3 第34話 礼拝堂に眠る
サナトはそのまま休むムーやナギの側で腰を下ろし、夜の雨音を聴いていた。
「この村に……歪みや
「くふぅぅん?」
「いや、何でもない」
精霊に問いかけても明確な声は返らない。ここでは、あまり強制魔法は使われていなかったのだろうか。それとも人が住んでいないせいだろうか……とサナトは考えた。
どちらにしろ澱が無いのは助かる。
街道の魔物や怪我をした兵士など、さほど負担で無かったとはいえ、やはり澱を戻すのは疲れる。この先も似たようなことが起こるのならば、僅かでもしっかり眠っておきたかったのだが、妙に気が騒いで寝付けなかった。
祭壇近くの火鉢の周りには、アーニアを始めとした兵士たちとレラが集まって話をしている。話しかけてきたジーノが戻る際、一緒にどうかと誘われたのだが、サナトは少し眠りたいからと断っていた。
一度、心配したレラが飲み物を手に声を掛けてきた時も、「俺のことは気にするな」と笑って返した。一緒に火に当たらないかと気を利かせたのだろう。けれど何故か、クタナ村での宴の時の様に、皆の輪に入って話をする気持ちにはなれなかった。
サナトの膝に頭を乗せ、ゆっくりと尻尾を振っているナギの柔らかな首や背を撫でる。
ぼんやりとした思考が頭の中を巡る。
深淵の森で、外の世界の話は聞いていた。
見ると聞くとでは大きな違いがあることも覚悟していた。
けれど知識の違いというだけではない、この
今までのサナトは常に精霊の言葉に耳を傾け、正しいと思う道を進んできた。それは、本当に正しいことだったのだろうか……と、心が揺らぎ始めている。
治癒の呪文の件にしてもそうだ。
サナトの行った方法が一番澱を生み出さず、術者も術を受ける側も、負担の少ない方法なのは確かだ。けれどレラが言っていたように、彼等は彼等の理由によって、一日でも早く治癒させなければならない事情があるのかもしれない。
たとえそれで体に澱を溜めることになり、人の姿を失う結果を招くとしても、その危険を敢えて冒さなければならない状況がサナトの知りえないところにあるだ。
当たり前だと思っていたことが通用しない。
ならばサナトはこれから、何を規範として行動すればいいのだろうか。
目を閉じてみる。
雨の音がする。
微かに風が動いている。
遠く、炎の明かりと熱は人々の心に安らぎを生み、確かな大地が、小さな生き物たちを分け隔てなく支えている。ムーが慰める様にサナトの髪を甘噛みして、ナギが鼻を鳴らす。
精霊の声は小さくて、はっきりと聞こえない。
けれど弱々しい気配であっても、やはり確かに存在している。満ちている。
その精霊たちの気配に耳を傾けていると、サナトはとても安心するのだ。
あらゆる物が循環している。
生まれ、死んで、その血肉は獣や虫や樹々の糧となる。精霊の一部となって、そしてまた新たな命が生まれてくる。季節が巡るように、この星で息づくものたちは命を巡らせてきた。
サナトが生まれる前から、いずれ死んでいった後も続いていく。
――けれど、その連鎖を狂わせるものが妖魔だ。
妖魔を生む行為だ。
「俺が……やるべきこと……」
森の
ジーノとの話にあったように、人は毒虫になることもできる。
精霊を、世界を壊すことも可能だろう。
その先に待つ未来は、全てが共倒れとなる命の尽きた世界だ。
西の地には――敢えて死の荒野を望む者が、いるかもしれない。
「俺は……精霊たちの声から、耳を逸らすことができない」
人の欲望と精霊が望むもの。
世界の
結果、多くの人と相反することになったとしても――人と敵対する存在になったとしても、心が決まればサナトはやり遂げる道を選ぶだろう。そして人と
気がつけば、雨音が続く空は透き通る藍に白み始めていた。
人々と獣たちは
街道で出会った魔物や、かつてこの村に住んでいた人たちのこと。
それらの囁きに合わせて、礼拝堂の床に浮かび上がる円形の模様は、薄闇の中で息づく様に淡く明滅していた。
人が居なくなっても、この村を守護する精霊が見守っている。
小さな
土地の精霊の力は弱まっている。
だから、人は住むことができなくなったのだろうか。
「違う……」
この地の
唄文を図案化したような礼拝堂の模様を残して。
ふと気配がして視線を向けると、静かな足音でレラが近づいてきていた。そしてサナトの側に膝をついて、小声で尋ねる。
「眠らなかったのですか?」
「少しは休んだ」
うとうととしただけで眠ったというほどではなかったが、今、サナトの意識は急速に覚め始めていた。
「あの床の、円に形作られた模様は何かと考えていた。精霊の声が小さくて、問いかけても、しっかりと聞き取ることができない」
サナトの視線の先をレラも見つめる。
「あれは……ある種の魔法を形にしたものではないだろうか。この村に溜まっていた、淀みや澱を自然に戻す作用の……」
「魔法円ですね」
「知っているのか?」
「魔法円に関する知識は限られた者にしか開示されず、詳しい文献も少ないので詳細は分かりません。ですが魔法の呪文――いえ、気配を見るにここの物は唄文の性質をもった、
「なるほど」
悶々と考え込まず、レラに聞けば早かったようだ。
「深淵の森には無かったのですか?」
「俺が気づく範囲では記憶に無いな。あそこは……精霊に満ち溢れている場所だから、魔法円のような物を必要としなかったのかもしれない」
サナトは苦笑しながら、続けた。
「人が日常的に魔法を使っていたとしたなら、何故この廃村に淀みや澱が無いのか気になっていた。クタナ村の声聴きのように、誰かが定期的に祓いや戻しをしているのか……そうでなければ何が作用しているのか」
そこに形があるだけで作用を起こす魔法。
そうか、とサナトは思いつく。
多くの花びらや雪の結晶が規則的な形を持つように、蜂の巣が六角の繋がりであるように、合理的に世界を形作るには意味があり、同時に精霊の力を高める作用がある。
サナトはゆっくりと立ち上がり、礼拝堂の中ほど、レラが魔法円と言った模様の中心に足を向けた。そして片膝をつき手のひらで触れる。
「やはり精霊の気配と流れを感じる」
人々が寝静まった時でなければ感じられないほど、微かな物であったが間違いない。
「人が去った後も、このように少しずつ澱を戻していたのだな」
「サナト様……」
「俺がここで唄文を唱えたなら、一気に精霊の力を取り戻せるだろうか……」
そう独り言のように呟いて、サナトは周囲を見渡す。
どれほどの時間を掛けてきたのか分からない。森の樹々を育てるかの如く、緩やかな時の中で均衡を保ち続けてきた所に、サナトが手を出していいのだろうか。
「……余計なことはしない方がいいか」
「サナト様、やってみましょう」
レラが声を上げた。
「触れてはいけないものなら、今ここに私たちは居ません。誤った行いならば、きっと精霊たちは止めてくれます。ですから試してみてもいいと思います」
「だが……」
「大丈夫です。魔法を恐れることは、精霊を恐れること……でしょう? 怒りに任せた魔法でなければ、妖魔を呼ぶことはありません」
レラの明るい顔に励まされる。
サナトは薄く笑みをのせて頷いた。
「そうだったな」
火鉢の方に顔を向けると、サナトたちの会話を耳にして目を覚ましたのだろう、数人が体を起こしてこちらの様子を見ていた。その内の一人、治癒の魔法を施そうとしていた者が立ち上がり、サナトたちの方に来て静かな声で尋ねた。
「何か、
「この村と一帯の、精霊の力を取り戻せないかと思うのだが……」
「精霊の力を取り戻すことで、妖魔の元となる歪みや澱の発生も抑えられるでしょうか?」
青年が訊き返した。
よくよく見ると年の頃は二十代半ば。明るい茶色の髪に緑の瞳で、おっとりとした雰囲気はレラに似ている。その目には精霊の姿が視えているのだろう。
「あの後、レラ様からも詳しくお聞きしました。深淵の森やクタナ村でどのようなことがあったのかも」
「そうか」
「あ、失礼しました、僕はニノ・デ・アジェーニと言います。側で……見ていてもよろしいですか?」
ニノと名乗った青年は、魔法に対する真摯な思いをもった目で尋ねてきた。
「サナト様やレラ様のお話を聞いて、考えていたのです。僕たちは魔法というものを、もう一度見直さなければならない」
深刻にとらえているのだろう。
魔法を使うことが役目であるなら、正しく扱わなくてはならない。自分だけではなく相手にも影響を与えることなら、尚更である。
「あまり難しく考える必要はない。俺も間違えることはある……失敗することも。精霊の声をしっかり聞いていれば大事には至らない」
「そう言って頂けるのは嬉しいです」
ニノが笑顔で返す。
サナトは頷いて、レラと一緒に魔法円の外まで出るよう促した。
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