雪を溶く熱

Han Lu

ある現象

 その日最後の作業を終えて、美冬は筆を机の上に置いた。

 椅子から立ち上がり、伸びをする。首と肩をぐるぐると回しながら、美冬は窓際に歩み寄った。

 仕事場であるアトリエのガラス窓から外を見ていた美冬の顔を、車のヘッドライトの光が照らした。

 美冬は壁時計を見た。

 八時十分。

 車は美冬の家の前で停まった。

 美冬は窓から離れ、仕事机の上に置かれているガラスのトレイから腕時計を取り上げて、左手に着けた。次にブレスレットを手に取ったが、すぐにまたトレイに戻した。

 顔を上げて、美冬は二十畳ほどのアトリエを見渡した。客用の椅子、ローテーブル、ガスストーブ、そしてイーゼルへと美冬の視線は移動して、そこで止まった。背中に手をまわし、エプロンの紐に触ったとき、エンジン音が途切れた。結局、エプロンを着けたまま、美冬は再び窓のそばに立った。

 午後から止んでいた雪が再び降り始めていた。かすかに車のドアを閉める音がして、門の前に人影が現れた。人影は、門柱にある呼び鈴のボタンを押す。その反応を待つ素振りを見せず、すぐに人影は門を開けて庭に足を踏み入れた。両側に掻き上げられた雪の真ん中にできた小路を、人影はゆっくりと玄関に向かって歩いてくる。

 美冬はアトリエから玄関に通じる引き戸を開けるとスリッパを脱ぎ、敷居をまたいで、土間に置かれたサンダルに分厚いソックスを履いた足を滑り込ませた。引き戸は開けたまま、広い土間を足早に横切ると、玄関の扉の前に立った。扉のすりガラスの向こうに、頭上の灯りに照らされた長身の人影がぼんやりと浮かび上がっている。美冬は扉を開けた。美冬と同じくらいの歳の男が立っていた。

「やあ」と男が言った。

 美冬はただうなずいただけだった。

「突然、夜分にすまない。実は、いや、たぶんおばさんたちから聞いてると思うけど――」

「そのことは聞いてる。それに、栄子おばさんからも電話があった。一週間ほど前に」

「おふくろから?」

「うん。あなたがそっちに行くかもしれないって。入って」美冬は体をずらした。「久しぶり。秋人」

「久しぶり」秋人は玄関に足を踏み入れて、扉を閉めた。「あの呼び鈴、まだ壊れたままなんだな」

「ああ」アトリエに向かいながら美冬は言った。「めったに人、来ないから」

「不用心だ」

「うん」美冬はアトリエとの敷居の前でサンダルを脱ぎ、アトリエ側の床に置かれたスリッパを履いた。「そこで靴脱いで、これ履いて」

 秋人は履き古したトレッキングシューズを脱いで、美冬が用意したもこもことした毛でおおわれたスリッパを履いてアトリエに入り、引き戸を閉めた。

「知り合いの電気工事屋に頼んでおこうか」

 秋人の言葉に、美冬が振り返った。

「ああ、インターフォン? 別にいいよ。ほんと、人来ないし。だからここ借りたんだし」

「お隣さんは?」

 美冬はアトリエの一方の壁のほぼ全面を占めている大きな窓のカーテンを閉め始めた。

「実はね、お隣の娘さんが」美冬はそこで言葉を切った。

「消えたのか」秋人が尋ねた。

 カーテンをすべて閉め終えて、美冬は秋人の方を振り返ると、両手で自分の二の腕をつかんでうなずいた。

「たぶん、フェノミナ」

「そうか」

「最近あんまりご両親の姿も見かけなくなった」

 秋人はズボンのポケットからスマートフォンを取り出して、軽く振ってみせた。

「わかったわ」カーテンの前の美冬が肩をすくめた。「じゃあ、お願いする」

 うなずき、ゴアテックスのブルゾンを脱ぎ始めた秋人に、美冬は言った。

「適当に座ってて。おなか、減ってない? なんか作るけど。それとも、コーヒーがいい?」

「コーヒーだけでいい」

 美冬はアトリエの中央に置かれたガスストーブからやかんを持ち上げると、客用の椅子に座って電話をかけ始めた秋人をアトリエに残して、キッチンに移動した。

 美冬がコーヒーの入ったマグカップ二つをのせたトレイを手に戻ってきたとき、秋人は窓辺に立ち、カーテンを少し開けて外を見ていた。

「ここ、置いておくね」

 客用の椅子の前のローテーブルに、美冬はマグカップを二つ置いた。トレイをいったんローテーブルの脚に立てかけると、椅子の背に無造作に置かれていた秋人のブルゾンを取って、壁際のハンガーにかけた。

「ありがとう」秋人はスマートフォンを操作しながら振り返った。「工事いつでもいいってさ。一度見に来るからって。連絡先転送しておく。また都合のいい時、連絡してみて」

 仕事机の上に置かれていた美冬のスマートフォンが一度振動して、止まった。

「わかった」

 キッチンへトレイを置きに行った美冬が戻ってくると、秋人は客用の椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。

 美冬はローテーブルから自分のマグカップを取って、イーゼルの前に置かれた、背もたれのない小さな三脚のスツールに腰かけた。

「一応、見守りサービスの話もしてくれると思う」低い椅子に座った秋人が美冬を見上げるようにして、言った。「話だけでも聞いてみて」

「いいよ、そこまでは」

「いくら田舎で人がいないからって、不用心すぎる。この部屋、外から丸見えなんだし」

「古い農家を、ほとんどそのまま使ってるからね」

「だからなおさら、だよ」

 美冬は視線を落として、小さく二回、うなずいた。そして、ふっと息を吐いた。

「ほんと、心配性だよね。秋人は」

 そこで二人は同時に笑った。 

「それぐらい心配性じゃないと」秋人が言った。

「俺のキャッチャーは務まらない」美冬が言った。

 コーヒーを一口飲んで、美冬は尋ねた。

「それで、いつ向こうに行くの」

「ん」秋人はマグカップを口に付けたままくぐもった声を出した。

「それ、言いに来たんでしょ」

 秋人はマグカップから口を離した。「明日」

「明日、か。一人で行くの?」

「ああ。ほんとは瑞江おばさんたちと一緒にって思ったんだけど。俺に任せるって」

「そっか」美冬は手の中のマグカップに向かって言った。「ようやく会えるんだね。倫くんに」

 この日、秋人が美冬のもとを訪れてから初めて、長い沈黙が二人の間に落ちた。

「大丈夫?」美冬が言った。

「ああ。たぶん」秋人は空になったマグカップをローテーブルの上に置いた。「まず、警察署に行って、身元確認して、あとはほとんど専門の業者がやってくれる。ここまでの搬送も。俺もその車に乗って、明日のうちに戻ってくる」

「見てみる?」

 唐突な美冬の言葉に、秋人は首をかしげた。

「瑞江おばさんから、聞いてない?」

 秋人はあいまいにうなずいた。「一応、聞いては、いる」

 ゆっくりと立ち上がった秋人の視線は、美冬が座っているスツールのすぐそばにあるイーゼルにじっと注がれている。イーゼルにのせられたキャンバスには布がかかっていて、何が描かれているかは見えなかった。

「いいのか」

「いいよ。まだ下絵だけど」美冬はスツールから立ち上がって、ローテーブルに置かれた秋人のマグカップを持った。「片づけてくるね」

 秋人は美冬と入れ替わるようにイーゼルのそばに立ち、キャンバスを覆っている布に手を伸ばした。

 美冬が洗い物を終えてアトリエに戻ってくると、秋人はイーゼルの前のスツールに座り、美冬の描いた絵を見つめていた。

「こういう、肖像画みたいなリアルな絵は仕事では一切描かないから、最初は断ったんだけど。おばさんがどうしてもって」

「うん」秋人は絵を見たまま言った。

「それで、どう?」

「うん、いいと思う」

「うん、いいと思う?」

「ああ」

「それだけ?」

 秋人は不思議そうな顔をして、美冬を振り返った。

「だめなのか、それだけじゃ」

 美冬は腕を組んでうなだれた。

「もっとさ、なんかあるでしょ」

「なんかって」

「わかんないけど、ここはもっとこう、とか。ここはちょっと違う、とか」

「いや、特には」

「あんた」美冬は深くため息をついた。「曲がりなりにも倫くんの元恋人なんだからさ。一番近くで、一番たくさん彼のことを見てたんだよ」

「そうだな」秋人はまた絵の方に顔を向けた。「でも、本当によくわからないんだよ。あいつの顔はもちろん覚えてる。それに、この絵は本当にあいつそっくりに描けてる、と思う。ただ、そのふたつが上手く俺の中で結びついてくれないんだ。ごめん、うまく言えないんだけど」

「わかったわ。そっくりって言ってもらえただけで充分ってことにしておく。それにしても、本当に写真、一枚も残ってないの」

「俺の手元にはない。あいつが写真撮られるの嫌いなの、知ってるだろ」

「まあね。あんなに美形なのにね。でも、子供の頃の写真とかは」

「あいつが姿を消したときに、一緒に」

「ああ。そういえば確かフェノミナでも、その人の持ち物が一緒に消えることがあるって」

「たまにあるらしい。俺たちもそう思った」

 秋人は絵に再び布を被せて立ち上がった。

「そろそろ行くよ」

「うん。わざわざ来てくれてありがとう」

「こっちこそ、連絡もせずに突然来てしまって、すまなかった」

「いいのよ。インターフォンありがとね」

「いや」

 美冬は壁に掛けられたハンガーから秋人のブルゾンを取った。

 秋人はさっきと同じ場所に立って、カーテンの隙間から外を見ていた。雪はまだ降り続いている。ブルゾンを手に、美冬は秋人の背後に立った。

「何年振りかな」

 美冬の言葉の意味を一瞬測りかねたように、窓ガラスに映っている美冬の顔を秋人は見た。

「こんなにも積もったの」

 付け足された美冬の言葉に、ああ、と秋人はうなずいた。

「たぶん五年ぶりくらいじゃないか。昔は毎年これくらい積もってたよな」

「冬は練習できなかったよね」

「強豪校じゃなかったし、公立高校だったから、冬の間はもっぱら屋内練習ばっかだったな」

「まあ、マネージャーとしては楽ちんでありがたかったけどね。汚れないし」

「あいつの欲求不満が大変だった」

「まともな投球練習、できなかったもんね」

「制球に大いに難ありのくせに、やたらと思いっきり投げたがったからな。あいつをリードするのは本当に苦労したよ」

「でも、たのしかった」美冬はブルゾンを秋人に差し出した。

 秋人は無言でそれを受け取ると、袖を通した。

「たのしかったよ。俺にしかできなかった」

「口癖だったもんね、倫くんの。それぐらい心配性じゃないと、俺のキャッチャーは務まらない」

 美冬の言葉に、秋人はうなずいた。

 二人は窓のそばを離れて、玄関へとつながる引き戸に向かった。

 ふと、引き戸のそばで、秋人は立ち止まった。

 戸の脇に置かれている小さな棚の上に、硬球が置かれている。秋人はその硬球から美冬に視線を移した。

「まだ持ってたのか」

「まあね」

「前に一度来たときは、確か、なかったよな」

「このあいだ、古い荷物を整理してたら出てきたの。惜しかったよねぇ、あの試合」

「ああ。でも、いい試合だった」

「うん。これ、持っていく?」

 秋人は硬球に手を伸ばしかけて、止めた。

「いや。これは、お前が持っててくれるとうれしい」

「わかった。じゃあ、持ってる」

 美冬が引き戸を開けた。秋人はスリッパを脱いで、土間に置かれたトレッキングシューズに足を突っ込むと、しゃがんで紐を結び始めた。秋人の背中に美冬は言った。

「おばさんたちに、よろしく言っといて」

「ああ。わかった」

「でもさ、ありがたいよね」

「ん?」

「私たち、幼馴染三人がさ、こうやってぐっちゃぐちゃな関係になっちゃってるのに、親たちはそんなの我関せずって感じで、普通に仲良くやってるんだもん。最初はさ、は? って思ったよ。ちょっとは心配しろよって。もちろん心配はしてたと思うよ。でも、みんなびっくりするくらい普通でさ。今は、すごいなって思うんだ。そういうの、なかなかできない。さすがだよ」

「いやでも、うちのは、ちょっとな」秋人は紐を結ぶ手を止めた。

「え、そうだったの?」

「親父がな。俺とどう接したらいいのか、一時期かなり悩んだみたいだ」

「おじさん、そんなふうには見えなかったけどね。倫くんのところは、ぜんぜん問題ないって感じだったけど」

「あそこはかなりフリーダムだったからな」

「だね」

 紐を結び終わった秋人が立ち上がり、美冬もサンダルに履き替えて、二人は土間を歩いた。美冬は玄関の扉を開けた。

「じゃあ、また」

「うん。倫くんによろしく」

 ちらっと美冬の方を振り返り、秋人は出ていった。

 美冬は扉を閉めると、アトリエに戻り、さっき秋人が立っていた場所から窓の外を見た。秋人はゆっくりとまた門の方へ、雪に囲まれた小路を歩いていた。ブーン、と仕事机の上の美冬のスマートフォンが振動し、すぐに止まった。仕事机に目を向けて、再び窓の外に戻した美冬の視線の先に、秋人の姿がなかった。一瞬のうちに、美冬の視界から、秋人は消えてしまっていた。とっさに門の向こうに目をやって、秋人の車がまだ停まっていることを確認した美冬は、アトリエを飛び出した。

 防水ブーツを履き、慌てて玄関を出る。駆けだそうとした美冬は、しかし、すぐさま立ち止まり、危うく転びそうになった。

 門柱と玄関の灯りから外れた庭の暗い部分の雪の上に、秋人が大の字になって横たわっていた。

「ちょっと、なにやってんのよ」

「ああ」秋人は間の抜けた声を出して、わずかに顔を上げた。「急に寝っ転がりたくなってな、なんとなく」

「なんとなくじゃないわよ」言いながら、美冬は雪を蹴散らして、ずんずんと秋人が寝ているそばまでやってきた。「心配するじゃない」

「いや、雪の上だし」

「そうじゃなくて。急に消えたように見えたのよ、あなたの姿が」

「それは……」秋人は上半身を起こした。「すまなかった」

「まったく」

 秋人はふたたび雪の上に寝転がると、くいくい、と手招きした。

「わ、私はやらないわよ」

「前はよくやったじゃんか。三人で」

「いつの話よ」

「ええと、小学生のとき?」

「どんだけ昔よ」

 秋人は手招きを止めない。美冬はため息をついて、勢いよく秋人の隣に寝転がり、その拍子に、肘鉄を秋人の腹部に食らわせた。

「いててて」

「でも、あんたたちは高校のときまでこんなことやってたわよね」

「ああ、あれはさ」秋人は腹をさすりながら、上空を見た。「倫がやりだしたんだ。屋内練習のあと、暖まった体をグラウンドの雪の上にダイブさせて言ったんだ。俺たちの熱で雪を溶かしてやろうぜって」

「それで、みんなして騒いでたのか」

「馬鹿だよな」

「馬鹿ね」

 美冬も暗い空を見上げた。雪が二人の体に落ちてくる。

「仕事はどうなの、うまくいってるの」

「おかげさまで。いい会社だと思うよ、前のところと違って」

「それ」美冬は秋人のブルゾンの下から覗いている会社の制服の胸に付けられたカラフルな丸いバッジを指さした。「それ、SDGsでしょ」

「ああ。ダイバーシティ・マネジメントにも力を入れてるし、今後はLGBTの就労支援もやるみたいだ。ほら、俺が倫と付き合ってたこと知ってる人間も多いから、たまに意見を聞かれることもあるんだ。でも」

「でも?」

「俺はよくわからないんだよ。自分が本当はどういう性的指向を持っているのか」

「私とも付き合ったことあるしね」

「うまくいかなかったけどな」

「私が気に入らないのはね、みんなあなたと倫くんのことは覚えてるのに、私と付き合ってたことは、忘れちゃってるってことなのよ」

「忘れてるかな」

「実際言われたことあるし。ああ、そういえばそうだっけって。なんかさ、そういうの腹立つ」

「別にいいじゃないか。本人たちが覚えていればそれで。逆に面倒だろ、昔のことをとやかく言われるのって」

「ううん。そういうんじゃなくて、私は倫くんに絶対勝てないって言われてるような気がして」

 美冬は暗い空に手を伸ばした。空から落ちてくる白いかけらを、そうやっていくつかつかみ取った。秋人も同じように手を伸ばし、手のひらを空に向けた。

「倫が消えて、だいぶ経って、俺たちが付き合ってた頃、俺、よく言ってただろ。誰かにずっと会えないっていうのは、その誰かが死んでいるのとどう違うんだって。そいつが死んでしまったのと同じなんじゃないかって。でも、そうじゃないって、お前、言ってたよな。生きてるってことは、またいつか会えるっていう可能性があるってことなんだって。今は会えなくても、いつか会えるかもしれない。でも、死んでしまったら、もう会うことはできないんだって。あの頃の俺にはお前の言葉が理解できてなかった。でも、倫が見つかって、ようやく俺は実感した。倫とはこうなってしまったけど、俺たちには会える可能性がずっと続いてたってことなんだ。それだけでも、俺はなんか救われた気がするんだ。フェノミナなんていう、よくわからない現象で、人が突然姿を消すようになって、消えた人はだれ一人として戻ってこなくて。倫はそれとは違ったんだ。あいつが向こうでどんなふうに生きていたのか、俺ははっきりとは知らない。幸せだったのか、不幸だったのかも知らない。ただ少なくとも、生きてたんだよな。消えてなくなったりしてなかったんだよな」

「ごめんね」美冬は手のひらで溶けてしまった雪のあとを見た。そして、手を下ろして言った。「ごめんなさい」

「なにが」秋人も手を下ろし、隣に寝ている美冬に視線を向けた。

「だって、ぜんぶ私のせいだもん」

「そんなことはない。それについては何度も話しただろ」

「確かに、これまでは倫くんがフェノミナにあって消えてしまったのか、自分の意志で姿を消してしまったのかわからなかった。でも、フェノミナじゃなかった。倫くんは自らの意志で私たちの前から姿を消した。そしてその理由は、どう考えても私だ。私がいるから、私の気持ちを知っていたから。だからだよ。だからやっぱり、私のせいなんだ。今さらそんなこと言ったってどうしようもないし、言われたって困ると思うけど、謝らせてほしかった。ごめん」

 がばっと、美冬は体を起こした。

「さあ、いいかげん、戻らないと。風邪ひいちゃう」

 秋人も立ち上がった。

 雪を払いながら、美冬は言った。「明日は何時の電車?」

「八時」

「早っ」

「なるべく早く戻ってきたいからな」秋人は車の方に目をやった。「春に、たぶん異動になる。A市にあるオーガニック食品を中心に展開してるフラッグシップ店舗に。店長をやってくれって」

「すごいじゃん」美冬は秋人の腕をたたいた。

「ありがとう」

「私」美冬は半分雪で埋もれている自分の防水ブーツを見下ろした。「たぶん式は行かないと思う」

 秋人は無言でうなずいた。

「だからたぶん、あなたとは当分これでお別れだと思う」

 ふたたび、秋人は無言でうなずいた。

「でも、生きてる」秋人は言った。

「うん。生きてるよ」

「消えるなよ」

「あなたも。消えないでね」

 みたび、秋人はうなずいて、美冬に背を向けた。


 ざくざくと雪を踏みしめながら、美冬はゆるやかな斜面を登っていた。

 美冬のアトリエ兼住居のすぐ近くの小さな丘の上に、梅林公園があった。その公園からだと、美冬たちが住む町と近隣の都会を結ぶ在来線の駅が一望できた。雪に反射した朝の陽ざしを受けて、まぶしさに目を細めながら、美冬は公園の入り口に立った。

 美冬の手には、アトリエに置かれていた硬球が握られている。

 秋人が乗り込むはずの電車がホームに近づいてきて、やがて停車した。美冬が立っている場所からは、屋根が邪魔をして電車に乗り込む人たちの姿は見えない。かすかに発車のアナウンスが聞こえてきて、電車はゆっくりとホームを離れた。

 急に激しい風が吹いた。風で飛ばされた、木の上に積もっていた雪が美冬の顔に当たった。とっさに動かした美冬の手の中から、硬球がこぼれ落ちた。硬球は、斜面に備え付けられている小さなコンクリート製の溝にこつん、とぶつかると、そのまま溝の中を転がり落ちていった。「あっ」と美冬は思わず声を上げた。硬球はころころと溝をつたって丘の下を流れている小川に落ち、雪解け水の激しい流れにのって、見えなくなってしまった。

 美冬は追いかけようとして斜面を下りかけたが、雪の下の木の根に足を取られ、雪の上に両手と両膝をついた。そのままぺたんとしりもちをついて、しばらく小川の流れる先を見ていた美冬はやがてゆっくりと立ち上がり、斜面を登って、公園まで戻った。

 眼下の駅から続く線路に、もはや電車の姿はなく、駅のホームに人の気配もない。

 ときおり、まわりの木々から、雪がぼたりと落ちる音が聞こえてくる。

 美冬はその場にしゃがみこみ、両腕で顔を覆った。そして小刻みに、肩を震わせた。

 どれくらい経ったのか美冬にはわからなかった。突然、美冬の肩がそっと揺さぶられた。

 はっと美冬が顔を上げると、いつの間にか、小さな女の子が美冬の肩に手を置いて、じっと美冬の顔を覗き込んでいた。

「どうしたの?」女の子が言った。「お姉ちゃん、お腹、いたいの?」

 手のひらで頬をこすりながら、丸めていた体をゆっくりと起こして、美冬は女の子に向き直った。

「ううん。お腹はいたくないの」美冬は言った。「あのね、お姉ちゃん、大事なものを失くしちゃったの」

「そっかー」女の子は、残念そうにうなだれた。「わたしもね、このまえね、なくした。うさちゃんカメラ。めいさいのやつで、すっごいレアなやつ」

「そっかー」美冬は、ミトンの手袋をはめている女の子の手を握った。「残念だったね」

「でもね、もっとレアなやつがあたるかもしれないからね。しるばーのやつとか。だからいいの」

「うん。そうだね。そうだよね」

 美冬は女の子の背後を見た。

「ひとりで来たの?」

「おかあさんと」

 美冬たちから少し離れた場所に、チャイルドシートのついた自転車が停められているのが見えた。

「おかあさんは?」

 美冬の言葉に、女の子は首を振った。

「しらない」

 女の子の手を握ったまま、ゆっくりと美冬は立ち上がった。

 公園には美冬と女の子のほかに、人の気配はなかった。

 美冬は、母親はいったいどこにいるのだろうかと、人気のない、辺りいちめん雪で真っ白な、公園を見渡した。

                                   終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

雪を溶く熱 Han Lu @Han_Lu_Han

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ