第七章 カリィゴの森の守護精霊
7 第85話 東に流れてくる者
青空というほど青くは無く曇天というには明るい。霧というほど視界が悪いわけではないが、
このような空模様の時は、精霊たちの間に良からぬものが紛れ込んでいることがある。
サナトたちは南西に向かう馬上で、注意深く、消えかけた街道の左右に広がる森に意識を向けていた。
初夏の一番緑が眩しくなる季節だというのに、樹々の葉に力がない。虫や獣たちの気配が少ない。歪みや澱から湧いた妖魔によって、この一帯の活力が失われていた様子が見てとれる。
いつからこの状態だったのか分からないが、精霊たちにとって、切羽詰まった状況が長く続いていたに違いない。
同じことを感じたのかサナトの前を行くアーニアが、併走する付き人ジーノに問いかけた。
「妖魔が消え、土地に生気が戻り封印が解けたのなら、バルグにも人が戻って来るだろうな」
ジーノは淡々とした声で答えた。
「清浄になった土地は貴重です。国の援助も入れて、西のバルグ地区として再建することになります。先ずは道の整備。周囲の状況調査。この一帯の均衡を保つ礼拝堂の修繕……といったところですね」
「兄上には、どのように?」
「事の
「貴族たちは荒れるだろうな」
「多少は……」
ジーノは鼻で笑う。
「利を得るため、地位を守るため、隠しごとをしていた者たちには悪い報せとなるでしょう。しかも今は国王陛下が留守だ。ごり押しすれば自分の都合のいい方に話を持っていける……と、思い込んでいる者はいる」
ふふっ、とアーニアは、馬の足を緩めず笑った。
「父上より兄上の方が手ごわいというのに」
可笑しそうに呟くアーニアに、昨夜のような不安の色は無い。
その横で、ジーノは僅かに気を引き締めつつ続ける。
「バルグの再建が可能となれば、難民受け入れの話も動きだしますね」
「うむ……」
頷くアーニアに、サナトが馬上から声を掛けた。
「難民……とは、妖魔を伴い東に流れてくる、と言っていた西の者か?」
「そうだ。西方ダウディノーグから流れてくる民だ」
ちらりとサナトに視線を流し、答える。
「ここ数年、再びダウディノーグに魔物が蔓延るようになり、ベスタリアへと逃れる民が増えつつある。もっとも、王都や東の領地で口にする者はいないが」
「何故だ?」
「多くは人の姿をしていない……と聞いている。魔物と区別がつかないのだろう」
む、とサナトは息を飲んだ。
十年前の災厄で、兇悪な魔物――妖魔であろうそれを、ある聡明な魔法騎士が倒し、ダウディノーグ王国を救ったという話は何度か聞いた。そこで完全に歪みや澱を戻せていたのなら、何も問題は無かったのだろうが現実は違う。
戻しきれなかった澱のせいか、澱に抵抗しようとした恐怖によるものか、人が扱う限界を超えた魔法は、心と姿を変えていく。
変化の大小はあれど、里で暮らした森の人や、東の街道で出会った魔物のようになってしまった者もいるとサナトは想像できた。
レラが、
「……聞いている、ということは直接見たことが無いのか?」
「私の
だからこそ、今回の同行は
アーニアに続いてジーノが説明を加える。
「現在、ベスタリアが西方との出入り口にしている関所は、ニナライ山脈の北、
「山脈の南端は魔物が
「そうだ。交易路を通じて国境を越えられるのは、身元が明らかな者、殆ど人と変わらない姿をした者に限られている。それ以外は国境の外、山脈西の麓にいくつかの集落をつくっている」
ジーノは厳しい視線を前に向けたまま、続ける。
「公言は差し控えているが、西の領主バンニステール卿は、密かに難民を支援しているのだ。人の形は失っても、人と共に暮らせるという実績を作るために」
「難しかろう」
森の人の暮らしを見知るサナトに、その大変さは理解できる。
全ての人が善良とは限らない。
例え善良なる心を持っていたとしても、人の形を失う痛みは、過ぎれば人の精神を
「国内に招き入れるとしても、緩衝地帯は必要だ。ベスタリアの民が受け入れられるだけの、心の準備も」
「だからか。バルグの再建となれば、難民の受け入れの話も動くと」
視線を流し、ジーノはサナトに笑いかけた。
「エルネスト殿下がイゴール殿と話し合うにあたり、その辺りの話は当然あがるだろう。地上と地下、主とする住処は違えど永きに渡ってバルグを守り通してくれた御仁だ。当然、地上の人々の手に負えない、という理由で押し付けになってはならない」
ジーノの言葉にサナトは頷く。
「だが、いつまでも国境の外に留めておくこともできない。今はまだ衝突に至っていないが、今年の冬
そうなる前に平和的な方法で受け入れ、西の王国が平穏になれば帰国を促す。
難しい話だ。
卓上の理想だけで解決できるほど現実は甘くない。
サナトは、頷くことしかできない。
「幸い今年は気候がいい。麦の実りだけでなく、野山の恵みも良好だ。ベスタリアが国としてできることは多い。好機なのだ。今年の冬を越えることができれば、また次の道が見える」
いつになく
言葉だけを聞けば、とても姫お付きの従者には見えない。むしろ王国の宰相とでもいうべき姿だ。
ジーノも己の言葉に気づいたのか、表情を引き締め前を向いた。
「話が過ぎたな」
「いいではないか」
アーニアが笑う。
サナトも同じように口の端を上げて、遠く、道の向こうに視線を向けた。
「ベスタリアのみならず西方の民も思う。精霊のことばかり気に掛ける俺には、できないことだ」
「僕も、考えさせられます」
ずっと話を聞いていたパウルが、サナトの斜め後ろの馬上から、声をかけてきた。
「今、ベスタリアは平和だし、国のことだけ考えればいいという人は多いです。でも、それって、側にある問題の火種から、目を背けているだけだなぁ……って」
「おう、じゃあ、パウルができることって何だ?」
からかうように、併走するファビオが訊く。
「そ、それは、考え中です」
「考えろ。考えろ」
いつもの軽口が行きかって、重い話はここまでとなったようだ。
ふと視線を感じて顔を巡らせると、サナトのやや後ろでエルクのムーに騎乗するレラがこちらを見ていた。が、視線が合うと目を逸らす。
何か言いたいことがあるような顔なのは、分かる。
けれど思う所があるのか言葉にできないでいるのか、ぎこちない雰囲気で会話にならない。無理に聞き出すのは好まないが、サナトもレラに確かめたいことがあるのだ。
「サナトさん」
不意に明るい声で、パウルが声を掛けてきた。
「アーニア様と穴に落ちちゃった時は慌てましたが、結果的に生き残っていた石の人と出会えたことは、幸運でしたよね」
「あ、あぁ……そう、だな」
「もしかすると礼拝堂の床が抜けたことも、精霊が石の人に引き合わせようとして起こしたこと……だったりしませんか?」
地下空洞に落ちた時のことを思い起こし、サナトは笑顔で頷いた。
「そうかも知れないな……」
「わふっ!」
手綱を握りながら、斜め前を駆け足で行くナギを見下ろし、呟く。
「時に精霊は人と人を引き合わせるため、意図的に困難や障害を呼び寄せることがある」
命にかかわるようなことは滅多にないし、拒絶もできる。けれど後で考えれば、それこそ導きだったとしか思えない出来事も多い。
石の人との出会いや魔法具を頂いたこと。
そして何より、アーニアと、おそらく二度と出来ないであろう話ができたことも。
◆
他愛ない話を交わしながら、精霊の導くまま、南西に向かって一行は進む。
森の景色は大きく変わらない。深い森――というほど暗くも無く、かといって林というほど明るくも無い樹々に囲まれた荒れ道だ。
エルネストから頂いた
それなのに進めば進めむほど、喉の奥に引っかかった小魚の骨のような違和感が湧き始める。また、危機が近づいているのだろうか。気がつけは薄い雲を透かして見る陽は高くまで上り、風は生ぬるさを増していた。
微かに水の匂いがする。近くに川が池か、何かの水場があるのだろう。
「そろそろ馬を休ませないか?」
「うむ。私も休憩を入れた方がいいと思っていたところだ」
サナトの声かけにアーニアが答える。
記憶している地図では、この辺りに水場は無い。だが、長く封じられていた土地ならば、多少の地形の変化があってもおかしくない。そう思い始めて間もなく、荒れた街道を両断するような広い川が見え始めた。
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