6 第78話 盲目の妖魔

 腐臭が濃くなる。思わず鼻を押さえる。


「良からぬ気配が潜んでいるな……」


 慎重に広い空洞に足を踏み入れ、光を広く飛ばして周囲を確認する。

 王城の、あの謁見の間より、高さも広さもある。

 おおよその大きさは見て取れたが、黄昏たそがれ時の薄暗い部屋の中のように見通しが効かない。精霊の気配の薄い地下ではこの明るさが限界なのだろう。空洞の全体を明るく照らす、という状態にはできないようだ。


 元は何もない、がらんとした空間だったのだろう。今、目の前には激しい戦いがあった後のように所々の床がえぐれ、瓦礫がれきが山となっていた。その高さは人の背丈を超える。

 物陰に隠れようと思えば、十分な高さである。


「ここで一戦、やり合うことになりそうだ……」

「サナトの援護を期待しているぞ」


 口元に笑みを乗せながらアーニアは囁き、互いに背を合わせながら周囲を警戒する。

 カタリ、コトリ、と瓦礫が転がる音が微かにする。

 空洞の奥は闇に溶けて物の輪郭を捉えられない。ナギの自慢の鼻も、ここまで腐臭が濃いと利かないようだ。


 息を詰めるような緊張感。


 アーニアと合図をし、空洞のほぼ中心付近、やや広い足場を取れる場所へと移動して周囲に視線を走らせた。

 下手にどこにいるかと探して罠にはめめられるより、最大の警戒心をもって迎え撃つ方がいい。ナギは頭を低く、いつでも飛びかかれるよう前脚を踏ん張るような姿勢で牙を見せ、低く唸り声を上げる。


 どこだ……。

 そう暗闇に顔を巡らせた瞬間、ざわりと背筋に悪寒が走った。

 瞬間、サナトは天井を見上げる。


「上だ! 退けろ!」


 サナトが叫ぶ。

 百の目玉をつけた肉塊が、天井から幾つもの腕を伸ばし襲い掛かってきた。

 反射的に三方に散る。


 寸前までいた場所に、醜悪な肉塊の一部が落下した。だけではない、退けたサナトたちを追う赤黒い腕は触手のように伸び、からめとろうとする。

 鈍い光の中で蠢く無数の細い腕。

 ナギは素早い動きで避け、サナトとアーニアは斬り捨てる。

 天井に張り付いていた本体が、続いてぼちゃり、と落ちる。

 地上にいた鋭利な妖魔より動きは鈍い。だが、薄暗く足元もよく見えないような、瓦礫の散乱した地下空洞では場が悪すぎる。焦ってはダメだと、サナトは自分に言い聞かせた。

 ナギが、火がついたように咆え立てる。

 ずり、ずり、と重い体を引きずる動きで妖魔は呻いた。


「見エナ……イ、暗イ……見、エナイ……」


 幾つもの目玉を浮き上がらせているというのに、見えていないのか。

 斬り落とされた腕は蜥蜴とかげの尾のように跳ねてから、間を置かずして、ぐずぐずと崩れていった。本体の動きに反して襲い掛かる腕は速い。が、斬れない硬さではない。そして咆えるナギの方へ重い体を引きずっていく。

 音に反応しているのだ。

 蠢くその背後を狙い、サナトは剣に炎を纏わせ斬り付けた。四方に伸びる腕を払いつつ、アーニアがサナトの側に駆けよる。


「奴は、我らの動きを追えていない」

「音を頼りにしているな」


 妖魔は不安や恐怖、怒りや怨嗟の感情が形になりやすい。この暗い地下遺跡で、見えない中を逃げ惑った人のおもいを取り込み、あの形になったのだろう。


「おそらく地下に逃げ込んだ人々の恐怖が造りだしたんだ」


 石の人の守りは無かったのだろうか。

 それとも、地下を住みとする石の人が何らかの異常事態に陥り、妖魔を生み出してしまったのだろうか。

 皮肉な思いでサナトは呟き、剣で斬りながら距離を取る。

 アーニアは唇の端を吊り上げる。


「どちらにしろ相手は一体だ。落ちついて削れば、倒せる。サナトはできるだけ力を温存してくれ」


 強い語気で呟くアーニアと再び左右に分かれた。

 サナトたちの動きに合わせて細い腕が探るように動く。触手状の腕に伝わる音や気配で相手の位置を把握しているのだ。その様子を理解してか、ナギは猛然と咆え、隙を突いくアーニアが凄まじい勢いで斬り捨てていく。

 サナトも周囲の動きを把握しつつ、じわじわと腕を削り取っていった。この腕が無くなれば本体に剣が届く。

 そう、思っていたのだが。


「おかしい……」


 切られた腕の先、断面が再生しているわけでは無い。なのに触手の腕が無くならない。


「……見エナイ……ドコ、ダ……見……」


 落ち着いて鈍い明かりの下で目を凝らすと、本体の根元から、つぷり、つぷりと新たな腕が生えてきているのが見えた。まるで朽ちた樹木に菌がより集まり、幾つもの細長い芽が湧いてくるかのようだ。


「ただ斬っていても終わらない……」


 そうだ、とサナトは思い出す。この地下遺跡で斬り倒していた妖魔の澱は、どこかへ流れていた。引き寄せている物が居るのだ。当然予想できたことなのに、目の前の妖魔の姿と不利な視界で失念していた。

 迫る腕に剣を走らせ、サナトは声を上げた。


「奴は澱を取り込み再生している!」

「やはり……か」


 アーニアが声を上げ答える。


「どうもおかしいと感じていた。斬り捨てると同時に戻しの唄文ばいもんもかけなければ、永遠に終わらぬか」

「このままでは体力を削られる俺たちの方が不利だ。ナギ!」


 サナトが呼ぶと同時に、大きく跳躍したナギが駆けつけた。

 敢えて言わずとも心得ているとばかりに、襲い掛かる触手を噛み千切り、猛然と咆え立てる。アーニアはサナトを背に守るように剣を向け、止まることなく向かって来る触手を薙ぎ払った。


「澱の奪い合いだな! 私とナギで防ぎきる。サナト、できるか?」

「やるしかない」


 言ってサナトは剣の切先を地に刺し、呼吸を整えた。


 妖魔の大きさは歪みや澱の濃さに影響する。ならばこの目の前の妖魔は、深淵の森やクタナ村で遭遇した妖魔より手ごわいだろう。更に言えば、ここには風や水の精霊の気配が薄い。精霊たちの手厚い助力は望めない。

 ギリ、と奥歯に力を込めて、サナトは唄文を唱え始める。


「水の、其のものの流れ整え、火の、穢れは光と還る――」


 サナトの剣が炎を宿し、周囲を明るく照らし始めていく。

 包帯を巻いた――既に治ったはずの両腕に焼けつく痛みが走る。眉間に皺を刻む。

 だが、ここで臆するわけにはいかない。更に強く、唄文を唱えていく。


「土の、受け入れたもう。火の、剣に宿り炎となりて穢れを灰に!」

「……ミ、見エナイ! ……イィイイイ!!」


 ぞわぞわと、澱の気配がサナトに引き寄せられ、妖魔が抵抗するように雄叫びを上げた。

 幾つもの眼球を血走らせ、妖魔は大気を震わせる。

 視界の全てが闇に喰い尽くされ、自分がどこにいるかも分からないような恐怖が粘つく液体のように纏わりつく。骨まで焼くような痛みが走る。

 サナトは腹の底に力を込め、唄文を続けた。


「気枯れをに……その懐にて、安らぎの眠りを……」


 大地が唄文と共鳴するかのように、カタカタと音を立て始めた。

 目の前で、ナギとアーニアがギリギリの戦いを強いられている。


「土のよ――」


 更に力を込めて唄文を唱えようとした瞬間、澱を奪い取ろうとする存在に気づいた妖魔が、ぐるりと大きく迂回するように触手を伸ばした。

 視界の端にその先端を捕らえ、サナトは顔を上げる。

 アーニアの立ち位置からは、剣が届かない。

 咄嗟に避けようとして呼吸が乱れた。唄文に集中していた体の反応が遅れる。

 その瞬間。


「ギャワァン!」


 ナギの悲鳴が暗い空洞に響き渡った。

 踵を返し、サナトを庇い、噛みつこうとして打ち飛ばされたのだ。そのまま体勢を戻せず瓦礫に叩きつけられる。


「ナギッツ!」


 陰になっているのか、落ちたナギの体が見えない。

 いつもなら機敏に立ち上がり、凄まじい勢いでまた挑みかかっていくナギの気配がない。サナトは、駆け寄ろうとした足を踏み止まり、剣を大地から引き抜いた。


 怒りが、体中を焼く炎となって血をたぎらせる。


「おのれぇぇぇえ!!」


 ナギを叩き飛ばした触手を斬り捨て、次の腕をかわし、本体に切先を向ける。

 走る。斬る。振り上げる。

 剣に宿る炎が光を放つ。

 本体にはまだ届かない。

 跳躍して避けた。間合いを取る。次の腕が襲い来る。

 だが構うものかと突き進む。刹那、剣は、ガキィンと鋼の音を響かせ押し止められた。

 ハッと見開く目の前に、アーニアの剣がサナトの刃先を受け、鋭い光を反射させている。


「サナト!」

「くっ……」

「怒りに振り回されるな! 今のお前がやることは何だ!?」


 叫ぶアーニアとの間に触手の腕が伸び、反射的に切り捨てながら左右に分かれた。

 視線だけを向ける。背後の暗がりには、よろよろと立ち上がるナギの影がちらりと見えた。無事なようだ。

 アーニアも気づいたのか、口元を笑みにして頷く。

 これ以上長引かせるわけにはいかない。


「もう……貴様には、欠片の澱すら渡さん」


 サナトはもう一度大きく息を吸い、大地に剣を向けた。


「土の、受け入れたもう――火の、剣に宿り炎となりて穢れを灰に」


 アーニアは身を低くして突き進む。

 刺突の剣。雄叫びを上げ、凄まじい速さの剣捌けんさばきで、容赦なく妖魔の本体に斬り込んでいく。


「おぉおおおおおお!!」

「見、見エェエエ……エァアアア!」


 眼前に迫った赤髪の騎士の姿を、百の目玉が察知した時には鋭い切先が撃ち込まれていた。

 体中を震わせ、絶叫を響かせる。


「ギィィイエエエエェェェ!!」


 斬り刻む。

 アーニアの眼前で、くずくずと崩れいく妖魔。サナトが叫ぶ。


「気枯れをに!」


 ざぁあああ、と音がする勢いで、歪み、淀み、おりと呼ぶ、恐怖のおもいが流れ込んでくる。

 喉を締め付けるかのような、痛みと圧力が襲い掛かる。

 だが、負けない。

 精霊せかいの一部に戻しきる。


「大地にとけ、消え、眠れ!」

「オォオオ……オ……オォォォ……」


 サナトの体を通り道にして、澱は流れ、戻りゆく。

 地下の空洞を埋め尽くしていた怨嗟の感情が消えていく。

 一瞬のようで、永遠にも思える時間。

 わぁあああん……と震えた大気のうねりは薄まり――。


 そして――地下空洞に、静寂が戻った。






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