4 第50話 踏みつけられた平穏
ぞろり、と鈍い動きで歪んだ体を引きずった。
かと思えば目にもとまらぬ速さで鋭利な爪の腕を繰り出し、大地を抉る。
同時に襲い掛かる何本もの腕。
耳の側を
どれほど勇敢を
本来なら斬り捨て、時を置かずに澱を
焼いて灰となる。新たな妖魔へと変容する。形を保てないほどの灰塵に帰しても、再び
切りがない。
かといって、
妖魔という名の化け物となったザビリスは、獣の首を絞める時のような引き
「力を……チカラ、ヲ喰う……」
視界の隅、肥大していく体の向こうで人影が動き、サナトは顔を向けた。
城の階上の
狙い違わず背を貫いた火矢に、大気を震わせるほどの
「まずい!」
ナギが反応して、唸り声を上げながら喰らいついていった。
だが一本や二本ではない腕の攻撃に、全てを捕らえきれない。
次の矢を構える兵士たちが、顔を引きつらせ悲鳴を上げた。瞬間、ナギが取りこぼした腕の全てが、真横から切断された。
大気をも裂く爆音。
続いて
深淵の森を思わせる深い緑の瞳に彫りの深い顔立ち。青みがかった灰色の髪。長身の鎧の騎士は立ち上がり、サナトを見て頷いた。騎士の真似事もすると言っていたアーニアのお付きの剣士、ジーノだ。
化け物の注意を引き寄せつつ、サナトの方へと駆けつける。
「アーニア様が、手助けするようにと」
「助かる」
「ほぅ……弱音か?」
繰り出される化け物の腕を、二人同じ呼吸で斬り捨て、サナトが焼く。残る腕はジーノは唄文に聞こえる魔法で凍らせ、砕き散らした。
この男――妖魔との戦いに慣れている。
「油断できる相手ではないだけだ。奴の……
サナトの呻きに、ジーノは口の端を歪ませた。
「取り込み力を得て、思いのままに支配しようというのか?」
「そうだ」
ガガガガッ、と大地を削りながら化け物はサナトとジーノの方へとにじり寄る。その背に更に火矢を受け、肉の焼ける匂いを振りまきながらも力尽きる様子は無い。
強制魔法の気配が無いのはアーニアの指示だろうか。
炎で焼いても、雷で切り刻み、凍らせ、石の
「魔法が効かないのかな?」
「効かないわけではない。ただ……精霊魔法では致命傷を与えられない」
「それは……」
化け物の回復力が
今はまだサナト自身にも余力があるが、いつまでも続くわけではない。集中力が途切れ傷を受けたなら、その先に待つのは死だ。同じことをジーノも感じたのだろう。
「動きを止められない。倒せない、ということだ」
「なるほど、澱を戻さなければ終わらない……ということか」
ジーノが苦笑した。猛然と吼えたてるナギの声。
滴る血や肉片から湧き出す、手足の細い小鬼や
戦いが長引けば不利なのは自分ばかりではない。この場、この城も汚染されていく。
「このままでは、王城が、穢れる……」
「それは、案ずるな」
ジーノが答えながら、ガァアン! と硬い音を響かせ化け物の鋭い爪を斬り払った。地に落ちる前にサナトが焼く。
「どういうことだ?」
「言っていなかったな。ここの王子様は、存在するだけで場を清める」
軽口の様にジーノが言う。
サナトは、化け物の攻撃を
「……と言っても、お前が使う魔法ほど即効性があるわけではない」
「まさか」
「そうだ、例えるならあの礼拝堂の魔法円だ。ゆっくりとだが確実に、そこに
剣で斬りつける動きは速く、口調はどこか他人事のようにジーノは言う。
「彼等がこの国の王であり続ける
「そんな話、聞いたことがない」
僅かな差でサナトは攻撃を避け、同時に斬り捨てた。それを今度はジーノが凍らせ、新たな妖魔を生む間もなく砕いていく。
「特異体質みたいなものだ。
決して万能ではないのだろう。
澱を戻すより汚染の速度が早ければ、都も人も無事では済まない。とにかく、目の前の化け物を砕き、倒し、澱を戻すのは急務なのだ。
と、その時、斬り落とした手足や広がる体液から生まれた妖魔の一匹が、城の外の方へ向かいだした。サナトが追い走り、城の前庭から出る前に斬り、燃やす。
振り向けば、化け物の目の下から胸元までぱっくりと割れた口から、節くれ立った蟲の鋭い足が何本も覗いていた。元が人とは思えない様な声が漏れる。
「あぁぁぁ……喰えなイ……」
「ザビリス!」
「逃げテばかりデ喰えなイ……モット、喰いやすイ、餌は……どこダ」
切られ、爛れ、血を流すも、ものともしない首が長く伸びて街の方に顔を向ける。
ニヤリ……と眼球を覆う膜が歪んだ。
「あれは……いのちの、匂いダ」
「くっ! 樹々の
サナトの唄文に反応した樹々が枝を伸ばし、化け物行く手を阻む。
だが、弱い。
バキバキと枝は折れ足止めにもならない。ジーノが叫ぶ。
「衛兵! 何としても奴の動きを止めろ! 街に侵入させるな!」
「うるさ……イ」
化け物の背から鋭い針が伸びる。それが、一瞬にして四方に飛び散った。
「風の
サナトが叫び唱えた唄文で風が吹き荒れ、針を飛ばす。
悲鳴と怒号が上がる。その中に、大きな翼の音が響いた。
顔を上げる。その目の前、サナトの瞳に黒く大きな翼を広げた化け物の姿があった。
ばさり、と音を立てて飛び上がる。
「逃がすか!」
風の精霊に呼びかけ、人ではありえない程の距離を跳んだ。
城を囲む河を越えようとする化け物に、炎を宿らせた剣が振り下ろされる。が、背から突き出した無数の針が牙を向く。刹那、風の精霊はサナトを守ろうと、横風になって吹き飛ばした。
そのまま河に落ちていく。
足を、体を、水の精霊が支える。
唄文を唱えてもいないのに、数多の精霊がサナトの目指す方へと道を開く。同時に、化け物の行く手を遮ろうとする。
生えたばかりの翼で飛びあがった化け物は、風に翻弄され街の広場へと墜落していった。
逃げ惑う人々の悲鳴が響き渡る。
サナトが駆ける。ただの一人も傷つけてなるものかと。
「がぁ……ア、アアアァアア!! 邪魔ヲする、な!」
広場の石畳に叩きつけられた体を持ち上げ、鋭利な爪の足を地に刺して喚いた。その僅か先で、
「ひっ……」
目を見開いたまま意識を失っているのかもしれない。
駆けつけるサナトの目の前、辺りを破壊する化け物の爪が振り下ろされる。腕を伸ばすも届かない。
「大地よ!!」
地面が揺れる。
瞬間、ガガガガッ! と石の壁が伸びあがり、子供との間を遮った。
化け物は壁を砕いて突き進むも、辿り着いたサナトの剣が鋭利な腕を斬り落とす。そのまま新たな岩石の突き上げを受けて、醜い身体で数歩下がった。
子供は……蒼白な顔で、手にした飴を落としながらも無事でいる。母親が駆けつけ抱き上げる。
「今のうちに逃げろ!」
叫ぶサナトに母親は頷き、子供を抱えて広場の向こうに走って行った。
入れ違い、馬で駆けつけたジーノとレラが辿り着く。他にも鎧の騎士だろう者たちが妖魔となった化け物を取り囲んだ。妖魔は、打ち付けられた岩を砕き、のそりと
傷口から、新たな妖魔が湧き出してくる。
いくつも。
いくつも。
人の欲望の数だけ、生まれてくるのだというように。
ふと……サナトの鼻先を甘い匂いが掠めた。
顔を向けた先には、子供が落とした琥珀色の水飴が砂にまみれて転がっていた。サナトの脳裏に、この都に来た時の景色が浮かび上がる。
「麦からつくる麦芽糖です。子供たちが大好きなんですよ」
馬上から楽しそうにパウルが答える。
見れば、夕暮れの金に輝く陽射しの下で、声を上げて駆けて行く子供の姿がある。
笑い、歌うような足取りの人々。
漂う精霊も、水場や花壇の側で舞い……踊っている。
「あぁぁぁあああっ!」
嗚咽を噛む。
深淵の森にも似た穏やかな世界が、今、目の前で破壊し尽くされている。
穢されていく。妖魔の醜く歪んだ足が、花を、心を込めた
「……逃げテばかりデ、喰えなイ……ゾ」
サナトの全身を巡る血が、逆流していくような感覚があった。
痺れと、心臓の底が凍っていくような感覚。一歩遅れて駆けつけたナギが、数歩離れた場所で毛を逆立て、足を止める。
馬から下りたレラが走り寄り、声を上げた。
「サナト様!」
「皆を……」
低く呻く声は、自分が発したもののようには聞こえなかった。
「この一帯の人々を……避難させろ」
レラが息を
続くジーノが眉間に皺を寄せた。
殺気が、握る剣に伝播して輝く炎となる。
サナトは静かに告げる。
「強制魔法を、使う」
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