6 第82話 怒りと決意

 妙に生ぬるい風が吹き、辺りに黒雲が立ち込めていく。アーニアが乞い願う時に降る雨はいつも優しく、雲も、陽の光を透かすほど明るいのが常であったのに、この時の空は太陽が消えたように暗かった。


「側に控えていた母上の手が、私を護ろうとするかのように肩に添えられたのを、今でもはっきりと覚えている」


 静かな声でアーニアは語る。


「母上は東の小さな領地を治める下級貴族の出であったが、祖は精霊の声聴きを務め、母上もまた、精霊の気配に聡い人であった。だから私と同じように異変を察知したのだろう」


 渦巻く黒雲はまるで、父王や祖父から聞く戦場の魔法戦のように見えた。

 雷光が雲間を走り、轟音が響き渡る。

 祈願を見守っていた周囲の人々から悲鳴が上がる。


 アーニアは呆然となりながら、吹き荒れる風に翻弄される広大な麦畑を見つめ、叫んでいた。

 明らかにおかしいのだと。

 どれほど精霊に呼びかけても悲鳴のような声しか返らない。

 どうすればいいのか分からず困惑しているうちに、雷が落ちた。

 大地を揺るがすほどの衝撃に体を伏せ、それでも視線だけは麦畑の地平線から逸らさなかった。何か良からぬものが湧いてくると、そう思う間もなく、色あせた緑の原の上に黒い霧――おりを見たのだ。


「今思えば、あれは妖魔の元となるものだった……」


 苦いものを噛むように、アーニア呟く。


「だが、その場にいる誰もが、不吉な澱に気がつかなかった。そもそも歪みや澱が見えている者は、私や母上以外に居たかどうかもあやしい」


 矢のよう降り注ぐ雷。

 乾いた麦畑に火が付くまで、それほど長い時間は掛からなかった。

 アーニアは、自分が目の前の惨状を呼び寄せたと思ったのだ。


「必死に精霊たちに祈った。雷を止めてくれと。雨を呼ぶ為に呼びかけたというのに、このようなことは望んでいないとな。……願いはやがて命令へと変っていった」


 皮肉な顔で視線を向ける。


「私は意図せず、強制魔法を使っていたのだ。その後に何が起きたかは想像できるだろう?」


 サナトは表情を消して、アーニアを無言で見つめ返す。


「火を噴く魔物――妖魔が現れた」


 ひび割れ、鱗状になった細長い体。奇妙にねじれた手足。

 黒い襤褸切ぼろきれのような翼の前で蠢く、幾つにも分かれた頭部。

 それぞれが狂気の眼差しで大地をねめつけ、炎を纏う。

 誰かが叫んだ。「日照りの原因はこの魔物だ!」と。


 事実であったのか、追い詰められた者たちの誤認であったのか――もしかすると、巧妙に仕掛けられた罠だったのかもしれない。


 西方ダウディノーグ王国で大規模な災厄が起きて五年。その影響はじわじわとベスタリアに及んでいた。王宮内では軍を再編し、税を上げてでも西の国境の守りを固めよと、激しく紛糾していたのだと後に聞いた。

 王家の姫に実害があれば、強硬派の意見も通しやすくなる。

 貴族たちの権力争いもあったのだろう。

 ともあれ、その時のアーニアに妖魔出現の原因など知る由もなく、直ぐに護衛の騎士らと剣を取り、自らと、母である王妃を守るために戦った。


 戦いは、熾烈を極めた。


「サナトが城で話をした騎士隊長ユルゲン・フォン・シュタイン……彼の者の働きにより妖魔は倒された。多大な犠牲を払ってな」


 正装のように鎧を整えた壮年の、しっかりとした体格と貫禄のある姿を昨日のことのように思い出す。皆の尊敬を集め誰よりも強い信念を滲ませながら、サナトと手合わせをしなかった理由も。


「城の治療魔法師から聞いた。五年前の魔物との闘いで一命は取り留めたが、かつてのように剣を握れない体になったと。だから俺の怪我の治り方に驚いて、精霊の守護か奇跡の賜物たまものか、でなければ特異体質ではないかと言われた」

「そうか……」


 目元に笑みを乗せる。

 そして大きく息を吐いてから、瞼を閉じるナギの頭を撫でつつ、アーニアは続けた。


「味方の犠牲は多かったが、すんでのところで妖魔・・は倒した。けれど……皆が勝利の歓声を上げる横で、私の恐れは続いていた」

「倒しただけでは終わらない。澱を戻さなければ、更に強大な妖魔を呼ぶ」

「そうだ」


 アーニアは重い声で頷く。


「妖魔を倒した後も、淀みであり歪みであり澱であるガンダーギは、黒い霧のような状態となって残っていた。私は、それをどのようにしていいか分からなかった。ただこのままでは、まだ魔物は湧いて来る・・・・・・・・・・と、そう直感するだけで……」


 アーニアは感じていたのだ。

 アレはダメだ。

 ここに存在していてはならないものだ。

 精霊たちに声が届かないのも、アレがここに留まっているせいだ。そしてどうにかしなければ・・・・・・・・・、いずれこのベスタリア全土に災いを及ぼす。


 どうにもできず震えるアーニアの側で、王妃は囁いた。


「アントーニア、あの悪しきを完全に浄化できるのは、魔拯竜ましょうりゅうだけです」

「母上!?」

「でも、今ここに竜はいない。民を護る王家の我らが、命をしても悪しき霧を散らさなければなりません」


 凛と言い切る母の瞳には強い意志がこもっていた。

 その眼差しから、アーニアは視線を逸らすこともできず見つめ返した。


「我が娘よ、貴女あなたは必ず生き残るのです。背に魔拯竜の紋章を頂いた貴女は、いずれ竜と出会うでしょう。その時にどうぞ、人々の願いを伝えてください」


 そう言い含めてから、王妃は黒い霧に向かった。

 祖に精霊の声聴きを持ち、アーニアの姉、第一王女アントニエッタと共に古い伝承を調べていた王妃は、口伝や王城の書庫からガンダーギの浄化――澱を戻す方法・・・・・・を見知っていたのだ。

 たとえそれが、人の身に耐えられるものでは無かったとしても。


「私は……母上の背を見つめながら、精霊の助力を願った。必死で魔拯竜を呼んだ。真に、紋章の娘の呼び声に応えるのならば、今を置いて他にはないはずだ。だから……必死に、必死に、声が嗄れるほどに叫んだ」


 アーニアの唇が震える。


「私の全てを捧げると、だから母上を助けてほしいと……そう、血を吐く思いで竜を呼んだ」


 けれど、その結果は聞かずともわかる。



「……竜は、現れなかった」



 遠くで、火床ほどの中の火がぜる音が響いた。

 そして鋼を叩き、削る音。

 遠い昔を睨み続けアーニアは視線を動かさない。


 長い沈黙の果てに、胸の奥に秘めていた想いを告白する。



「だから――私は、竜など要らないと決めた」



 澱が大地に戻る。

 大気に散っていく。

 黒雲は消え、白く、薄い紙で透いたような陽光の下に、優しい雨が降り注いぐ。

 そしてアーニアの腕には、命果てた母の姿が残った。


「魔拯竜に頼らないと、決めたのだ」


 手のひらに視線を落とす。

 あの時、アーニアの身体を貫いたのは哀しみではなく怒りだった。

 自分の無力さと、願いに応えなかった竜に対して。


「どこにいるか分からない竜にすがるより、自分が力をつけて、自分の力で民を護ると。だからもう、魔拯竜と繋がる紋章は要らないと……私は心に決めた」

「魔拯竜と繋がる、紋章……」

「ふふふ……今になって、やはり竜がいなければ真の安寧あんねいは望めないのだと、知ることになるとは思わなかったが……」


 皮肉だと、思う心を隠して笑みを刻む。


 その横顔には、一筋の涙が伝っていた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る