5 第55話 苦い薬

 窓の向こうから、城の衛兵か騎士のものと思われる訓練の掛け声が、風に乗って届いている。

 眩しい陽射しや漂う精霊の様子から見ても、晴れ渡ったいい天気なのだろう。城門を抜けた直ぐの場所に広い庭があったから、きっとそこで鍛錬をしているのだと想像してサナトは笑みになった。


 平穏な気配に満ちている。

 深淵の森も平穏な地だったが、森の樹々や獣たちの、自然の掟に従い生きる鮮烈な気配とは違う。笑い、競い合い、そして温かなものを自ら作りだし日々の暮らしを編み上げていく強さがある。


「そうか……祭りか……」


 今までにない、楽し気な気配の理由を思い出して、サナトは一人呟いた。

 寄り添うナギが顔を上げる。

 この城に来た日、三日後に夏至祭があるからそれまでは滞在していてほしい、とアーニアが言っていた。レラの話では、サナトは二日も眠り続けていたようだから、おそらく明日が祭りということになる。


「街は……無事だろうか」


 確実に妖魔を叩くためには、手加減などしていられなかった。

 防壁のように石の壁を立てたことは記憶にあるが、それがどの程度の効果となっていたかは分からない。何せ、自分の腕を焼くこともいとわず魔法を叩きつけていたのだから。


「わふっ! わっ!」


 ベッドの上では、飽きずにじゃれつくナギが腹を見せる。

 瞳を細め、包帯の手で撫でていると、扉の向こうから遠慮がちな声が掛けられた。レラが戻って来たのだ。サナトが声を返す前に、また眠ったかと思ったのかレラと二人の召使いが入って来た。

 直ぐにナギとじゃれ合うサナトを見て苦笑する。


「ご気分の方はどうですか?」

「頭の痛みは治まって来た。水を飲んだからだろう」

「よかったです……」


 微笑み返すレラの後ろで食事の準備が進む。てきぱきと動く様子は手慣れたものだ。サナトの意識が戻らない間、ずっとここで寝食を共にしていたのだろうか。


「こちらに食事をご用意しますので、その間、傷にさわらない様でしたら汗を流していらしてはいかがでしょう」

「あぁ……そうだな」

「着替えを、忘れないように! 裸で出て来てはいけませんからね!」


 念を押す。

 ここに来た日の夜のことを思い出しているのだろう。そういうレラも、同じようなことをしているというのに。


「レラのように忘れたりはしない」

「あ、あの時のことは忘れてください!」


 勝手だなぁ、と笑いながら、サナトは一人、着替えを持って浴室に向かった。


     ◆


 小窓のある浴室は以前と同じ筈だが、すっかり雰囲気が変わっていた。

 花咲く鉢が増えている。レラが使っていたのだろう、刷毛ブラシや香油の瓶の位置だけではなく、大きめの鏡が置かれている。サナトが眠っていた間、レラがどのように過ごしていたのか目に見えるようだ。

 サナトはその前で薄手の上衣を脱いで、両腕の包帯を外した。

 所々赤くなり瘡蓋かさぶたになった箇所もあるが、サナトの目にも治りかけていることが分かる。元がどのぐらいの火傷だったのか分からないにしても、包帯は少し大げさだったのではと苦笑した。


「これはもう必要ないな」


 洗って返すべきか、このまま置いておいていいのだろうかと思いながら、ふと左胸の上、肩の近くの違和感に顔を上げた。鏡に映る自分の姿の、奇妙に感じる場所が少し青くなっている。

 何かにぶつけた痕だろうか。

 訝しみながら指で撫でてみてから、眉間の皺を深くした。

 指先にあたる感覚は瘡蓋のようでも、違う。むしろこれは蜥蜴とかげや、水辺に生きる甲殻のような生き物たちの表皮に似ていた。人の形を失った森の人によくある形である。


「ついに、時が来たか……」


 深淵の森の大社おおやしろで森長が言っていた言葉が蘇る。「このままでは、お前は二十歳を迎える前に人としての形を失うだろう」と。


 覚悟はしていた。

 あれだけ多くの強制魔法を一度に使ったのだ。何らかの影響があるのも当然のことである。むしろこの程度で済んだということは、強制されながらも精霊たちはサナトを助けようとしていたからに違いない。

 人の姿のままでいられるのは二年か……長くても三年。もし再び、命を削るような強制魔法を使ったならば、今年の冬を迎える前に人の姿を失うかもしれない。

 来るべき時が始まった、ただそれだけのことである。


『やっぱり、不安?』


 不意に声が聞こえて、サナトは振り向いた。

 浴室にはサナトの他に誰もいない。なのに、はっきりと声が聞こえた。


『心配? 恐い?』

「誰だ?」

『見えなくなっちゃった?』


 声は近く足元からくる。サナトが身を屈めると、白い花をつけた植木の葉の陰から、蜻蛉かげろうのように薄い羽根をつけた小さな人がサナトを見上げ、くすくすと笑っていた。


「精霊か?」

『初めて見たみたいに言うよ』

『何度もお話、したのにね』

『オオカミの体は拭いてあげた方がいいよって、教えてあげたのにね』


 数体の小さな人が笑いながら言う。

 髪や腕は細い枝や葉のようになり、花の蕾がついた者もいる。大きな黒目だけの瞳は小鳥の瞳を思い起こさせた。手のひらの大きさの魔物、といった姿だ。


「この、草花の精霊なのか?」

『そうだよ。お帰り、サナト。前より強くなったね』


 そう言ってくすくす笑いながら葉の陰に隠れる。

 サナトは立ち上がり、ぐるりと部屋を見渡した。

 窓辺には流れる風を纏った美しい精霊がほほ笑む。水甕みずかめからも、耳元に魚のヒレの様な突起を生やした者たちがこちらを見つめ、目が合うと恥ずかしそうに隠れる。

 今までも精霊の姿は視えていた。けれどもっと輪郭は曖昧で、その殆どは、光が集まった揺らぎでしかなかった。声も、人の声と聞き間違えるほど明瞭ではなかったはずだ。


「力が、強くなった……?」

『ええ……そうよ。妖魔の誘惑から戻ってきたから』


 微笑み答える風の精霊に、サナトは皮肉な思いで苦笑する。

 あれほどザビリスがほっしていたものを、このような形で手にしてしまうとは。思い出しただけで、またあの暗がりに引きずり込まれそうな気がしてくる。

 これも受け入れるべき現実なのだ。

 サナトは頭を振ってから、水を浴び始めた。


     ◆


 浴室を出ると、既に食事の準備は整っていた。

 ナギが尾を振りレラが笑顔で出迎える。


「随分ゆっくりでしたね。水に浸かったまま寝てしまったのかと思いました」

「精霊と話をしていた」

「サナト様が戻られて、喜んでいたのでは?」

「そうだな……」


 サナトと同じように、ではないかもしれないが、レラも精霊の声を聞き取る。サナトは力や自身の魔物化には触れず、召使いが引いた椅子に礼を言いながら腰を下ろした。

 壁際に並び直す召使いは最初の夜と同じ、膝下までの紺の長衣に白い前掛けを着けた者たちだ。そのうちの一人は、以前食器を片づけに来た人だった。


「ここに着いた晩、お食事が冷えてしまったのは、予定外にエルネスト殿下とのお話が長くなってしまったせいのようです」

「申し訳ございません」


 湯気の立つ汁物スープを前にしてレラが説明し、召使いたちが頭を下げた。

 あの時は何も言わなかったが、もてなしが悪かったかと気にしていたのかもしれない。

 温和なレラも珍しく怒っていたのだ。いや、あれは閉じ込められたことに対してだっただろうかと、サナトは記憶を巡らせる。

 ただの連絡の行き違いか、それともやはり、こころよく思わない者たちによる意図的なものなのかは分からないにしても、目の前の召使いたちに非があるわけではない。

 不穏な気配があったからこそ、サナトたちも邪推じゃすいしてしまった。単に城には城のやり方があっただけなのだ。


「気にしていない」


 そう短く答えると、再び顔を赤くして頭を下げた。


「ところで……」

「はい」

「食事は汁物スープ……で?」

「はい?」


 粗食が嫌だというわけではないが、腹は空いている。よく煮込んだ具の少ない汁物スープは美味しそうでも、滴るような肉汁はない。


「肉も……食べたい」


 目の前で微笑むレラが、はっきりとした口調でさとすように答えた。


「サナト様、二日間何も食べずに眠っていたのですから、いきなりお肉はだめですよ」

「うっ……」

「後でまた治癒魔法師に診てもらい、大丈夫な様でしたらご用意して頂きましょう」

「俺はもう、どこも悪くない」

「サナト様」


 にっこり微笑んだまま譲らない。

 仕方なく、サナトは「わかった」と呟いた。


「それと……」


 レラは品のある造りの薬罐やかんから、覚えのある匂いの煎じ薬をグラスに注ぎ、サナトの目の前に差し出した。


「これは……」

「サナト様が里から持って来た傷治しの煎じ薬です。もぅ……火の魔法を使って自分の腕も焼いてしまうなんて、初めて聞きました」


 それだけ威力が大きかったということだが、話だけ聞けばどんな粗忽者そこつものかと思うだろう。口を尖らせながら言ったレラは、目の前の、包帯を取ったサナトの腕や手を見つめ、少し悲し気な声になって呟いた。


「倒れたサナト様を、城の魔法師たちが治癒しようとしたのですが、魔法が効かなかったのです。横で見ていた私には、精霊が拒否したように見えました。新たなおりを生み出さないよう阻止したのかと……心配……したのですよ」


 それは、おそらくであるが、精霊たちは力を使い果たした身体に余計な負担を掛けまいとしたのだろう。それはレラも感じたのか、苦笑いしながら続けた。


「駆けつけたニノ様の説得もあって、魔法ではなく、薬草など薬で治療をしてくださいという話になりました。思ったより傷が酷くならずに済んで、よかったです」


 そう言って微笑む。

 横で見守っていた召使いたちも、感極まった顔で頷いている。

 随分と周囲の者たちを心配させてしまったようだ。


「ですので、煎じ薬は飲んで下さいね!」


 笑顔で、ずい、と目の前に押し出された。

 心配をかけはした。

 だが、それはそれ、これはこれである。


「嫌だ」


 眉間に皺を寄せてサナトは答えた。

 レラが、耳を疑うように首を傾げる。


「はい?」

「それは苦いから飲みたくない」

「……」


 笑顔のままレラが問う。


「私に出していたものですよ。自分では飲めないというのですか?」

「俺は堪え性がない」


 横で様子を見ていたナギが「わふっ?」と声を上げた。


「だから、その煎じ薬を飲めるレラはえらいと、褒めただろう」


 深淵の森を出た最初の夜、参道を外れた森の中で薪を囲んでいた時の話だ。

 ぽかん、と口を開けたレラは、勢い、綺麗な眉を吊り上げて言った。


「もぅ! 怪我をしないように気をつけるとおっしゃっていたのに、怪我をしたのです。うんと苦い煎じ薬でも、飲んで頂きます!」

「もう治った」


 ぷい、と横を向く。


「まだ傷は残っているでしょう! ちゃんと飲んで下さい! 飲まないのでしたら、精霊たちからも叱ってもらいますよ!」


 部屋を見渡せば、窓辺や飾られた花の陰で精霊たちが笑っている。

 サナトの味方というわけではなさそうだ。


「ううぅぅう……」


 観念してグラスを取り、ちびちびと口をつける。

 召使いたちが笑いを堪えている。

 ナギはサナトの膝に手を乗せ、「くふぅ~ん」と同情するように鼻を鳴らした。





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