31.着火剤は油を背負ってやってきた

 女神ネメシアの聖女が見つかった。安堵の息を吐いたバコパの耳に届いたのは、予想外の言葉だ。


「お兄様と一緒にできないなら、聖女やめて帰ります」


 場が凍りつく一言は、それぞれに違う解釈をされた。セージは「ちょっとタイミングが早すぎたかな」程度の感覚で苦笑いを浮かべる。クナウティアは無事言い切った安堵感で一杯だった。護衛騎士として、の単語が抜けていることに気づかない。


「……一緒は無理だと思うが、聞いてみよう」


 アルカンサス辺境伯バコパが絞り出したのは、そんな一言だ。聖女は女性が選ばれるから『聖なる乙女』と呼ばれる。選ぶのも女神ネメシアであるし、勝手にこちらで数を増やしたり減らしたりできるものじゃなかった。


 兄だと言ったが、男性なので『聖女』は無理じゃないのか? どうして志望したのか、逆に聞いてみたいくらいだ。引きつった愛想笑いを作ったバコパは、昔聞いた噂を思い出していた。


 リクニスの一族は多才で優秀な人間を輩出するが、揃いも揃って変人ばかりだと――リッピア男爵家とリクニスの関わりは不明だが、父親経由で聖女も繋がっているのは確証が持てた。


 男である兄を聖女にしたいと言い出すのは、間違いなく変人の類に分類される発言だ。彼女が逃げ出して、王太子リアトリス殿下もさぞ慌てただろう。変わり者は予想外の行動に出ることが多いからな。


 バコパはかなり失礼なことを考えながら、ひとまず迎えが来るまで聖女を留める方法を探る。仲睦まじく何か話している兄妹の姿に、話が通じそうなセージを丸め込む方向へ思考が傾いた。


「セージ殿、聖女クナウティア様の迎えが来るまで、この屋敷に留まられてはどうだろう。当家に(聖女様の)お世話をする栄誉を賜りたい! 後見もしよう。ぜひそうしていただきたい」


 逃げられたら困る! 必死のバコパは身を乗り出し、セージの手を握った。興奮した主君の姿に、控えていたメイドが顔を赤らめる。


 もしかして、ご主人様は男色趣味? 確かに顔が整った青年だけれど。聖女の迎えが来るまで、兄である青年も必死に引き留める言葉に聞こえた。後見役まで申し出ている。よほど好みなのだろう。今夜、手を出すのかしら。


 聖女の兄に主人が懸想したと思い込んだメイドは、にやける頬を引き締める。この話は、同僚との夜お茶会のメインになるわね。


 噂好きの妙齢女性にかかれば、火のないところにも煙は立つのだ。そう……発煙筒代わりの勘違いに、妄想という油を足して。深夜のお茶会で、不謹慎で無責任な噂は燃え上がるのだった。


 メイドの勘違いを知る由もないバコパは、セージの回答を待つ。予想した中で最良の結果に、セージは遠慮がちに頷いた。


「お世話になります」


 その一言はメイドの妄想をかき立て、バコパを舞い上がらせた。同時にクナウティアは無邪気に手を叩いて喜ぶ。兄が嬉しいなら、自分も嬉しい。単純な動機だが、バコパが笑顔で焼き菓子を勧めてくれるのも、嬉しかった。


 聖女になれば、美味しいお菓子がたくさん食べられるのね。だったら、どうして恥ずかしい役目なのかしら。もしかして恥ずかしい行為の代償なの? 


 焼き菓子を口に入れたクナウティアは焦るが、代償だとしても吐き出すわけにいかない。一度口に入れてしまったし、ポケットにも入っている。混乱して凄い勢いで噛み砕いて飲み込んだ。喉に詰まる焼き菓子を、紅茶で一気に流す。


「大丈夫かい? 焦ってはダメだよ」


 セージの優しい手に背を摩られて、クナウティアは小さく頷いた。兄はどこまで知っているのか。困惑気味に見上げる。


「安心していい。俺はティアを守るから」


 クナウティアが頷いた姿に、メイドは舞い上がらんばかりの勘違いを溢れさせ、潤んだ目に腐って見える光景を焼き付けた。

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