『死刑囚最後の日』/ヴィクトル・ユーゴー

宮条 優樹

『死刑囚最後の日』/ヴィクトル・ユーゴー




 『死刑囚最後の日』は、ヴィクトル・ユーゴー二十八歳のときの作品だ。

 一人の死刑囚を主人公にしたこの作品は、死刑制度廃止を訴えるために書かれたものだという。


 ある一人の男の、死刑宣告が下される裁判にはじまり、獄中で死刑と向き合う男の様子、心境の不安定な変化、断頭台に向かうまでの短い間、彼と関わる様々な人の言動……細かに記録されていく飾り気のない文章の中に、ヒリヒリと近づいてくる逃れようのない死の形が現れていく。

 読んでいて、まるで自分がギロチンに向かって運ばれていく気持ちになる。


 この作品で読むべきは、物語のはじまり、裁判で死刑宣告を受けた男の独白、その一行の中にあると思う。


 “すなわち、。”(岩波文庫・豊島与志雄訳)


 主人公の男には名前がない。

 どんな罪を犯したのかすら書かれない。

 そのことが、主人公は何の変哲もない全ての人、つまり、私自身だと言われているように思えてくる。


 始まりから終わりまで、主人公である死刑囚の男の一人称が貫かれて書き出された物語は、人ひとりの死が絶対にきれい事には収まらないことを表している。

 他人から見た死と、自分自身の死とは、キャンパスの中に描かれた猛獣と、目の前に飛び出してきた生きた猛獣ほどに隔たりがある。

 死は恐ろしく、避けられない、問答無用の終わりだ。

 断頭台に上らされた男が、死刑執行の合図、四時の時計が鳴る間際まで、赦してください、猶予をください、と悲惨な叫びを上げ続ける姿で、それをユーゴーは描いた。


 男に対して親切らしい看守も司祭も、親身になってくれはしても、決して男の身代わりになってくれはしない。


 人は断頭台を目の前に置いて生まれてくる。

 目に見えないだけで、断頭台は私の目の前にもある。

 いつか私もそこに上らされる。

 それは何十年後かもしれないし、明日かもしれない。

 この文章を書いている、今、やって来ることかももしれない。


 世界的な新型コロナウイルス感染拡大は、死が目に見える時代の到来とも思える。

 あるいは、死を見せつけられる時代かもしれない。

 日々、あらゆる媒体を通じて報道される、増え続ける死亡者の数字によって、死が目に見えるもの、身近に迫るものとして、私自身が意識するようになっている。

 人は必ず死ぬという、誰もが当たり前に承知していながら見て見ぬふりをしている現実が、未知の感染病という形で目の前に現れたように、私には感じられる。


 とある死刑囚の最期を見届け、私は自分の死について考える。

 死を見つめることで、そこに到達するまでの生き方、何のために、何をして生きていくべきなのか、私は考えなければいけない。


 いつ断頭台への迎えの馬車が、やって来るともわからないのだから。



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『死刑囚最後の日』/ヴィクトル・ユーゴー 宮条 優樹 @ym-2015

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