闇に光る猫たちの目【改訂版】
深上鴻一:DISCORD文芸部
闇に光る猫たちの目【改訂版】
#01
1944年はジェイムズ・アンダーソンにとって地獄の一年だった。アメリカからナチスドイツと戦うために海を渡って来た彼は、捕虜となってドイツのドレスデン収容所にいたからだ。
のちに戦争が終わり祖国に帰還した彼は、ドイツ占領地には他にもたくさんの地獄があったことを知る。例えばポーランドにあったアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所。またの名を絶滅収容所。そこではユダヤ人はガス室でまとめて殺され、なかには人体実験までされた者がいる。
だがジェイムズは、ドレスデンの方がましだった、という意見には絶対に与しなかった。彼の息子である私もそれは正しいと思う。つまりドレスデンにも病気があり飢えがあり虐待があり、その決着としての死があった。そこは人間としての尊厳が踏みにじられる場所だった。地獄に階級付けなんていらないだろう。
ジェイムズは医学生だった。そこで彼はいつの間にか、仲間たちの健康相談役となった。お腹が痛い、腕が上がらない、もう立てない。助けてくれよ、ドク。死にたくないよ、ドク。ジェイムズはドイツ兵に懇願し、薬を入手したことさえあるらしい。当時としては一般的だったのだが、医学生のジェイムズはドイツ語がいくらか話せたのだ。
ジェイムズの最大の仕事は、朝の点呼をし、その人数をドイツ兵に伝えることだった。アインツ、ツヴァイ、ドライ。それは朝、目覚めなかった人間の数だ。
すべての捕虜は、首から金属のプレートを下げている。それには真ん中に折れ線があり、死ぬと半分に折られる。片方は書類上の処理のためドイツ兵が持ち去り、片方は死体を判別するために残された。
病床のジェイムズは数日に分けて、息子である私にゆっくりとそんな話をした。しかし収容所の悲惨さを伝え残したい訳ではなかった。ただ父の命を救った、ニール・バックリーの話をしたかったのである。
#02
ニールは背が低い、くしゃくしゃの金髪をした、そばかすだらけの青年だった。いつもおどおどした態度で、相手にへつらうような笑みを常に浮かべていた。
収容所には連帯感があった、とジェイムズは言う。食料を分け合い、励まし合った。仲間の糞尿を片付け、その死体のために安らかな眠りを祈った。
だから彼らはニールをからかうことはあっても、虐めることはなかった。どんなに奇妙な人間だったとしても、彼らの仲間のひとりなのだった。
「なあ、ニール。俺の息子は今、何してる?」
ある兵士がそう尋ねるとニールは首から下げた革袋を握り、目を閉じる。そしてこんなことを言うのだ。
「君の息子は今、バッターボックスに立ってるよ。一球目、空振り! そしてピッチャー振りかぶって二球目を投げた! 当たった! これは大きい、伸びる伸びる! ホームラン! 凄い! 君の息子は凄いな! さすが未来の大リーガーだ!」
そして皆はかすれた声で笑う。やせ細った身体と朦朧とした意識からは、どんなにおかしくてもそんな音しか出ない。ニールもそれで恥ずかしそうに笑う。
誰も信じていなかったが、ニールには妻がいるのだという。出兵する時にはお腹に子供までいたそうだ。
「それは男の子かい、女の子かい?」
「それがびっくりすることに、男と女の双子が産まれたんだよ!」
きっと戦場で頭のどこかを打ってしまったのだろう、とみなは噂していた。もしくは心のどこかを壊してしまったのだと。
#03
その夏は腸チフスが流行した、とジェイムズは言う。朝から晩までうめき声が寝台から聞こえた。ひどい糞便の臭いがした。泣き声もよく聞こえた。時には神様の名、母親の名、妻の名を呟く声も聞こえた。やっと静かになると、それは息を引き取ったということだった。
感染源のひとつは、大繁殖したネズミだった。奴らは病人の動かない足をかじった。
ジェイムズに誰かが、ドイツ兵に猫を貰えないか聞いてくれと言った。もちろんそんな要望が通る訳がない。冗談だ。その会話をニールが聞いていた。
「猫? どうして猫なんかが欲しいんだい? 飼うなら犬の方が楽しいんじゃないかな」
「猫はネズミを食べるんだよ。猫がいたらネズミは減り、伝染病だってきっと減るんだ」
それでニールは本当に驚いたようだだった。
「そうか、それは知らなかった。わかった」
「わかった?」
「ぼく、猫を連れて来るよ。それもたくさん」
さすがにその言葉で笑った者は誰もいなかった。それでも後に、皆はニールに感謝を述べた。どういう訳か、ネズミの数は確かに激減したからだ。
# 04
その秋は飢えと無意味な暴力が彼らを襲った。いっそうの食料不足、常にイライラとしたドイツ兵。その理由はひとつの可能性を示していた。
ニールは昼間、皆の輪の中で小声で言ったという。
「今日、イギリス軍がベルギーの首都を解放したよ」
誰かが尋ねた。
「ベルギーの首都ってどこだ?」
ニールはそれを知らなかった。ジェイムズはブリュッセルだと知っていたが、皆には言わなかった。知識を自慢するのは好きではなかったからだ。
「あと二週間もすればイギリスは、ライン川を越えるんだ。年内に戦争は終わる。もちろん連合軍の勝ちだ」
皆はそんな戯言を信じていなかった。表面上は。誰かがぽつりと呟いた。
「それまでは、何が何でも生きてなきゃなあ」
誰もがその通りだと思った。
この噂は約三週間の間、収容所で静かに流行ることになる。イギリス軍第一空挺師団がアーネムで壊滅し、作戦に失敗したことを知るまでは。ドイツ兵が見せつけた新聞に、それは一面で大きく載っていた。
#05
そして厳しい冬がドレスデン収容所を襲った。死体はより冷たくなって発見された。
仲間たちは身体を寄せ合った。立派な毛皮のついたコートを着たドイツ兵が、ホモのヤンキーどもと嘲った。それでも彼らは、そうやって暖を取るしかなかった。たまにはその群れから引き抜かれる者もいた。彼らはすでに事切れていた。
ニールがその人の塊の中で言った。
「もう少しだ。今年中に戦争は終わるんだ」
「やめてくれ」
誰かが言った。
「もう戯言は聞き飽きたよ」
「アルデンヌで戦いが始まったんだ。連合軍が勝つ。クリスマスには戦争が終わるんだよ」
また誰かが言った。
「アルデンヌってどこだよ。知らないくせに」
それはベルギーとルクセンブルクの間にある森林地帯のことだが、やはりニールは知らなかった。
ニールは目をつぶり、首から下げた革袋を握って言う。
「強いぞ、連合軍。パットン将軍は凄いなあ! さすが映画が何本も作られただけのことはある」
『パットン大戦車軍団』は私も好きな映画だ。監督はフランクリン・J・シャフナー、パットン将軍役はジョージ・C・スコット。1970年のアカデミー賞を6部門受賞した。
#06
ニールはクリスマスには必ず終戦になると言っていた。それは絶対確実なのだと。ニールはそんなことを何回も言っていた。何回も皆は裏切られた。
だが今回も皆はそれを信じたのだった。信じなければ死んでしまうからだ。冬の寒さを乗り切るには、布団も暖房も食料も足りなかった。それを補うには気力しかなかったのである。クリスマスまで生き延びれば、必ず祖国に帰れるぞ。皆はそうやってお互いを励ましあった。
そしてクリスマスは終わった。皆の気力の糸は、そこでぷつりと切れた。次々と仲間が倒れていく。大地は凍りついていたので、穴を掘ることはできなかった。だから死体は外に積み重ねられた。死体の上に死体、その死体の上に死体。毎日、その山は大きくなっていく。
誰もニールを責めなかった。ニールがあまりにも自分で自分を責めていたから。
「こんなはずじゃない! こんな歴史は間違っている!」
そしてニールが倒れた。
#07
ジェイムズはニールを看病したが、もう命の火は消えかけていた。最後の晩に彼は、こんなことを言ったという。
「ぼくの革袋を開けてくれ。中に赤いカプセル薬が入っている」
ジェイムズはそれを開けた。いくつかの小物が入っていた。赤いカプセル薬、小さく折り畳まれた紙、すべすべした黒い石。
「薬は肺炎の特効薬だ。絶対に治るんだよ」
「ならばすぐに飲むといい」
そんな薬がある訳がない、とジェイムズは思った。だが言わなかった。ニールは一度、目を閉じた。首を振る力はもうなかった。
「ドクが飲むんだ。だってもうぼくのせいで、同じく肺炎にかかってしまったから。ドクは生き延びて、みんなを救わなきゃいけない」
「そんな薬が無くたって生き延びるさ」
ニールの目には涙があった。
「猫を連れてきたのは間違いだった。未来のことを教えたのも間違いだった。ぼくはただ、みんなを救いたかっただけなのに」
「みんな君の妄想だよ。猫なんてこの収容所にはいないし、ロバートの息子は大リーガーにはならない。私も息子にリドリーなんて名前はつけないし、きっと図書館司書にはならない」
「こんな旅行は間違いだった。ぼくは頭をやられてしまった。みんな死んでしまった。残った時間旅行者はぼくだけだ」
「君はタイムマシンの話をしているのか?」
「その石だ。その石がタイムマシンなんだ。ああ、使い方を教える時間がない。いつか誰かが取りに来る。それまで預かっておいてくれ。お願いだ、お願いだ、お願いだ……」
ジェイムズはニールの目を閉じてやった。そして革袋を持って隔離棟を出た。雪が積もる中を、みんなの元に戻る。
途中、光る緑色の目を見た。闇の中で無数に目が光っていた。いるわけがなかった。特に真冬の野外には。猫なんているわけがないのだ。
# 08
2002年6月13日。
その日は朝から弱い雨が降っていた。ジェイムズのために、たくさんの参列者が集まり、傘もささずに立っていた。その中には往年の大リーガー、アーネスト・スティールの姿があった。
「あのう」
私は右手を差し出して言った。彼はそのホームランを量産した大きな手で私と握手してくれた。
「失礼ですが、ジェイムズとはどのような関係だったのでしょうか?」
「私の父ロバートは、ドレスデン収容所でジェイムズに大変お世話になったそうなんだ」
アーネストは言葉を続ける。
「ジェイムズは、息子には絶対リドリーという名前は付けないと言っていたそうだが」
「私は母の連れ子なんです」
「君の仕事はやはり図書館司書なのかい?」
「そうです。すべてニールの予言通りになりました」
#09
私の目の前には、ニールの遺品がある。父であるジェイムズから受け継いだ物だ。小さく折り畳まれた紙、すべすべした黒い石。
小さく折り畳まれた紙は写真だ。写っているのは妻のメリッサ。おかしな点はいくつもあるのだが、最大のものはそれがカラー写真だという点だろう。
そしてすべすべした黒い石。これはタイムマシンだった。ただしすでに故障して多くの機能が失われている。
私はもうひとつの黒い石、私のタイムマシンをポケットから取り出すと、それを起動して未来へと向かった。
#10
時空管理局の発着ポートに出現した私は、頭上にタイムマシンをかざした。すぐに確認が終わり、局員が駆け寄って来る。
「おかえり、リドリー。君がここを訪れるということは、ジェイムズは亡くなったんだね。お悔やみを申し上げるよ」
「ありがとう。局長は待ってるかな?」
局員に案内されて、私は局長室へとやって来た。部屋の中には局長の他に4人の局員が、大きな丸テーブルに座っている。私は壊れたタイムマシンをテーブルの上に乗せた。
局長がそれを見て言った。
「ニールのタイムマシンを持ってきてくれたことを感謝する。これで時空管理局からニール、ニールからジェイムズ、ジェイムズからリドリー、リドリーから時空管理局と、タイムマシンは無事に回収された」
それから柔和な顔になる。
「君はずいぶん歳を取ったね。別れたのはたった1時間前なのに」
「私にとっては30年以上前の出来事ですよ」
ジェイムズの息子である私の前に、未来から時空管理局員がやって来たのは20歳の時だった。彼らにここへ連れて来られた私は、長い長い説明を聞いた。そして私は、ひとつの依頼を受けた。ジェイムズからタイムマシンを譲り受けたら、それを返却して欲しい。
ジェイムズから盗み出すことも、彼らはやろうと思えば容易にできた。それをやらなかったのは、ジェイムズを苦しませることになると判断したからだ。彼らに急ぐ必要性はまったくなかった。
「これで私の仕事は終わりですね」
局長は頷くと、大きなトランクケースをテーブルの上に乗せた。中には前金でもらった分と同じ量の金塊が入っているはずだ。
「報酬を受け取る前に。まずはニール・バックリーについて教えてください。そういう約束だったはずです」
それで局長は、ゆっくりと話を始めた。
#11
ニールは大学4年生だった。卒業論文を書くためにタイムマシンで第二次世界大戦中のドイツへ、仲間5人でやって来た。彼らは幽霊状態にあり、それは絶対に安全なはずだった。
「だがタイムマシンは故障してしまった。戦場のど真ん中で実体化し、彼らは一瞬で穴だらけになった。ニールひとりを残して」
彼はドイツ兵に捕まり捕虜となった。その時代の人間にとって奇妙にしか見えない服は奪われた。タイムマシンだけは幽霊状態モードのおかげで手元に残った。
「どうして彼を救出しなかったのですか?」
「彼はもう、あの時代の重要人物として組み込まれてしまったんだ。彼を救出することは、時間線を完全に壊してしまう可能性が極めて高かった」
「時間線を壊してしまう?」
「この世界が消えてしまうということだよ」
ニールを乗せた列車は、ドレスデン収容所に到着した。
「彼のタイムマシンは壊れていたけれど、未来を覗くことができました。彼はそれで様々な情報を仲間たちに与えました。でもそれが、歴史を変えてしまったんです」
「いや、彼は歴史を少しも変えていないんだよ」
「何ですって?」
「言っただろう。彼を救出すると時間線を壊してしまう、と。つまり逆に言えば、過去に彼が取り残された時間線こそが正しい物なんだ。わかるかい?」
「つまりニールは最初からあの時代に取り残され、彼にとっての歴史を変える運命にあったということなんですね」
1945年初頭、ニールは肺炎で死んだ。未来から来た彼は、書類上では不完全な人間だった。たくさんの役所の人間が首を傾げたが、戦後の混乱の中で深く調査されることはなかった。
やがて書類上では存在が完全に消えてしまった。ただドレスデン収容所の元捕虜たちの記憶にだけ長く残った。
「わからないことがふたつあります。彼はどこから猫たちを手に入れたのでしょう? どこから肺炎の特効薬を手に入れたのでしょう?」
「それがわからないんだ。時空管理局の全局員を調査したが、協力者は見つかっていない」
#12
家に帰って来た私はソファに座り、局長からの提案について考えていた。彼は、時空管理局の局員にならないかと私を誘ったのだ。
特に才もない人間だが、私は時間旅行についての知識がある。タイムマシンを使う技術もある。おそらく一から新人を育てるより、早くて安上がりなのかもしれない。
そうやってソファに座っている間に、うとうととしていたらしい。はっと気が着くと、目の前にボロボロの服を着た幽霊が立っていた。すぐに彼が誰かはわかった。
「君はニールだね」
「うん。君はジェイムズの息子リドリーだね」
彼は笑みを浮かべた。
「今日はタイムマシンの調子がいいみたいだ。まさか会話までできるなんて」
「ドレスデン収容所から逃げることはできないのか?」
「できない。そしてもう、逃げる気はないんだ。ぼくはひとりでも多く仲間たちを救うおうと決めた。それが過去に残された理由だと思ってるんだよ。最初は、地獄から救出してくれない時空管理局を恨んだけどね」
彼は突然に言った。
「猫が欲しい」
「何だって?」
「幽霊状態の猫がたくさん欲しい。ぼくのいる所に送って欲しいんだ。壊れたぼくのタイムマシンではできない」
「残念だけど私はただの図書館司書だよ」
彼は続ける。
「肺炎の特効薬がひとつ欲しい。これがないとどうなるか、君にはわかるだろう?」
それがないとジェイムズは死んでしまう。私の母はジェイムズと再婚できない。つまり私は、彼の子供にならないのだ。
「君には一体、どれくらい未来が見えているんだ?」
「バラバラでぐちゃぐちゃなんだ。ある時代が見える日もあれば、別な時代が見える日もある。そして同じ時代なのに、別な歴史になっていることがある。もうぼくも、何が正しいのかわからない」
ニールは言う。
「それでもこれは確実だよ。戦争は終わり、ぼくたちはアメリカに帰る。ドイツからお土産さえ持ってね。ぼくは素敵な金時計をふたつ手に入れるんだ」
くすくすと彼は笑った。そして笑い声と共に消えて行った。
私は知っている。
1945年2月13日から15日にかけて、連合軍によるドレスデンへの空爆がある。それは街の9割近くを破壊した無差別爆撃で、一説には民間の死者は15万人。連合軍捕虜もまた、数多く亡くなるのだ。
#13
時空管理局の局員を呼び出した私は、未来へと飛んだ。そして局長と握手した。私もまた局員のひとりとなったのだ。
いま手元には、私専用のタイムマシンがある。時空管理局に見つからないよう、猫を過去に送るつもりだ。肺炎の薬を必ず彼に渡すつもりだ。そのように定められているのだから。
闇の中に光る猫たちの目を、ジェイムズは必ず見るだろう。
闇に光る猫たちの目【改訂版】 深上鴻一:DISCORD文芸部 @fukagami
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます