6 第83話 紋章の繋がり
アーニアは涙を拭わなかった。
泣いていることにも、気づいていなかったかもしれない。
身を削る思いで、どれほど強く呼びかけ願っても、叶わないことはある。
精霊は人と違う視点で世界を見つめているという。だから呼びかけに応えない時は何かしらの意味があるのだと、サナトを育てたサナカは言っていた。
それは真実なのかもしれない。
真実なのかもしれないが、受け入れられるとは限らない。
命に換えても守りたいと思う願いであったのなら、なおのことだ。
「……
サナトは静かな声で尋ねた。
一度は「要らない」と決め、「頼らない」と決意しても、人の力では
アーニアは誰よりも民と国を想う姫だ。
自分の感情を置いてでも何を第一としなければならないか、それをよく知っている。一度、決めたことだからといって、自分の考えに固執する性格ではない。悲しみと怒りを抱えながらもここまで口にすることなく、サナトたちと共に竜を探す旅に同行しているのがその証だ。
けれど、サナトの目の前でアーニアは静かに首を横に振った。
「私は……竜を捨てたのだ」
そう呟いて、アーニアは静かに上衣を脱いで背を見せた。
豊かな
滑らかな肌には、姫とは思えないような剣による古傷を所々に残していた。そして、そこにあると教えられなければ分からないほど――かつて夜明けの水場で見たレラの背の紋章とは比べものにならないほど、薄く消えかけた印があった。
サナトの眉間が
「竜との契約の証――魔拯竜の紋章。竜との繋がりを捨てた私は、紋章の娘としての資格を失い証も消えつつある。それに伴い精霊の声も、以前ほど明瞭に聞き取ることができなくなってしまった」
上衣を着直し、ゆっくりと深く、腰掛け直す。
「私は……魔拯竜と出会うことは無いだろう」
サナトと視線を合わせない。魂の抜けたような表情で、アーニアは自分を責めるように呟いた。
「いや、違うな。私から反故にしたのだ。もう……会っては貰えぬ」
声に自嘲の色が混ざる。
そしてちらりとサナトを見てから、ふっ、と軽く笑った。
「サナトよ、そんな顔をしないでくれ」
「俺は……別に……」
「今はもう、竜を責める気持ちなど無い。私の祈りが足りなかったのだろう。そうでなければ何か理由があったのだ。人の身の私には想像できないような理由が……」
視線を落とす。
二人の間で瞼を閉じるナギは、サナトの膝に頭を乗せたまま静かに眠っている。その様子を愛おしそうに見つめ、アーニアは言う。
「紋章の娘だったことを……隠していたわけではない。だが、王城の書庫であの本を見つけた時も言い出せなかった。結果的に、伝えるのが遅くなってしまったな」
「謝ることではない」
「ふふふ……」
優しくナギの頭を撫でると、ぴくりと耳が動いた。
穏やかな時が流れる。
アーニアは、この事実を、もっと早く伝えようとしていたのだ。
王城に着いて、エルネスト王子と会談した時、サナトたちは魔拯竜を求めてきた旅人だと告げている。あの時、エルネストの表情が曇ったのは、妹アーニアの心情を知っていたからこその憂いだったのかもしれない。
おそらく、ずっと以前から心の中で葛藤を繰り返し、今やっと折り合いがついたことで、サナトに告白することができたのだと。
「紋章が消えたからといって、悪いことばかりではないのだぞ」
いつもの表情に戻ったアーニアが、冷ややかに笑う。
「このローラスティア大陸に生まれた魔拯竜の紋章を背に持つ娘は、西方、ダウディノーグ王家に
「嫁ぐ?」
「そうだ。竜と繋がる大切な娘を失うことがないよう、大国として、保護する役目があるのだと言うが真意はどうだか。一昔前ならばいざ知らず、今は十年前の災厄で形ばかりの大国となり果てている。更に生き残った王子が、最悪と言われているラ・クロード一人だからな。私としては紋章が消えて清々していた」
元婚約者に散々な言われようだと、明るく笑い飛ばす。
笑い飛ばそうとしている。
「ただ……どうしても、母上のことだけは気持ちの収め所が見つからない。
それだけが心残りなのだ。
アーニアはため息のように、深呼吸する。
剣の鍛錬を続けながら心の中では自分を責めていた。自分が弱かったのだ。護れなかった。もっと強くあれば
地下空洞で休む事無く妖魔に挑み続けていたのも、おそらくそれが理由だ。
「全ては……私が脆弱だったからだ」
状況が理解できない者たちには、一連の出来事を「魔物の呪い」と口にした。「王妃は
周囲の者たちは、誰もアーニアを責めたりしない。
だからこそ人一倍、自分で自分を責めた。
五年前といえば、アーニアはまだ、十三の娘でしかなかったというのに。
「本当に、そう思うのか?」
サナトは知らずに声を低くして呟いた。
「……サナト?」
「もし目の前に、十を少し過ぎたばかりの少女がいて、命と引き換えに皆を助けられなかったと嘆いていたなら何とする?」
アーニアは目を瞬いて、戸惑った声を漏らす。
「それは……」
「その少女の代わりにお前が死んだとする。何故、命がけで守らなかったのだと、少女を責めるか?」
「……それは……」
口ごもりながら答える。
サナトの言わんとしていることはアーニアにも分かる。責めることなどできない。それでも「否」と言えない気持ちが言葉を押し留める。
「目の前の少女に、お前は死んでもいいから他の全てを救えと、命じることができるか」
「私は王家の者だ。力を持っていた。持っていたはずだ」
部屋の向こうで作業を続けている石の人を気にしてか、アーニアは声を落として言い返した。
仮に、そのような少女が目の前に居たとしても、身分など関係なく、命を懸けろと命じることはできない。できないのだが、かつての自分というだけで、矛盾する――相反する気持ちが本音を押し留める。
少女は「王族」という、特別な力と地位を持つ者なのだ。有事の際には命を賭すべき立場の者なのだ。それでも、サナトの問いは止まらない。
「お前は……責めるのことができるか?」
――その時。
その瞬間。
持てる力の全てを振り絞り、アーニアは戦った。
他の誰でもない、アーニア自身が、一番よく知っている。
「護れなかったと嘆くのではなく、護ってもらえたのだと……思うことはできないか。そして今日まで、多くの民を護ってきただろう?」
自分を責めるのではなく、誇りに思うことはできないのか。
自分を赦すことはできないのか。
もしアーニアが戦い死んだなら、王妃と民はどれほど悲しんだか。敢えてサナトが口にせずとも、アーニア自身が一番よく分かっている。
誰も死なせずに済めばいい。
だが、どうしても力及ばないことはある。
そして命あるものには……必ず、終わりがくる。
「生き残るようにと、言われた言葉は守ったじゃないか」
「う……」
アーニアが口元を押さえる。
国の者たちがどれほどアーニアを慕っているか。
何だかんだと軽口を叩きながらも、ファビオやニノたちがどれだけアーニアを大切に思っているか。単に、姫を守護する務めだからというのではない。誰よりも自分に厳しくあろうとするその人柄と優しさを知って、心より仕えたいと思っているのだ。
分かっている。知っている。
ただ哀しみを怒りに変えて生きてきたからこそ、赦せないだけなのだ。
静かに、静かに、時が流れていく。
その静けさの中で、声を上げようとしない、アーニアの嗚咽だけが微かに聞こえる。ナギが瞼を閉じたまま、ぱたりと尾を振った。
やがて……何度目かになる深呼吸を繰り返して、アーニアは呟く。
「私は……」
「……もっと、自分を大切にしていい」
サナトは言葉を継いだ。
「気負わなくても、いいだろ?」
「ふふっ……」
小さく、力無い笑い声が漏れた。
「……そのように言われるとは、思わなかったな」
側の荷に横たわり、上半身を預ける。
虫の声も、葉擦れも風の音も無い。ただ遠く、鋼を打つ響きの中にあって大地に抱かれる。
全身の力を抜く。
アーニアは見えていないのかもしれないが、小さな地の精霊がこの国の姫を見上げ、そっと、労わるように語り掛けている。今は休んでいいのだと伝えている。
精霊を見聞きする力は失われつつあっても、精霊たちはずっとアーニアを見守り続けているのだ。
「私は……少し、眠る。サナトは眠らなくてもいいのか?」
「先程少し休んだから大丈夫だ。もう眠気は感じない」
「そうか……サナトの魔法具が完成したなら起こしてくれ……夜明け前だろうと、直ぐに、出発しよう……」
そう呟いて、濡れた瞼を閉じる。
ナギが、鼻をひくつかせて頭を上げた。
さほど間を置かずに静かな吐息が聞こえ始める。サナトはパタパタと尾を振るナギの頭を撫でた。
「姫は、やっと眠ったようじゃな」
のそりと立ち上がった石の人のイゴールが、やれやれと声を漏らしながらゆっくりと近づいてきた。声をかける機を見ていたのだろう。
サナトは憑き物が落ちたように眠るアーニアを見つめ、頷いた。
「ああ……」
「ならば魔法具の完成まで、もう少し時間をかけようかの」
そう呟いて水場の方に歩いて行った。
ナギはヒスヒスと鼻を鳴らし、静かに横たわってる。その頭や背を撫でながら、サナトはぼんやりと炎の影が揺らめく部屋を眺めていた。
五年前といえば……サナトが十一か十二の時の話だ。その頃の自分は、あの深淵の森で何をしていただろう。
十三の時ですら森の恵みの中で、獣たちと穏やかな日々を過ごしていた。時折訳も無く心が騒めくことがあっても、不当に侵入する者や澱が湧いたとしても、総じて揺りかごのように安全な場所で暮らしていたのだ。
その事実が歯がゆくて仕方がない。
それこそ、その頃の自分を責めてもどうしようもないというのに。
そしてもう一つ、サナトの心に引っかかっている言葉があった。
聞き間違えでなければ、「魔拯竜の紋章を背に持つ娘は、西方、ダウディノーグ王家に嫁ぐことが取り決められている」とアーニアは言わなかったか。
レラの背には、魔拯竜の紋章が
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