4 第52話 ザビリス

 体を起こし、静かに瞼を閉じる。

 痛む肺を押し黙らせるように、呼吸を整えていく。

 散らばる灰が黒い影となり、ぞろりと蠢いた。遠巻きに取り囲む者たちは恐怖の声を上げて更に距離を開ける。サナトを中心に、風がゆっくりと渦を巻き始める。


 強制魔法を使った直後で精霊は応えてくれるだろうか。

 その僅かな不安を、「全て戻す」とレラに約束した意志でねじ伏せる。


「水の、其のものの流れ整え、火の、穢れは光と還る」


 灰が、闇を押し固めたような亡霊となって、ゆらゆらと立ち上がった。

 いつまでも耳に残るような、怨嗟えんさの声は無い。


「風の、其の自由を示せ、土の、受け入れたもう……」


 天空の遠いところで雷鳴が響く。冷たい風が吹き込んでくる。

 羽虫の塊のようになって、闇が、サナトに伸びてきた。

 そのおぞましい姿を前にして、不意に数日前の、ジーノと話していた声が記憶の底から蘇った。

 羽虫が人を操る、という例えた話から、「それが毒虫であったり、数え切れないほどの数の虫であったなら、人は敗れるのではないかな?」と、薄く笑みを浮かべたような声の裏に、何か含むところがあるような気配をにじませて訊いた。

 サナトはその例えに「その通りだ」と答えた。

 羽虫ひとは、世界を壊すことも可能だ。人が誤った方法で魔法を使い続ければ、この世界を壊しかねない。そして壊れた世界で、人は生きていくことなどできない


「共倒れになるわけにはいかない……」


 わぁぁあああぁん、と大気を震わせる音となり、澱が、襲い来る。

 真正面から受け止め、サナトは唄文を唱え続ける。


「水の、この地を清め……」


 暗く重く、焼けるようなおもいがサナトの中に入り込んできた。骨をも焼く痛みに、呼吸が乱れる。

 大地に突き刺した剣の柄を握り、身体を支える両脚に力を込める。


「清め、漂い、怒りと悲しみの大気を鎮め――」


 閉じた瞼まで震えてくる。

 闇の奥底から、声が聞こえ始めた。

 灰となる瞬間までザビリスが求めていたもの。

 力を……よこせ、と。

 同調すれば心と体を蝕んでしまう。自分が妖魔となってしまう。

 引きずられてはいけない。

 踏みとどまれと心の中で言い聞かせ、静かに唄文を唱え続ける。



「火の、剣に宿り炎となりて穢れを灰に、気枯れを……に……」



 耳に――届く音が遠ざかっていく。

 足の裏も、手の感覚も鈍く、消えていく。

 風の気配も無い。

 静かだ。

 精霊の気配すら、無い。

 今までに感じたことのない違和感に、ゆっくりと、瞼を開けた。

 くらい。


「ここは……どこだ……」


 サナトの目の前に広がるのは、静寂の闇だった。天も地も無い。ただ寒々とした闇だけがある。見れば握っていた筈の剣も無い。

 全身に冷水をかぶったような悪寒が走る。


「まさか……」


 サナトの声は、そのまま闇に吸い込まれていった。

 まさか自分は澱を戻すことに失敗して、歪みに、澱に飲み込まれてしまったのだろうか。「人がそのまま妖魔になる」と言った言葉が、足先から這い上がってくる。

 と、その時、軽い足音が聞こえた。


 闇の中で目を凝らす。

 ぼんやりと、霧が薄くなるように闇がとけていく。その視界の向こうに、駆けていく子供の後ろ姿があった。


 見覚えは無い。土色の髪に、村人には見えない整った身なり。背格好から十歳前後だろうか。その子供が、不意に立ち止まり振り返る。

 視線は噛み合わない。少年に、目の前のサナトは見えていないのだ。

 細面の少し神経質そうな顔立ちの子供だった。

 その子の表情が硬くなる。不意に声が響き渡る。


『ザビリス!』


 サナトの背後から人影が現れ、子供の腕を乱暴に掴んだ。


『何をやっているザビリス。早く来い!』


 引きずるようにして乱暴に連れていく。その姿を呆然と眺め、サナトは呟いた。


「ここは……ザビリスの記憶の中だ」


     ◆


 少年ザビリスが住まう屋敷は、林に囲まれた湖畔沿いの寂しい場所にあった。

 周囲に民家の影はない。領主の城や屋敷ならば、そこに村か町でもありそうなものだったが、幾人かの使用人が行き来するだけの忘れられた居城だった。

 そこでザビリスは幼い頃から、領主になるべく教育を施されていた。


『領主たる者、魔を滅し人々を導く力を示さなければなりません』


 教師は鞭を手に朗々と領主の心得を説く。


『この南方の領地は、今でこそ、魔物の跋扈ばっこする沼と湖ばかりの土地ですが、蔓延はびこる魔をことごとくめっし大地を造り変えれば、また民も戻ってくるのです』

『そんなの……無理だよ』


 ぽそり、と呟いた声に鞭が飛ぶ。

 ザビリスは表情を消して押し黙った。


『貴方様がそのような態度ですから、未だ魔法の力を示すことができないのです。私は父上様の厳命により、貴方様を立派な領主にするのが務め。言い訳は一切許しません!』


 そう叫ぶように言い捨ててから、薄暗い部屋に置いた、台の上の盆に手をかざす様に言う。盆の中には泥水が満たされていた。


『さぁ、これを豊かな土に変え、草花を芽吹かせるのです』


 言われてザビリスは呪文を唱える。

 けれど、泥水が土に変わるどころか、泡の一つも浮かばない。


『集中力が足りないのです。それとも私に反抗しているのですか?』

『ちがう』

『言い訳は許しません!』


 鞭が飛ぶ。ザビリスは表情を消して、呪文を続ける。変化は無い。

 サナトは――それを愕然がくぜんとした思いで見つめていた。

 ザビリス側からサナトは見えていないが、サナトには精霊を含め周囲の様子が良く分かる。


 泥水が泥水であるのには理由がある。その泥の中でしか生きられない命を育むため。だから敢えてこの地の精霊は、泥の形をとっているのだ。

 まして今、盆の泥の中に埋め込まれた種は死んでいる。死んだ命を蘇らせるなど、強制魔法でも不可能である。それでも魔法を強行して芽を出させたのならば、それは生き物の皮を被った妖魔でしかない。


「やめろ!」


 微かに残っていた精霊すら消えてしまう。残るのは歪みや澱だけだ。

 サナトは思わず手を伸ばし、少年の腕を掴もうとした。だがまぼろしのようにすりぬけてしまう。ここは、ザビリスの記憶の中の世界だから、サナトは一切干渉することができない。声も、届かない。


『魔法を会得するまで、そこで呪文を唱え続けなさい』


 そう言い捨て、教師は部屋を出ていった。

 ザビリスは延々と呪文を唱え続けている。虚ろな瞳で、もはや自分が何をやっているのか分からなくなっているのかもしれない。

 サナトの眉間に皺が刻まれる。


「これが、あいつの世界……なのか?」


 周囲の闇が深くなる。

 再び思わぬ方から声が響いて、サナトは振り返った。

 ザビリスに似た、けれど明るい表情の子供が走って来る。


『お兄様!』

『ダニエル』


 机の上の分厚い本から顔を上げた少年は、先ほどのザビリスだった。

 時が進んだのか、少し年齢が上がっている。十二か、十三歳程だろう。ダニエルと呼ばれた子はそれより四、五歳は幼かった。


『お兄様、剣のけいこのあいてをしてくれるって、約束だったでしょう!』

『ああ……でも、この本をもう少し読んでしまわないと』

『やーくーそーくー!』


 ザビリスには弟が居たのだ。

 困った顔を返すザビリスの腕を取り、弟ダニエルは椅子から引っ張り上げようとする。いくらダメだと言っても聞かない弟に根負けして、ザビリスは席を立った。けれど部屋を出て、中庭に出る直前に厳しい声が呼び止めた。


『どこにいく、ザビリス。勉強は終わったのか?』

『父上……』


 ザビリスが緊張した声で返した。ダニエルが兄の背に隠れる。


『お前は次期領主としての自覚はないのか』

『ダニエルと稽古の約束をしていたのです。だから、少しだけ……』

『そんなものはいい!』


 びくり、と肩を震わせたのは弟の方だった。ザビリスは表情の無い顔で押し黙る。


『弟は召使いや従者と遊ばせておけ!』


 片足を引きずりながら、ザビリスの横を通り過ぎる。

 すれ違う間際、父上と呼ばれた壮年の男は、唇の片方だけを歪ませるように上げて嗤い、言い捨てた。


『魔法もまともに使えないままなら、弟に領主の座を奪われることになるぞ』


 サナトが、深淵の森で見たザビリスの嗤い方だった。

 はっきりとしたあざけりの色。

 捨てられた子供であるサナトは、父という者を知らない。けれど里の森の人が接してくれた姿は、本当の父であり、兄のようだったのだと信じている。相手の心をズタズタに引き裂くような言葉を掛ける者を、父とは呼べない。


 景色が変わる。

 更に歳を重ねたザビリスの姿がある。

 今度は十五歳前後だろう。同じく十か、十一歳程になったダニエルと、剣を向け合っている。本気の戦いではない稽古としての手合わせだ。歳の差もあるせいかザビリスの太刀筋は余裕があり、弟ダニエルは必死の形相で額に汗を滲ませていた。


『くそぉお!』


 ダニエルが声を上げる。

 持つには大きすぎる剣に振り回されているのだ。それを、ザビリスは淡々といなしている。どのぐらいそうしていただろう、堪えきれなくなったダニエルが、呪文を唱え剣に魔法を乗せた。

 瞬間、剣の切先が引っ張られたように伸び、ザビリスの顔を目がけていく。


『あああっ!!』


 ダニエルが叫ぶ。咄嗟のことに剣で払いきれず身を捩って避けた、ザビリスの顔面、目の下に鮮血が散った。


『兄上!!』


 ダニエルが声を上げる。


『誰か! 誰か、兄上が!!』


 悲鳴のように叫ぶダニエルの声に、屋敷の従者が駆けつけて来た。傷は深いのか血は止まらない。直ぐに『治癒魔法師を!』と叫ぶ声に交じって、聞き覚えのある声の怒号が響いた。

 顔を向けたそこは、辛うじて姿を留めているものの人の形を失いかけている父が居た。体に魔法の毒が溜まり、魔人化し始めているのだ。

 そんな父を、ザビリスが呆然とした顔で見上げる。


『弟に顔を斬られるなど己が未熟な証拠だ! 恥を知れ!』


 そう吐き捨てて背中を向ける。

 ザビリスが何か言いたそうに唇を動かしたが、声にはならなかった。

 サナトはただ、立ち尽くし、見つめている。

 目の前にあるのは、ただの虚無だ。

 弟と比較され蔑まれてきた。どれほど努力しても認められず、優しい言葉のひとつも無い。そんな世界で、ザビリスは生きて来たのだ。


 時が流れる。

 ザビリスは二十歳を過ぎたほどの年恰好になっていた。目の下の傷は痕になり、赤く引きれたように残っていた。そのザビリスの元に訃報ふほうが届いた。


『ダニエルが……死んだ?』


 突然の死だった。






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