5 第56話 ただ受け取ればいい

 子供の頃は、じっとしているのが苦手な性格だった。

 洞穴ほらあながあったら覗いてみる。見かけ無い物が樹にぶら下がっていたら、突っついてみる。山羊や鹿がいれば背中によじのぼり、猪を追いかけた。さすがに森の人の先輩であるダオに、熊や狼とは喧嘩をするなと叱られた。

 ならばと蛇に挑んで、酷い目に遭ったことがある。

 そんな時に決まって出てきたのが、この目の前の苦い煎じ薬だ。傷を始めとした怪我に関する薬草の中では一番効果があることを、サナトは身に染みて知っている。


「の……飲んだ……」

「頑張りましたね」


 レラに褒められてもあまり嬉しくない。

 グラスを片づける姿を恨めしそうに眺めるサナトの前へ、様子を見守っていた召使いの一人が進み出た。壁際の小さな卓子テーブルに用意していた飲み物を、そっと差し出す。


「あの……お口直しに、こちらを」


 爽やかで甘い、香草に果物や蜂蜜の香りがする。

 口をつけてみると味や香りはしつこくなく、冷たい水に口の中が洗われた。


「ありがとう……」


 心からそう思って顔を向けた。それなのに召使いは小さく声を漏らして、サナトの側から離れてしまった。

 礼を言っただけでも逃げられるとは。やはり自分は怖いのかと思うと、落ち込まずにはいられない。ナギはサナトの膝に手を乗せ、「くふぅ~うぅん」と同情するように鼻を鳴らした。

 そんなこんなで汁物スープも綺麗に平らげ、一息ついたちょうどいい頃合いに、扉の向こうから声が掛けられた。


     ◆


「いやぁ、今日は暑くなりそうですよぉ」


 挨拶をしたファビオがさっそく情けない声を上げる。

 陽の位置は南の天頂に昇り、もう昼の頃になっていたようだ。

 やっと目が覚めたと聞きつけたアーニアお付きのファビオとニノは、簡易鎧の襟元を手で仰ぎつつ、部屋に連れて来た城の治癒魔法師を紹介した。


「眠っている間に何度も診せてもらいました。言葉を交わすのは初めてになりますね。王都アルダンの王城付き治癒魔法師を仰せつかっています、ハイノ・フォン・ラングと申します」


 大きな鞄を床に置いてから、深みのある声で名乗る。

 先日の、アーニアを囲んで朝食をとっていた時にニノが話していた魔法師で、唄文ばいもんや澱に興味を持ったのか「詳しく話を聞いてみたい」と話していた人だろう。

 細い瞳は笑みの形で、治癒系の魔法師にしてはしっかりとした体つきをしている。年の頃は三十代初めのようだ。落ち着いた物腰のため、実際にはもう少し若いのかもしれない。

 肩までの長い濃紺の髪を後ろで一つに縛った頭頂には、耳がピンと伸びていた。膝まである薄い若緑の上着の切れ込みから、見え隠れする尾がある。城で初めて見た獣人だった。


「サナトだ。治療をしてくれたのは、あなたか?」

「えぇ、酷い火傷やけどでしたのに治癒魔法が効かず焦りました。腕は……無事だったようですね」


 食事の席を離れ、寝台ベッド脇に移動し座り直す。「診せてくださいますか?」というハイノの言葉に頷き、サナトは素直に従った。

 既に包帯を外していた腕を、丁寧に手に取る。


「いや、これはつくづく、本当に……どういうことなのでしょうね」


 両手の平から指の様子を診て、問題なく握り開きができるか確認する。更に肘や肩の曲げ伸ばし、首の状態を確かめたハイノは、呟きながら顔を上げた。

 上衣を脱ぐように言うかと思ったが、その様子はない。

 遠巻きに様子を伺うレラや召使いたちに配慮したのだろう。


「良くないのか?」

「いいえ、良くなりすぎ、という言い方は変ですが、驚異的な回復力です」


 レラを始め、ファビオやニノがほっとする様子が見て取れる。


「私が最初に拝見した時は本当に酷かった。命をあやぶむ程です。仮に一命を取り留めたとしても、数日は寝たきりに。治癒魔法を使わなければ完治など望めない様に思えました。もちろん、以前のように剣を握ることなど、とてもとても……」


 ハイノの言葉に顔を上げると、胸の前で手を握っていたレラが頷く。覗き込むファビオとニノも同じように「見てられなかった」と口々に頷いた。

 先程は口を尖らせ拗ねる様な口調で怒ったレラだったが、気持ちを抑えていたのかもしれない。


「手首や指の動きに違和感はありませんか?」

「多少の痛みと痺れはあるが、問題ない」

「そのようですね」


 もう一度握ったり開いたりと、軽く動かす様子を見てハイノは頷く。


「顔や首の方は綺麗に治っていますし、腕は……多少の瘢痕はんこんや引きれが残ったとしても、動きに支障はないでしょう」


 そう告げて、大きな鞄から新しい包帯や塗り薬を取り出した。

 サナトが眉間を寄せる。


「それはもう、必要ないと思うが……」

「まだしばらくは保湿をして、陽に当てない方がいいです。それに、見ている方が痛々しいんですよ」


 苦笑するハイノに言われて顔を上げると、固い表情のレラがいた。

 包帯をするだけでレラが少しでも安心するのなら、拒否することもできない。


「正直、昨日や一昨日の経過を見て、どんな魔法が働いているのかと不思議でなりませんでした。これが精霊魔法の威力なのですか?」

「俺が自分に魔法をかけたわけではない」

「深淵の森に伝わる秘術ではなく?」

「違う。ただ――」


 手元から足元に視線を向けると、鞄の陰から小さな精霊が覗き込んでいた。

 手のひらほどの大きさで浴室にいた草花の精とはまた違う、子供のような姿だ。この部屋の守りなのか、どこからか迷い込んだものなのかは分からない。更には、寝台ベッドに飛び乗り、サナトの背中から覗き込むナギの頭にも乗っていた。

 その小さな精霊たちが、『こうしたんだよ』と、サナトに向けて小さな手をかざした。

 淡い光りが灯る。

 決して強い力ではないが、昼夜を問わず、こうして傷を治そうとしてくれていたのだ。


「ただ……精霊たちが力を貸してくれた。それだけだ」


 サナトは精霊のことなら何でも分かると思っていたが、そうではなかったようだ。人が思う以上に、精霊たちは側に寄り添っている。


「……ニノ様が言っていたように、いろいろと、根本的に、物事の考え方を改めなければならないようですね。このような奇跡を目にしてしまうと」


 包帯を巻き終わり、道具をしまうハイノは苦笑する。

 その人好きな笑顔につられるように、サナトも笑い返した。


「何も難しいことじゃない」


 人ひとりが知りえることなどたかが知れているのだ。

 それでも、これだけははっきりと言うことができる。


「人が魔法で世界を操るのではなく、この世界自体が魔法なのだから――ただ、受け取ればいいだけなのだと、思う」

「この世界自体が魔法……なるほど、そのお言葉、胸に刻んでおきます」


 ハイノが答える。

 ナギはサナトの肩に鼻先をつけて、すんすんと鳴らす。

 その頭の上にのっている精霊も、まるで銀色の草原にいるように、もふもふした毛に手足を伸ばして寝転がった。もしサナトが間違ったことを言ったなら、『それは違う』と声を上げたことだろう。

 一息ついたところで、パシ、と手を鳴らしたファビオが声を上げた。


「さて! 俺にはもう全快のように見えるんだが、もう一日二日、寝台ベッドに縛り付けておかないとダメでしょうかねぇ?」

「いいえ、本人が寝ていたい、と言うのでなければ起きていてもいいでしょう。どうです? サナト様」


 ハイノに問われてサナトは返した。


「大丈夫だ。むしろ寝すぎて体が鈍っているから、少し動かしたい」

「それは丁度いい」


 ニヤリ、と笑うファビオの横でニノがため息をついた。


「実は王都を守った英雄様ということで、ご尊顔を拝したいと、あっちこっちからお偉いさんが詰めかけているんだ。予定がぎっしり入っているからな、順にご案内いたしましょう」


 ファビオの声に、レラが慌てて止めに入る。


「ファビオ様、どうぞ、無理のない範囲で……」

「だぁーいじょうぶですよ、任せてください!」

「その言い方、信用できないよねぇ」


 ニノが呆れたような声で呟く。置いてけぼりをくらっているのはサナトだ。


「英雄……とは、何の話だ?」


 困惑するサナトに、ニノが笑った。


「恐ろしい妖魔を倒しただけではなく、王都から近隣一帯を一瞬で浄化してしまったと、それはもう大騒ぎになっていたんですよ。サナトさんが眠っていた間に」

「近隣……一帯?」

「ああ、おかげで今年の祭は大変だぞ。エルネスト殿下も取って置きのお祝いをぶち上げると仰っていた。後でアーニア様も合流する予定でいるから、それまで俺たちは、お二人の護衛役だ」

「お祝いをぶち上げる?」


 胸を張るファビオにサナトとレラは首を傾げ、ニノとハイノは苦笑しあう。そうと決まればさっそく出発しようと、ファビオは準備を促した。


「そう言えば……」


 焦げて使い物にならなくなったからと、新しく用意してもらった革靴ブーツを履きながらサナトはレラに声をかけた。


「レラはもう書庫に行ったのか?」


 忘れていなかったのかと驚いた顔を向けるレラは、「いいえ」と答えて首を横に振る。


「いろいろと……それどころではありませんでしたので」


 困ったような笑顔で答えた。

 確かに命すらあやぶまれた者を前に、それどころではなかっただろう。


「俺が倒れたせいだな」

「書物よりも、サナト様のお側で見守りたかっただけです。それに同席を約束されていますアーニア様も忙しくしていらして。書庫は今も入室禁止にしていますし、祭が終わってからゆっくり拝見させて頂こうかと」

「そうか……不自然な封印や、気配の原因は分かったのか?」

「いいえ、不明なままです」


 と、一度言葉を切ってからレラは苦笑しつつ続けた。


「実は扉に掛けられていた強制魔法や、書庫内の妖しい気配は、その……サナト様がまとめて戻して・・・しまったようでして」

「まとめて……戻してしまった、と?」


 さすがのサナトも驚き目を丸くする。

 確かに「全て戻す」とは言ったが、自分は一体、どれだけのことをやらかしたのだろうと眉間を歪ませた。

 ともあれ、原因不明なまま解決という、何とも釈然としない結果になっていたようだが、今となっては仕方がない。城も無事だったのなら良しとするべきである。


「サナト様、せっかくですから、今日はお二人の案内にお任せしましょう。街の人たちも心配していると聞いております。無事な姿を見せて、安心していただきませんか?」

「そうだな」


 頷いて、サナトは寝台ベッドの側に置かれていた剣を手にした。








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