初めてでよ。不躾ついでで悪いが、聞いてもいいかい?」


「なんでしょう?」


 身構えながら尋ねるバーベナへ、男はまるで少年のようなきらきらした目で尋ねた。


「その耳は人間より聞こえるのか? ほら、その動物の猫みたいにさ。遠くの音が聞こえたりしたら便利じゃねえか」


 あまりに他愛ない質問で、拍子抜けした侍女は瞬く。それから表情を和らげて、よく聞こえるのだと返事をした。羨ましいと告げる男に、聞きたくない噂も聞こえてしまうのが欠点と教えれば、声を立てて笑う。


 人間も魔族と同じだ。笑いもすれば、痛がりもする。魔王シオンが口にした夢物語の意味が、ようやく理解できた。あれは妄想や希望ではなく、事実だったのだ。ただ魔族と出会った勇者達が残酷だっただけの話。他の一般的な人間はこんなに変わらない。自分達と同じように感情がある生き物だった。


 声を立てて笑うバーベナに、後ろから鱗人が近づいた。何度か迷ってから、そっと肩を叩いた。足音で存在に気付いていて無視したバーベナに、話をさせて欲しいと願い出る。


 離れていく彼と彼女を見送り、ガラス職人の男はリナリアに肩を竦めた。


「なんだ、もう恋人がいたのかい。可愛い子だから当然かぁ」


「残念ね。他にもいい子がいるから、ゆっくり探しなさいな。時間はあるわ」


 離れた場所で少し言い争い、やがて猫耳メイドは惚れた男の腕に飛び込む。誤解からすれ違った彼と彼女の思いが通じ、恋人同士になった瞬間だった。

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