第五章 書きしるす物語

5 第54話 夢が告げる

 精霊の呼ぶ声が聞こえる。

 風が吹く。広大な深淵の森の、緑のこずえが騒めいている。顔を上げたサナトは、ひどく懐かしい景色だと瞳を細めた。


 森の人が暮らす里の中ほどには、縦横に巡る小川が流れている。その元を辿って行くと、滾々こんこんと湧き出る泉に至る。色鮮やかな葉の樹々に囲まれた、皆が水場に使っている場所だ。

 泉は水底に眠る小魚の鱗が見えるほど透き通り、夏場でも冷たい。水辺では精霊たちが、たゆたう流れに歌を口ずさんでいる。

 宝石を散らしたように輝く水面を覗き込むと、小さな子供が見つめ返した。七歳、いや八歳ぐらいだろうか。自分の手を見ると、水面に映った子供と同じ小さな指があった。


 ――泣きたくなるほど静かで、穏やかな世界だ。

 そんな世界のどこからか、サナトを呼ぶ声がする。

 もう一度周囲を見渡す。


『サナト……迎えに、行って』


 精霊に呼ばれたサナトはきびすを返し、里の門を出た。

 ふわふわとした心地で、足は地に着いていないようだ。

 風が流れ、樹々や草花が道を開く。声に導かれるまま向かううちに、行き先は深淵の森とを繋ぐ祭壇のやしろなのだと気がついた。

 そこからに出たなら、もう森に入ることはできない。だから決して一人で行ってはいけないと言われていたのに、サナトの足は止まらなかった。


 どれほど走っただろう。

 やがて樹々の間の細い道から開けた場所に出ると、大きな社が見えた。古い独特の形を持つ社の向こう側は広場となり、その更に向こうに精霊を模した柱が並ぶ。

 広場では夏と冬の年に二回だけ、近くの村の人たちがの珍しい物を持ってくる祭があった。けれど今は夏の終わりなのか、広場に賑やかな気配など無く、ただ、風と鳥と、虫の声だけが辺りに満ちている。


「だれかいるの?」


 自分の声とは思えない程、高く幼い声だった。

 社の周囲をぐるりと巡る。

 呼びかけに応える声はないが、精霊や虫たちとは違う気配がある。

 サナトはそっと祭壇の社の階段を上り、左右に開く大きな扉に触れた。

 社までならば、外の人たちも自由に入ることができる。いつ誰が来てもいいように扉に鍵はかかっていない。とはいえ、普段はぴったりと閉じられているはずの扉が、この時は僅かに開いていた。

 そっと覗き込む。

 広くガランとした空間の向こうに、うずくまる黒い影がある。

 サナトは音を立てない様に扉の間に滑り込んだ。

 影は動かない。もう少し近づいて見てみると、影は青と銀の装飾が施された輝く鎧を着た騎士だと分かった。


 うつむいた背中を向けていて顔は分からない。ただ長い外套と、肩の少し下まで伸びた真っ直ぐな黒髪や頭の両側から突き出る大きな角が、窓から降り注ぐ陽の光に輝いていた。

 サナトは不思議そうに首を傾げ、その姿を見つめた。

 青黒い大きな角は自分に無いものだが、四肢は同じ人の姿をしているようだ。里に住む森の人の中で、サナトのように人の形を残している人はいなかったから、とても不思議なものに見えた。


 側まで近寄ったサナトは、筋となって下りた光の当たる角を見つめる。

 角は、以前ダオやサナカが見せてくれた、黒曜石という石のようにキラキラしている。その輝きに魅せられるように、サナトは小さな手を伸ばして角に触れた。


「きれい」


 はっ、と息を飲んで黒髪の人が顔を上げた。

 泣いていたのか、長い睫毛が涙に濡れている。瞳は吸い込まれそうな黒に、星月夜のような青と紫が混ざる。森で一番強い雌鹿のように美しく、凛とした顔立ちだった。

 黒髪の人は目の前に子供がいることに驚いているのか、言葉を失っている。

 サナトは首を傾げながら、尋ねた。


「森の人になるの?」

「森の……人?」


 声は少しかすれていた。

 泣きすぎてなのか、元からそのような声なのかは分からない。けれど里にはもっとしわれた声の人がいたから、サナトは気にせず笑い返した。


「うん、精霊がこの森に入っていいよって言って、森のオオカミが許してくれたら森の人になれるんだよ。里でいっしょに暮らすんだ」


 森の人になる、外から来た人は何も知らないのだと、サナカが言っていたのを思い出す。だから、優しく教えてあげるのだとも。

 きっと精霊が『迎えに行って』と言っていたのは、この人のことなのだろう。


「おれが、案内してあげる」


 どす黒く鋭利になった指先を握り、サナトは言った。

 黒髪の人がサナトを見つめる。


「私が……恐ろしくないのか?」

「かっこいい!」


 サナトは元気な声で答えた。


「クマやタカの爪みたいで強そうだ! 角は北の崖にいるオオヤギより立派だよ!」


 にっ、と歯を見せて笑う。

 最近子供の歯が抜けて、歯と歯との間にすき間が開いていた。ダオはその歯を見る度に大笑いするのに、黒髪の人は泣きそうな顔で微笑み返すだけだった。

 そして、ゆっくりと立ち上がる。

 とても背が高くて、サナトはぽかんとした顔で見上げた。


「おっきい……」

「そうか? お前もいずれ大きくなる。誰かを守れるほどに」


 そう囁くように言って、とても立派な剣を携えたその人は尋ねる。


「……少年、名を何という?」

「サナト!」

「サナト……」


 深い色の瞳はもう、涙に濡れていなかった。

 窓から陽射しが輝きを増していく。するりと手が離れて、姿が光の中に掻き消えていく。


「サナト」


 懐かしい、森長の声が響く。

 眩しさに目を開けていられなくなる。


「フィオレラを、守っておやり……」


 輝く金色の光の向こうで、声は確かにそう告げていた。


     ◆


 ふ……と、瞼を開くと、窓からの陽射しが部屋を明るく照らしていた。

 窓の白く薄い垂れ絹カーテンが、風に揺れている。

 見覚えがある部屋。なのに、どこと思い出せない。夢の続きのような、穏やかで、眩しい光がある。

 瞼にかかった髪をかき上げようとして手を上げると、包帯を巻いた、子供のものでは無い大きな手があった。

 鈍い痛みと痺れがある。堪えきれない程ではないのだが……。


「ここは……」


 思いだしてきた。ここは、王城の一室だ。

 自分は今、城の寝台ベッドの上に横たわっている。

 呟いた声に銀色の狼が跳ねるように飛び乗って来た。


「わふっ! わっ、わっ、わおんっ!」

「ナギ……?」


 はち切れんばかりに尾を振る。その向こうで、膝下までの白い上衣を着た人が椅子から立ち上がり、サナトの側に駆け寄ってきた。


「サナト様!」


 覗き込み微笑む。薄桜色の髪と宵の空のような青い瞳の少女、レラだ。


「やっと……目が、覚めたのですね」


 長い髪が肩から滑り落ちた。その髪を耳にかき上げる手首には、いくつもの石を括りつけた腕輪が輝いている。胸元に、青い結晶石が揺れている。

 広場で戦った妖魔を戻す・・時、おもいの強さに引きずり込まれた。飲み込まれ、我を失いかけた時に、この腕と声が引き戻した。


「フィオレラだ……」


 光に浮かび上がる明るい肌に、ほんのりとべにをさしたような頬。

 青い瞳が細められる。淡い花びらのような唇が笑みの形になる。


「はい」


 手を伸ばすと、指先が頬に触れた。

 出会った時から変わらない、サナトに向ける柔らかな微笑み。


「……レラ……」


 ふと、夢の中で見た人の姿を思い出した。

 あれは子供の頃――森長と初めて出会った時のことだ。ずっと忘れていたのに、なぜ今頃思い出して夢に見たのだろう。

 その記憶の中で、幼いサナトは森長の姿を恐ろしいとは思わなかった。かっこいいとすら言った。熊や鷹や大山羊に例えるのもどうかと、今なら思うのだが。

 そしてレラも、サナトに対して同じように言った。


 この魔獣のような目が恐ろしかったのだろうと、自嘲じちょうしながら呟いた言葉に、レラは「とても綺麗です!」と身を乗り出して言ったのだ。「琥珀こはくのようで」だから「恐ろしいなんてことは、ありません」と。

 今なら思う。

 ありのままの自分を受け入れる存在が一人でもいるのなら、魔法など無くても、強くることができるのだ。


「ぼうっとして、まだ目が覚めませんが?」


 肩を竦めるようにしてレラが微笑む。

 サナトはこの不思議な存在を思う。こんなふうにレラに触れたのも、初めてかもしれない。


「なぜ……そんなに柔らかいのだ?」

「ふふっ、まだ寝ぼけていらっしゃるのですね」

「わふっ! わっ!」


 ナギが吠えて尾を振る。

 乗りかかるようにして顔を舐めてくる。こんなにはしゃぐナギは、里を出る時以来だ。


「起きられますか? 二日も眠りっぱなしだったのですよ」

「ああ……」


 答えて、体を起こそうとしたとたん、痛みに頭を抱えた。

 そのまま再び寝台ベッドに倒れ込む。


「いっ……ててて、頭が、痛い……喉が」

「渇いているのですね。今、お水をお持ちします」


 軽い足取りで卓子テーブルに向かう。

 水差しの飲み物をグラスに注いで、戻ってくる。ただそれだけの仕草だというのに、サナトは目が離せない。


「先程持って来て下さったばかりです。まだ冷たくて、美味しいですよ」


 眩しい笑顔を添えて差し出される。

 ぼおぅ……とした意識のまま見上げ、サナトはぼそりと呟いた。


「……飲ませて、くれ」

「えっ……?」


 きょとんとして、レラが首を傾げた。


「ダメなのか?」


 包帯の手は、痛みがあるとはいえグラスを持てない程ではない。それでも何故かサナトは、そう言ってみることでどんな反応をするだろう……と好奇心が湧いた。

 見る間にレラの顔が赤くなる。口をぱくぱくさせて、狼狽ろうばいしている。

 面白い。


「あ、いえ……そうですね。その……少し、体を起こしてください」

「んんっ」


 人に介抱してもらう、というのも滅多にないことだ。

 グラスの冷えた水を飲み干して、サナトはもう一度寝台ベッドに横たわった。水を介して精霊の力が身体の隅々まで行き渡っていく感覚がある。

 尾を振り吠えながら、ナギがじゃれついてくる。


「ナギ……あまり尾を振り回していたら、取れてしまうぞ」

「わふっ!?」

「はははっ!」


 久しぶりに声を出して笑ったような気がする。

 気分は悪くない。けれど自由に身体を動かすには、まだ重く怠い。

 見つめるレラは肩の力を抜いて、苦笑いしていた。


「……レラ、俺はもう少し、横になっているがいいか?」

「え、ええ、そうですね。私、サナト様の目が覚めたこと……皆さんに伝えてきます。お食事の用意も」


 そう言って、顔を赤らめたまま部屋を後にした。

 窓からの陽射しの様子から見て、まだ昼前なのだろう。穏やかな風が薄い垂れ絹カーテンを揺らす。また、うとうとと心地よい眠りに誘われそうになる。

 ナギが笑うような顔で、サナトの顔を覗き込んだ。


「寂しかったか? ナギ」

「わふっ!」

「ははっ……」


 ずっと側で見守っていたのだと思う。

 もふもふした首や頭を撫でながら、夢の中の森長の言葉を思い出す。

 夢というにはやけにはっきりしていた。「フィオレラを守っておやり」と告げた声が、いつまでも耳に残っている。


「もちろんだ……」


 サナトは一人呟き、答えた。






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