4 第46話 小さな約束

「もぅ、急にあんな格好で出てこないでください」


 真っ赤な顔で浴室に押し戻された。

 薄手の一枚衣を膝上まで捲り上げたレラは、湯溜めの隣の一角にサナトを促して腰を下ろすように言う。先ほどは気づかなかった草花を飾った鉢の影に、石張りの床の空間があった。

 人が三人ほど並んでも余裕のある広さの中ほどには、小さな木椅子が置いてある。大きさからして子供が座る椅子のようだが、サナトはナギと顔を見合わせてから、レラの言う通りに腰を下ろした。


「私が背中を流して差し上げます。どうぞあちらを向いていてください」

「体なら、自分で洗えるのだが……」


 戸惑うように答える。声だけ聞けば怒っているようだ。

 それほど怒らせるようなことを言った覚えは無い。取り巻く精霊を見れば、心底怒っているというよりは困っているようだ。


「……ここは、素直に従った方がいいだろうか」

「おんっ!」


 ナギが元気に答える。

 間を置かず、レラが小瓶と布、手桶を持ってサナトの方に来た。


「せっかくですから、髪も洗って差し上げます。ちゃんと下を向いていて下さいね」

「わっ!」

「いつも水浴びで済ませているのでしょう、ごわごわですよ」


 濡らした髪に匂いのある液状のものを垂らしたらしい、あっという間に泡だらけになる。


「目が、痛い……」

「目もつむっていてください!」

「わふぅ?」

「後でナギも洗ってもらうといいですよ」


 面白そうだと声を上げるナギに、レラが笑いながら言う。

 サナトがこんなふうに頭を洗ってもらうのは、小さな子供の頃以来ではないだろうか。頭の地肌を優しくこする、レラの細い指が気持ちいい。


「いつも髪は、ナイフで適当に切っているのですか?」

「……てき、とう?」

「もう少しちゃんと切りそろえれば、すっきりするかと思いますよ。さ、流しますから、目だけじゃなく、口も閉じていて下さいね!」


 声が楽しそうだ。

 綺麗に泡を流して顔を上げると、ナギが可笑しそうな顔で覗き込んでいた。これは、自分にもやってほしいと催促している顔だ。


「次は背中です」


 また泡立つ液を瓶からとって、今度は背中をこすり始めた。

 華やかな匂いが漂う。


「……傷だらけですね。剣の傷ですか? それとも、魔獣との戦いで?」

「そう……だな、狩りとか、ナギとも遊ぶから……」


 森の中を駆け抜ければ枝も当たるし、獣の牙や爪が引っかかることはよくある。昔はナイフの扱い方を損ねて、手足もよく切っていた。


「そういえば、近頃、ナギと狩りをしていなかったな」

「おんっ、おんっ!」

「せっかく持って来た弓も使わなければ腕が鈍る」


 苦笑すると、盛んに尾を振るナギは今すぐ行こうとでも言いだしそうだ。


「ところで……」

「はい?」

「この泡……変な匂いがするのだが」

「香油を合わせた石鹸液です! お嫌いでしたか?」

「狩りの時、獣に感づかれそうだ」


 レラが背中でへたり込む気配がした。そして苦笑しながら言う。


「今すぐ狩りに出かけられるわけではないのですから、今夜は我慢して下さい」

「そうだな……たまには、こういうのも悪くない」


 精霊たちが好きそうな香りだ。

 それにこれは……レラの体から漂う匂いと同じもの。

 そう思うと、悪い気はしなかった。


「さぁ、背中も流しましたから、次は前――」

「ん?」


 レラの声に振り返る。視線が合ったとたんに、また顔を真っ赤にした。


「ま、前は、ご自分で洗ってください! 道具はこれとこれです! 今みたいに全部流し終えましたら、どうぞゆっくり湯につかっていらしてくださいね! 後で片づけに参りますから」


 慌てて立ち上がり浴室を出ていく。

 去り際、レラの左膝の上の傷痕が目に入った。

 まだ赤く引きれた痕は残っているものの、動きからしてもう痛みは無いようである。思ったより傷の治りは早いようだと思うと、ほっと胸が軽くなった。

 自然と笑みになりながら、見上げるナギの頭を豪快に撫でてサナトは言う。


「最初から、自分で洗えると言っていたのにな」

「わふっ」


 それでも頭や背を洗ってもらったレラの指は、とても心地よかった。


「……こういうのも、悪くは無い」

「おんっ!」

「よし、お前も洗ってやろう!」


 笑いながら、サナトは手桶を手に取った。


     ◆


 ゆっくり湯にも浸かり、精霊の助言でナギの体を拭いたり軽く片づけて部屋に戻ると、レラは備忘録にペンを走らせていた。

 直ぐにサナトの気配に顔を上げて笑みを向ける。


「用意してくださったお茶、とてもすっきりして美味しいです。サナト様も飲みませんか?」

「貰おう」


 ペンを置いて、小さな茶器に注いでくれる。杯は硝子ガラスで出来た物のようだった。蝋燭ろうそくの明かりを反射させ、光り輝いている。


「見事な造りだ」

「ええ。では、私は浴室の片づけを――」

「それなら俺が簡単に終わらせてきた。城の精霊たちには必要ないと言われたのだが……習慣は抜けないものだな」


 そう言って、浴室に向おうとするレラを止める。

 育て親のサナカが動けなくなってきた前後から、掃除を始め家のことは全部サナトがやってきた。精霊たちがいくら城の召使いに任せればいいのにと言っても、なかなか止められないものである。それはレラも同じなのだろう。


「すみません、サナト様に片づけをさせるなど……」

「どちらがやっても同じだ……んん、確かに美味い茶だ」


 高地のせいか夜になれば蒸し暑さは無い。それでもいつもより長く湯にあたっていたせいか、薬草や香草を併せた茶は湯上りの火照った体にしみ込んでいく。

 サナトは卓子テーブルに杯を置いてから、窓の方へと足を向けてみた。

 窓の外はさほど広くはないが露台バルコニーになっている。閉じられていた両開きの窓の取っ手を掴み勢いよく押してみると、硝子ガラス戸の窓は重厚でやや重たくはあったが、難なく開いていった。


 眼下に流れる夜の河と街の明かり。

 露台バルコニーの下は別棟の屋根があり、高低差は優に五階分になるだろう。城の入り口は橋を渡ってから結構な高さを上った先だっから、街の灯りは更に下に見える。

 星と月の配置から窓があるのは東の方角だと知れた。精霊は穏やかで、優しい夜風が流れ込んでくる。レラがサナトの隣に並び、声を上げた。


「素敵な眺めですね」

「まぁ……そうだな」


 屈託のない声に、サナトは苦笑しながら答えた。


「何かおかしなことでも?」

「いや、忘れているかもしれないが、一応俺たちは閉じ込められている」

「……あ!」

「浴室の窓が開いていたから、もしやと思ったが、これなら簡単に抜け出せるな」


 もしかすると、軟禁は一部の者たちを黙らせる為に行った、形だけのものなのかもしれない。けれどレラはサナトの腕を掴みながら、恐々と露台バルコニーの下を覗き込んだ。


「サナト様、この高さでは抜け出せません」

「そうか? この程度なら簡単に飛び下りられるが……」

「それは……サナト様が精霊魔法の使い手だからです。大抵の人は、二階の高さから飛び降りても怪我をします。この高さなら死んでしまいますよ」


 言われてサナトはううむと唸った。


「お前も、この高さでは抜け出せないか?」

「私も無理です」

「そうか……」

「そうです。ですからもし私が塔の上に閉じ込められるようなことがあったら、助けに来てくださいね」


 口を尖らせて言う。

 その少し拗ねたような顔が面白くて、サナトは言った。



「分かった。必ず助けに行くと、約束しよう」



 驚いたように見つめ返した青い瞳が、笑みの形になる。

 そして気恥ずかしそうに肩を竦めてから「きっとですよ」と囁いた。

 二人の間で、ナギが「くふぅ~ん」と鼻を鳴らす。のけ者にされたと思ったのだろうか。お前のことも忘れてはいないと、サナトは頭を撫でた。


「そういえば……今頃、ムーは寂しくしていないかしら」


 呟くレラに、城の精霊たちは大丈夫と囁き返す。道中を共にして親しくなった馬たちと一緒にいるようだ。


「不安にはなっていないようだ」

「ええ、そうみたいです。よかっ……ふぁ……」


 レラも安心したからかあくびが出た。

 乾いた長い髪が夜風に揺れる。


「俺はもう少し風にあたっているから、先に休め」

「そう……させて頂きます。あの……」

「ん?」


 少し言いずらそうにしてから、不意にしゃがんだレラはナギを抱きしめながら見上げた。


寝台ベッドは一つしかありません。ですから真ん中は、ナギでお願いします!」

「わふっ!?」

「んん……まぁ、ナギがそれでいいのなら」

「絶対ですからね!」


 そう念を押してから、レラは寝台ベッドの左端に滑り込んだ。

 手足を伸ばせるほど広いのだから、そんな端に寄らなくてもよさそうなものをと思いつつ、そこはレラにしか分からない深い考えがあるのだろう。本人がそうしたいというのなら、サナトがどうこうと言う理由はない。

 今日は、長い一日だった。

 明日も早くから起きて、アーニアと今後のことを話しあい、城の書庫で魔法や竜の記述を探すのなら忙しくなる。


「あまり遅くならないうちに休むか」

「おんっ」


 窓を薄く開ける程度に閉じる。蝋燭を消す。

 振り向き見ると、一足先にナギは寝台ベッドの上で横たわっていた。それもレラの反対側の右端で。


「ナギ、真ん中で寝てほしいと言われていたぞ?」

「ふんす」


 鼻息を鳴らして前脚の上に頭を乗せ、そのまま目を閉じてしまった。


「おい、ナギ」


 尻尾は揺れているから寝てしまったわけではない。ナギの寝たふり・・・・は、その命令は聞かないよ、という合図でもある。

 レラはぐっすり眠っているようで、静かな寝息が聞こえる。


「仕方がない……」


 そう一人呟いて、サナトは空いた場所に横たわった。



 枕が柔らかすぎて、片手を頭の下に入れてしまう。にじり寄るナギの頭をもう片方の手で撫でつつ、月明りの射し込む天井を見上げた。

 レラの隣で休むのはこれが初めてではない。

 里でも、参道途中の森の中でも、サナトは記憶に無いがクタナ村でも一緒だった。なのに、何故か今夜は落ち着かない。


「んんっ……」


 不意にレラが声を漏らして寝返りをうった。

 そのまま、くるりと転がって、サナトの左胸にぴったりと頭を寄せる。


「う……」


 ナギとは違う、温かく柔らかな白い腕。吐息と共に軽く上下する肩。

 顔を向けると、鼻先のすぐ側にレラの頭がある。長い睫毛と細い髪が、窓からの月明りに浮かび上がる。

 香油だと言っていた、あの優しい香りが鼻孔をくすぐった。

 また、胸の奥がざわついてくる。


「ナギ、こう……くっつかれては……動けないのだが」


 ナギの尻尾はもう揺れていない。

 右腕に収まった銀色の毛玉も、完全に眠ってしまったらしい。


「ど、どうすればいいんだ……」


 朝は、まだまだ遠い。






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