5 第64話 朝靄と狼と王女

 薄く開いた窓から、朝靄あさもやの気配が流れていた。

 王都アルダンは都市の縦横に細い川が流れている。更に王城を囲むように流れる幅広の河から、たゆたう霧の気配が、朝を告げる鳥の声も無い時分から静寂の夜明けを知らせている。


 寝台ベッドの上でゆっくり瞼を瞬くと、すぐ側で寄り添うように眠っているレラがいた。

 足元には寝そべっていたナギが気配に気づいて耳を立て、目を閉じたまま、もそりと顔を動かす。ぱたり、ぱたりと尾を動かすのは、起きたよ、の合図というより寝返りみたいなものだ。

 しっかりと覚醒しきる前の、ぼんやりとした意識の中で夕べのことを思い出す。


 ファビオやニノの案内の元、賑わう夏至祭の街を歩いた。

 美しく着飾ったレラやアーニア、街の娘たち。軒を並べた屋台から美味しそうな匂いが漂い、色とりどりの土産物が目を楽しませる。

 街を一望する塔から眺めた、空一面に広がる花火。

 光の精霊を小さな実に宿らせ、空へと放つ。まるで星空の中を飛んでいるかと錯覚するような輝きだった。

 ご機嫌になって、街の人に勧められた銀鱗ぎんりんの五星亭で美味しい物をいっぱい食べて、少し酒を飲んで。歌って。笑って。


「あぁ……だからか」


 その前後から記憶があやふやだ。

 深淵の森でもほんの少しだけ作られていた酒――主に果実を発酵させたそれをサナトも飲んだことはあるが、あまり強いたちではないようで、たいていは舐める程度に終わっていた。

 店で注がれた麦酒エールは苦くて口に合わないと言ったら、「子どもだなぁ」とからかわれてムキになった記憶が、あるような、ないような……。


 どちらにしろ、ちゃんと自分の足で歩いて部屋まで戻った記憶はある。

 レラが眩しいものを見る様な瞳で、「この時が、ずっと続けばいいのに……」と囁くように言っていた言葉も覚えている。そう思い出してレラの顔を見てみると、少し目元が赤くなっていた。

 泣いていたのだろうか。


「わふっ?」


 起き上がり、ぐーっと伸びをしたナギが、尾を振りながら顔を傾げた。

 その銀色の頭を撫でながら、サナトは薄い肌掛けをレラの肩まであげ、起こさないよう静かに寝台ベッドを出る。顔を洗い簡単に身支度を整え、腕の包帯を替えると、長剣と短剣を腰に部屋を出た。

 初めてこの部屋に泊まった晩、開かなかった扉は音もたてずに開いていく。

 結局、あの扉の封じは何だったのだろう。


「ナギ、少し走ろうか」

「おんっ!」


 静かに、と口元に指を立てて朝の廊下を行く。

 扉の件は精霊に尋ねても答えが返らないのなら、考えても仕方がない。少なくとも今は自由に出入りできるのだからと、白む窓の外を眺めながら歩く。

 今はもやがかかっていても、今日はいい天気になりそうだ。

 途中、早起きの召使いとすれ違い、「食事時には戻る」と声を掛けて城の外に出た。


 深呼吸をする。

 濃い緑と水辺の匂い。

 花火を見上げた時、微かに感じた火薬の気配。そして宵祭よいまつりの屋台から漂っていた美味しい匂いが残っている。そう言えば、祭りは数日続くのだとファビオかニノが言っていた記憶がある。


「さて、どこをどう走ろうか」


 昨日は夜まで歩き回ったとはいえ、体は鈍りに鈍っている。

 軽く腕や肩を伸ばしながらナギに問うと、「おんっ!」と一声吠えて数歩進んだ。サナトが倒れていた間に、お気に入りの散歩道を既に見つけていたようだ。


「よし、案内を頼む」


 言うと同時にナギが軽く走り出した。

 久々の運動の手始めには丁度いい。

 深淵の森とは違って枝は伸び放題ではないし、何より整えられた道がある。それもそのはずで、少し走っただけでも庭木の手入れをする者や、城の石畳を掃き清める使用人たちとすれ違った。

 まだ、多くの人が眠っている時間から働き始めている者たちがいる。


「すごいな……」


 これだけ広大な建物や敷地を維持管理するのは、大変だろうと思う。

 自分が暮らしていた里の小さな家ですら、遠出の狩りで三日空ければ空気が淀んだ。土地や家を守る精霊たちが居心地いいように掃き清めるのは、魔法を扱う者たちにとって当然の行いで、身の回りの細々とした物に敬意を払うからこそ、物は物として助けてくれるのだと知っている。


 城を一周ぐるりと巡り門番と挨拶を交わし、そのまま街まで足を延ばそうかと考えてからナギと相談をして止めた。

 あまりに気持ちのいい朝の空気に、そのまま王都の外まで走ってしまいそうだからだ。朝食の時分には戻ると言った手前、あまり遠出するわけにもいかない。

 気づけば初めてこの城に来た時、馬上から見た広場の辺りに来ていた。

 東の山々から上った朝陽が、金色の光となって朝露に輝く芝生を照らしている。徐々に靄も晴れ、鳥たちが歌い始めていた。


「おん! おんっ!」


 ナギが盛んに尾を振りながら、頭を低く前脚を伸ばし、吠え、跳ねたり跳んだりを繰り返す。

 狩りの真似事遊びをしようというのだ。ナギが小さい頃にはよくやっていたが、体格でサナトを上回りかけている今のナギだと、こちらも油断すれば組み敷かれてしまう。

 とはいえ、このところ思いっきりナギの相手をしていなかった。


「よし、少しやるか」

「おんっ!」


 携えていた長剣を外して置く。

 夢中になるあまり当たって痛い思いをさせては可哀想だ。代わりに鞘に収めたままの短剣を手に、サナトは笑いながらナギに向かった。合図と見て、ナギが跳躍する。

 するりと躱す。

 サナトを追い越したナギが軽く地を蹴っただけで、反対方向に身を捩り飛びかかってきた。それを簡単に躱しながら、ナギの肩を横から押し倒す。

 均衡バランスを崩したナギはそのまま草の上に転がり、次の瞬間には飛びかかる。

 身のこなし、切り替えの素早さは歳と共に鋭くなる。

 けれどサナトが捕まえようとすると、簡単に負けてしまう。


「わふっ! おんっ!」

「隙だらけじゃないか」


 わざと隙を作っては転がされて喜んでいるのだ。

 ナギにまで手加減されるとは情けない。


「なんだよ、もう少し本気を出してもいいんだぞ」

「わふっ!?」


 サナトの挑発にナギの瞳がギラギラし始める。

 掴みかかってくる、それを鞘に収めたままの短剣で受け止めて、引きずり倒す。だが、体を捩じり起き上がろうとするナギの勢いに引きずられ、今度はサナトが引っ張り倒される。


「そうはいくか!」


 がっちりとナギの首を掴むと、慌てて短剣から牙を離して吠えたてた。


「ばうっ! わふっ!」

「はははは! 逃がすか!」


 暴れる銀狼を掴み倒す。

 まだまだこの程度で力負けしてたまるものかと。

 なのにするりと抜けて、飛びかかってくる。負けじと胴を掴み直す。熱くなる。ナギもサナトも草切れまみれになりながら、引き倒したりすり抜けたりを繰り返す。

 どのぐらいじゃれ合っていただろうか、不意に人が近づく気配がして、サナトは注意を逸らした。瞬間、ナギにし掛かられた。


「わあっ!」


 わずかに息が上がる。芝生に寝転がるサナトの肩に牙を立てるフリをしたところで、ナギも顔を上げた。


「お前たちは何をやっているのだ」


 そこには、呆れ顔のアーニアがいた。


     ◆


 サナトとアーニア、二人並んで芝生に座るその向こうで、ナギが風の精霊を追いかけるように駆けまわる。余人が見れば小さな虫と戯れているように見えるだろう。

 無邪気な姿に、サナトはついつい笑ってしまう。


「まったく……城の広場で魔獣と人が戦っているというから、来てみれば」

「そんなに激しいものでは無いだろう」


 アーニアの苦笑にサナトも苦笑いしながら返した。

 ただのじゃれ合いだ。しかも、ナギは終始手加減していた。


「昨日あれだけ歩いていたから大丈夫だとは思っていたが、本当に、体への影響は無かったようだな」

「いや、思ったより体力が落ちている。眠っていたのはたった二日とはいえ、また鍛え直さないとダメだ」

「サナトは戦士ではなかろう?」


 立派なこしらえの長剣を携えてはいるが、今までの道中でサナトが戦士たろうとした姿をアーニアは見ていない。魔法剣士かと聞かれることはあっても、本人はただの旅人と答えていた。アーニアと対等に交えるだけの剣の腕がありながらだ。

 サナトはアーニアの問いにしばし首を傾げ、考える。

 自分から進んで戦いに挑むということは無いが、日々の生活をこなし、大切なものを守り切れるぐらいの力は保持していたい。


「戦士ではないが、動かせるものを動かせるようにしておかなければ、この身体の精霊に対して失礼だ」

「己が身体に宿る精霊か」

「そうだ」


 迷いなく答えるサナトにアーニアは苦笑した。


「老いも若きも怠惰たいだに流れるのは簡単だというのに、サナトの、精霊に対する思いの深さは見ていて頭の下がる思いがする。本当に大切なのだな」

「お前も、この国の民が何よりも大切だろう?」


 道中でも感じていたことだが、街の人々と言葉を交わすアーニアは、サナトの精霊に対する思いに近しいもののように感じる。


「この都は本当に平和だ。森の外は、もっと淀みや澱が溢れ、妖魔が跋扈ばっこする世界だと思ってた……」

「全く争いや小競り合いが無いわけではないぞ。澱もしかり。まぁ、今回は、サナトがまとめて浄化した上に、常日頃は兄上の存在で常に浄化されているからな。他の都市よりは平和であろう」


 確か妖魔と化したザビリスと戦う最中、アーニアお付きのジーノが言っていた。

 サナトが使う魔法ほど即効性は無くとも、王子は「そこに存在しているだけで澱を戻す」のだと。


「以前聞いたな。魔法なのか?」

「仕組みは私にもよくわからない。ジーノは特異体質みたいなものだろうと言っていた。王とその王位を継ぐ者だけに顕れる、太古の竜との盟約という伝承もある。だから同じ王族でも、私にその能力は無い」


 はしゃぎ疲れたのか、芝生に寝転がるナギを眩しそうに見つめ、アーニアが言う。

 もしアーニアにそのような力が備わっていたのなら、この国のみならず、進んで妖魔の蔓延はびこる危険な場所に進んで行ったかもしれない。


「それでも……これほどまでに清浄な大気は、母上がいた頃以来だ」


 アーニアの視線は遠くを見つめたまま。

 サナトは横に座る、女騎士の様な姿の王女を見た。


「母か……そう言えば、王妃の話を聞かないな」

「私が、十三の時に亡くなった」


 声音は変わらない。

 表情も、変化したようには見えない。ただ淡々とした様子で、アーニアはサナトの方を見た。


「話を聞きたいか?」

「お前が話したいのならば、聞く」


 背筋を伸ばす。そんなサナトの様子にアーニアは困ったような笑みを向けた。


「そうか……んん、そうだな……今はやめておこう。そのうち話すかもしれん。その時は聞いてくれるか?」

「わかった」


 立ち上がり伸びをするアーニアは、ひとつ深呼吸をしてからサナトに振り向いた。


「代わりと言っては何だが、一太刀、手合わせ願いたい」


 濃紅こいくれないの髪をなびかせ、ニッ、と笑う。その鮮やかな笑顔に、サナトは頷き立ち上がった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る