7 第86話 川の向こう側で
途切れた街道の手前で馬を下りた。
幅広い川だ。河といってもいい。王都アルダンの王城を囲む河も広かったが、目の前の流れは充分それに匹敵する幅がある。ただ、さほど深さは無いようだ。
穏やかな流れの水面は、鈍い陽の光を反射させている。岸辺から張りだした梢の下では、小さな魚の影が踊る。
今通ってきた、獣や虫の気配の薄い森やバルグの廃墟と比べ、水の中は澱の影響を受けなかったのかもしれない。それとも、この川自体が封印の境目になっているのだろうか。
向かって右手が川上となり、流れは北から南へと行く。
太陽の方角の空は雲に覆われ、風の流れに合わせて光の濃淡を見せていた。
「橋、なんて、ないですよねぇ……」
様子を見るパウルが、上流から下流へと頭を巡らす。
手前の流れは穏やかであっても、中程や、向こう岸近くの深さが分からない。
「渡れそうですか?」
「元街道であった場所だ。さほど深くはなかろう」
「
ニノやアーニア、ジーノが様子を探る。
馬の胸までの高さは、銀狼ナギの体高とほぼ等しい。ナギは泳ぎを得意としているし、馬も胸が浸からない程度の深さまでであれば、渡れなくないだろう。
念のため誰かが手綱を引き、川底を確かめながら行けばいい。
「馬越しするとなれば、少しでも確かな道筋を見つけたいな」
「精霊に訊けば教えてくれたりは、ないですかね?」
サナトの呟きに尋ねたパウルへ、顎に指を当てつつ苦笑いで答える。
「んん……どうだろうな。精霊は気まぐれだから、訊けば何でも答えてくれるというものではないし、そもそも川の深い浅いなど気に留めていない。人や動物が渡るに、都合がいいかどうかも」
「あ……そう、ですよね」
ポリポリと頭を掻いて苦笑いする。
それでも精霊たちがこの先を進んでくれと願うのなら、より良き道筋を示す手伝いくらい、してもらっても悪くはない。さて、どうしようかと思う目の前、不意に、碧く煌めくものが横切って行った。
深淵の森や、クタナ村に至る参道を始めとした、要所要所で目にしてきた蝶だ。
碧い蝶はサナトたちを誘うようにひらりと舞い、すい、と川下の方へ飛んでいく。これは先を行く道筋を伝えよえとしている……と考えるのが正しいような気がした。
振り返ると、レラが同じように蝶の飛んでいった方を見つめている。そしてサナトと視線が合うと、真剣な眼差しで頷いた。
「何度か見た、あの碧い蝶は導き手なのだろうか」
「そう……ですね」
問えば答えはするが、そこから会話に繋がらない。
王城ではあれほど自然に話をしていたというのに、やはり、王都を旅立った前後から様子がおかしい。
指輪にしても気に留めていないのか。今までは好奇心旺盛に、何にでも興味を持っていたレラだ。石の人との出会いがどのようなものだったのか、聞いて来ておかしくない。
一時でも離れ離れになったことで、まだ不安に思っているのですか。
サナトに背を向けるレラは、いつものように上着と赤い肩掛けをして紋章は見えない。
消えてはいないはずだ。
背に、魔拯竜の紋章を持つ娘は、西方ダウディノーグ王家に嫁ぐことが取り決められているという。その真実を、本人の口から確認したい。
だが――。
レラは視線を逸らす。
どちらにしろ、この場で訊くことではない。
今は川を渡り、ゆっくりと落ち着ける状況になってからでいい。
「岸にそって、少し川を下ろう」
「何か分かりましたか?」
サナトの声に、ニノが明るい顔を向けた。
「分かったわけではないが、行かせたい道筋があるようだ」
「ならばその道を行こう」
水を飲み、一息ついた馬の手綱をひきながら、アーニアは皆に声を掛けた。
そのまま穏やかな川沿いに歩き始める。やや進んだ先で、ナギは不意に鼻を鳴らし始めた。何らかの匂いを感じ取ったのだ。しきりに鼻と耳を動かし始めるも、妖魔を見つけた時のような緊張感は無い。危険なものではないだろう。
「ここに流れ込んでいる川の上流は、どこにあたるだろうか」
アーニアもナギの様子を見つつ、周囲を見渡す。
警戒しながら進むニノが答えるる
「少なくとも街道とは交差していませんね。分かっていれば、地図なり何なり記載があるでしょう。今年は雪解け水が多かったので、新たな流れができたのでは?」
「それにしては水量が多い」
「バルクのような封じられた地域で、湧き出た水かもしれません」
答えるニノの声を耳にしながら、サナトは、果たして自然に生まれた川なのだろうか……と思い始めていた。大雨や土砂崩れがあれば川の流れくらい変る。だが、これほど広い川の流れができることはそうそうない。
と、その時、皆から一歩離れた場所で、川の状態を観察していた黒髪のダルセルが、そっとジーノに近づき報告した。
「川の流れが妙です」
「妙とは?」
「人の手が入っています」
声を聞き留めたサナトが先を見る。
側を行くナギが「おんっ!」と一言、大きく吠えた。
ジーノはしばし考えるようにして、声を漏らす。
「この辺りは……南の領地との境界付近だったはずだが。かつての南方領主か、その命を受けた者が、川の流れに手を加えたのかも知れんな」
であれば、西の領主バンニステールの管轄を離れ、王都でサナトが倒したザビリス・ベン・レオネッティか、その前領主の指示だろうか。
ザビリスが
今は暫定的にバンニステールや他の者を領主として立てたとしても、ザビリスが報告していなかった地形の変化に気づいていなかった……ということもあり得る。
「あそこか」
ダルセルの声を聞き留めていたアーニアが声を上げた。
吠えながら駆け行くナギが、小石を敷き詰めた川岸で立ち止まり、匂いを嗅ぎ、そしてまた顔を上げて吠える。
たどりついた場所を見ると左手、川より南東の方角に細い道が続いていた。川向うも深い森にが広がり、消え入るように北西へと道がある。
「古い街道だろうか?」
「そのようですね。こちらは洗い越しです。川底に石を敷き詰めて、
ニノが川の様子を眺めて言う。
敷き詰めたと思われる幾つかの石に、藻や水草が覆っている様子がない。つい最近、川底に並べた直した物と思われる。川幅は更に広くなっているが、中間あたりが中州のように盛り上がり、横断路としては十分なように見えた。
「アライゴシ?」
「潜水橋ともいう……通常の橋を架けることができなかった場所などに作った横断路ですよ。もちろん水量が上がれば渡れなくなります」
空を見上げれば、薄曇りであるものの雨の気配は無い。
とはいえ、上流で雨があれば急に水嵩が増えることもありえる。
「先ずは川を渡ってしまおう。目的地はここより西の方の森で間違いないな」
アーニアの確認にジーノは頷いた。
念のため、ダルセルとファビオが馬を下りて手綱を引く。サナトは騎乗したままでもいいと言われたが、同じように
深さは膝程。冷たい水だ。そしてとても澄んでいる。
深淵の森の泉を思い出す清らかさだった。
延々と続いていた森を挟んでいるとはいえ、妖魔が蔓延る廃墟の街バルクに面していたとは思えない。
「この川が、もう一つの結界として役目を果たしていたのか?」
『そうよ』
不意に水の精霊が水面から顔を出し、答えた。
『
『それももう、要らないわね』
背びれを見せては隠れる白魚たちのように精霊は囁く。そして笑いながら、『気を抜かないで』『足を取られるから』と声を掛けてきた。
サナトは気を引き締め前を向く。
見守る水の精霊たちは渡りを助けようと、馬が通る瞬間に合わせ、僅かに流れを変えている。
ダルセルが先導するジーノとアーニア。続いくナギ。
手綱を握るサナトはムーとバーガンディの手綱を引き、騎乗したレラが渡る。最後尾はファビオが先導するパウルとニノだ。
「無事だな?」
川を渡り終え、馬から下りたアーニアが皆を見渡し、声を掛けた。
ナギが体を震わせ水滴を飛ばし、パウルやニノが直ぐに休憩の準備を始める。
下衣を膝上までまくり、それほど衣服は濡れていないが足は冷えた。丁度、昼食を取るのにいい頃合いである。火を
胸がざわつく。
嫌な予感がする。
レラやアーニア、比較的精霊の気配に聡いニノも気づいている様子はない。
そう思う横で、ナギが耳をそばだて緊張の顔を森に向けた。
唸るまではいかないが、何者かが近づいている気配がする。
背後のせせらぎに紛れ、葉擦れの音がする。ナギの向こう、ダルセルが気づいたのか、やはり緊張した面持ちで森の向こうを見た。
「魔物か?」
「いや……この気配は、違う」
問うダルセルにサナトは答えた。
妖魔なら腐臭がする。魔物や魔獣でもそれとわかる気配がする。獣ではない。これは……人だ。
「隠れていないで出て来い!」
サナトの声に驚いたアーニアとパウルが跳ねる様に駆けつけ、剣の柄を握り、並んだ。ナギが低く唸り、咆える。
「あぁ……ま、まって下さい」
一拍の間を置いてから、森の樹々の陰から両手を上げて、背の高い男が出てくる。
僅かに泥に汚れた肌の色は青白く、枯れ葉の色の短い髪は引きちぎったぼろ切れのようだ。灰色の瞳は畏れ慄くように、サナトたちへと向けられていた。
年若い……兵士、のような身なり。
見覚えがある。
あれは――深淵の森の沢で追い詰めた、レラの脚を、斬った男。
瞬間サナトは剣を抜き、間合いを詰めた。
息を飲む。
「ひいっっ!」
「貴様……何故、現れた」
サナトは低く
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