2 第22話 宴の席
坂の下で、従者と共に不安げな顔で待っていたエルクのムーに声をかけると、鼻を鳴らしながらすり寄ってきた。レラが微笑みながら
「もう大丈夫よ、心配させてごめんね」
「ぶふっ!」
坂下の通りから見上げる作業場は、それなりの距離があるように見える。けれど聡い獣たちは妖魔の気配を感じて、落ち着かない気持ちで居たことだろう。
銀狼ナギもサナトを見上げ、頷くように身体を揺らし尾を振った。
「早く気づいてよかったな」
「ええ」
手綱を受け取るレラも、心底安心したような笑みを向ける。
横ではムラトから経緯を聞いた村長の従者が、胸を撫で下ろしていた。
「サナト様、フィオレラ様、オレグ村長のお屋敷はあちらでございます」
「ここより遠いのか?」
「いえいえ、村の真ん中にありまして、何か相談事がある時は会議所としても使っているお屋敷です。村に宿はありませんから、今夜のお部屋もそちらにご用意させていただきます。是非、ゆっくりとなさって下さい」
丁寧な案内に、サナトとレラは顔を見合わせる。
それほど時間が経ったような気はしていなかったのだが、見上げれば陽は西に傾き、夕暮れ時に近いことを知らせている。夏至間近ということもあって完全な日没にはまだ遠いものの、家々からは
この村で一泊せずに、次の地へ向かうことはできなさそうである。
「ご厚意、お受けいたします」
返すレラの言葉に、ムラトも嬉しそうに頭を下げる。
ここにも里の夕暮れ時と変わらない、穏やかな一日の終わりが目の前に広がっているのだと思うと、サナトは不思議な気がしてならなかった。
◆
村を南北に貫く通りのほぼ中央、山側の道沿いに村長の屋敷はあった。
扉に独特の民族模様を彫り上げ花を飾る。作業場の懸念はあっても、総じて村は平和で、実りも豊かなようであった。
入り口でサナトたちを出迎えた者たちは、さっそく
「サナト様、夕べ獲った兎を」
「そうだな」
下ろした荷物に括っていた野兎の皮を渡すと、受け取った案内役のムラトは、驚いた顔で声をあげた。
「これは毛並みのいい、しかもとても綺麗な剥ぎ方です」
「利用できるなら使ってほしい」
「いいのですか?」
「俺たちが持ち歩いていても仕方がないからな」
サナトが苦笑しながら言う。ムラトは軽く掲げてから、直ぐに側の村人に見せてどのように使おうかと話題に花を咲かせた。
奪った命なのだから皮の一枚も無駄にはしたくない。それはこの渓谷の人々にとっても同じ気持ちで、ムラトは大切に利用させてもらうと笑顔を返した。行儀よく腰を下ろすナギもどこか自慢げな顔でいる。
「その野兎を獲ったのは、このナギなのだ」
「はぁぁ……賢いですな。こちらの銀狼様はサナト様の守護を仰せつかっているのでしょうか?」
「わふっ?」
ナギが首を傾げる。
単なる甘えん坊でどこにでもついて回るだけなのだが、先程は村人を守ろうと立ち回っていたことを思えば、確かに守護といってもいいだろう。
「まぁ、そんなところだ。今夜休む部屋にも連れて入りたいのだが、いいか?」
「はい、そのようなことでしたらもちろんです。どうぞ。どうぞ」
屋敷の中へと促される。
特別にサナトに付き従い屋敷に入ることが許さて、ナギも嬉しそうに続いた。
一頭だけ屋敷の外で待っていても、それはそれで道行く人を驚かせてしまう。堂々と付き従う従者の風格に、村人たちが理解を示してくれたこともあったのだろう。
屋敷は、周囲の民家より一回りは大きく、扉や柱は古く使い込まれていた。
高い天井と
深淵の森の里には無かった建物の造りである。
そのまま奥の間へと進む。丁寧に案内された部屋は、明るい
広間の中央に置かれた大きな
村長のオレグが準備を整え、村の主たる者たちの顔を揃えて待っている。
「夕食の時間には少し早いかもしれませんが、お疲れでしょう。まずは飲み物でも。お二方とも、お酒は
「これは、何かの祭か?」
促され席の奥に座ったサナトは驚きの顔を隠さず尋ねた。隣に座したレラが十数人と集まった村人を眺めて答える。
「お祭りではなく、サナト様がいらした歓迎の会食ではないでしょうか」
「皆で……食事をとるのか?」
サナトの斜め横、奥の座に腰を下ろした村長が、問いかけを聞き留めて尋ねた。
「深淵の森の方々は、皆さんで集まってお食事などはなさらないのですか?」
「数人で酒を酌み交わすことはあっても、皆で集まり食すことは無い」
「そういえば……私が里でお世話になっている間、皆さんとお食事をするということはありませんでしたね」
レラが思い出した様に言う。
怪我をして寝込んでいたせいかとレラは思っていたようで、驚いている。
森の中と外では習わしが違う。年に二度の交流はしていても、互いの深い風習までは知り合う機会もないのだ。それに気づいてサナトは答えた。
「里に住む森の人は、既に人と同じ食事をとれない者もいる。皆で集まって食事をすることがないのは、そういう理由だ。もちろん必要があれば相談事はいくらでもできる。森の
レラは「あ……」と声を漏らした。
森の大佳靈の御前で話をした時、集まった森の人の中で人らしい姿をしているのはサナトと森長ぐらいだった。
それらすべての人が、同じものを食べられる体というわけではないのだ。
村長は苦笑しつつ、サナトに詫びる様な声で言った。
「……そうでしたか。このような会食は不慣れでしたら申し訳ない。何せ深淵の森を旅立たれたお方をお迎えしたのは数十年ぶりのことで、以前はどのようなもてなしをしたか、詳細に伝えられていないもので……」
「村長。俺にとっては初めてのことだが、ここはもう森ではない。だから俺が村の習わしに従うのが筋だ。むしろ俺はこれから外のことを、この身で学んでいかなければならない」
「そうですね、サナト様には学んで頂きたいことがいろいろあります」
レラが頬を赤らめながら口を尖らせた。
サナトは僅かに眉間を
「そのようなことがあったのなら、その場で言えばいいだろう」
「不意を突かれると言いにくいこともあるのです」
分からない。
「それは、いつのことだったのだ?」
「いつ……って、朝の水場の――いえ、今はいいです」
ふい、と顔を背ける。本気で怒っている様子ではない。
戸惑うサナトと口を尖らせるレラを見て、村長は笑いを堪えるように顔を崩した。
と、その時、部屋の入り口の方から声が掛けられた。
村人に手を引かれて、白髪の老婆が入ってくる。赤髪の村娘がしていたように髪を結い上げ、首や両手首に守り石の腕飾りをつけながら、レラと同じように、民族模様の刺繍が施された肩掛けを羽織っている。
ちょうどサナトやレラと向かい合う席に座した老婆は、引敷物に直接手をつき、細い瞳を向けて言った。
「深淵の森を旅立たれた若き森の人よ。クタナの村へよくぞ、お越しくださった」
老齢のため掠れていたが、芯の通った声だった。
何より、取り巻く精霊の気配が濃い。サナトは居住まいを正した。
「あなたが、この村の声聴きか?」
「お分かりになりますか。グルナラ・ザシーワと申す。この様に老いぼれのため、遅れて来ましたことお詫びする」
ふっふっ、と笑って言う。
サナトがその様なことで気を悪くする者ではないと、読んでいる。
肩の力を抜いたサナトはレラと顔を見合わせてから、むしろわざわざ足を運んでくれたことを労った。
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