3 第33話 羽虫となるもの
「サナト様」
レラが静かに声をかけた。
「この方たちは傷が悪化することを心配しているのだと思います。せめてこの方の傷に、悪しき物が入り込んでいないか診ることはできませんか?」
強制魔法を使うほどではなかったとしても、やはり何らかの処置ができるのならした方がいい。それは、その場にいる者たちなら誰もが思うことだ。
だがサナトは、不満げな声で返した。
「何故、俺が診なくてはならないのだ?」
たまたま街道で出会った、しかも人目を避けようとする魔物を追い立て攻撃していた者たちに、親切心を示す必要は無い。
レラはそんなサナトの心の内は見通していたかのように、真剣な顔を近づけて言った。
「サナト様、民を守る方々は、また直ぐに戦いに出なければいけないかもしれません。治癒が長引けば、この方たちは止むをえず強制魔法を使って治すでしょう。今ここで少しでも治りやすくすることは、妖魔を呼ぶ危険を下げることになるかと思います」
「む……」
「妖魔が湧くのは嫌ですよね?」
「まぁ、その通りだが……」
サナトとレラのやり取りを、周囲の者たちは息を潜めて見守っている。
「もし……悪しき物が入り込んでいて毒出しの
「はい、それはもうよく存じております。もちろん、サナト様にご負担を掛けることになりますので……無理に、とは申しませんが……」
僅かに声と視線を落とす。
さすがにこう言われては、「無理だ」と返せない意地がでる。
サナトは、ちらり、と怪我した兵士を見た。
明らかに毒を受けていたり、レラの時の様に傷を化膿させるような悪しき物が入り込んでいる状況なら覚悟を決める必要があるが、今回に限ればその心配は低いだろう。
そもそも傷を診ると言っても、サナトに専門的な医療の心得があるわけではない。取り巻く精霊から、
「この程度ならば、大した負担でもない」
「でしたら是非」
レラはにっこり微笑んだ。
「一度痛い思いをすれば、今後は気をつけるようになるでしょう」
さらりと言ってのける。
おっとりとした穏やかな少女であるが、意外と芯は強い。
サナトは何度目になるか分からないため息をついて、怪我をした兵士に向き直った。
「お前、少しでも早く治りたいと思うか?」
「ああ……そ、そりゃあ、もちろん」
「ならば少し診てやる。言っておくが、俺は
いいか? と確認を取るように、アーニアを見上げる。
事の成り行きを見守っていた女騎士は、「うむ」とひとつ頷いた。
◆
治癒を施そうとしていた兵士と場所を代わり、サナトは赤く腫れた膝から
レラの時のような剣の傷ではない。街道で遭遇した魔物の、あの蜘蛛のように鋭利な腕の攻撃を受けた際の打撲と擦り傷だろう。鎧を身に着けていたこともあって、足に穴が空くような事態は避けられたのだとサナトは見た。
正直、大げさな……と呆れてもいたのだが。
サナトは意識を集中させて、静かに精霊魔法の唄文を唱え始める。
「人の
長い唄文が続く。
何が始まるのだろうと緊張していた兵士は、傷口から骨に伝わる痛みで声を上げた。
「い……いででで!! ででぇぇえぇええ!!」
「こら、少しは堪えぬか!」
アーニアの喝が飛ぶ。
「は、はぁああい、いぃぃぃいい……いいぃ……」
「――人の
精霊は沈黙している。
やはり初見で感じたように、今の戦いで入った悪しき物の気配は無い。ただ普段の不摂生と度重なる呪文を受けたことによる、僅かな
サナトは唄文を変えて続ける。
「水の
「いぃぃぃいい……」
兵士の体から、羽虫のように小さな妖魔が一つ二つと湧き出し向かってくる。
払うだけで飛んで消えてしまいそうなほど些細な、妖魔とも呼べないような物であり、サナトに触れた瞬間に形は塵となって消えていく。それでもサナトの中に入り込む澱は、神経を逆なでするような不快感と痛みが伴った。
「風の
気配がサナトの中を伝って、大地に戻っていく。
さして深い
横で様子を見ていたレラは気がついたのだろう。心配そうな顔になって覗き込む。
「今のは……」
「傷を悪化させるような物は入り込んでいなかった。肉と筋、もしかすると骨も少し痛めているかもしれないが、そこは専門の治癒師に診てもらった上で休めて治すしかない。他に……少し、普段の不摂生と度重なる魔法により澱が溜まっていたから戻しておいた」
「サナト様は大丈夫ですか?」
「この程度なら、大したことはない」
二人の会話についていけないのだろう。
やっと痛みが引いてきた兵士は、首を傾げた。
「澱? を戻す?」
「妖魔の元となる歪みや澱を、本来の精霊……混沌の一部に戻したということだ」
「浄化したということですか?」
治癒の呪文を掛けようとしていた兵士が横から尋ねる。
サナトは「ううむ」と口元に手を寄せ考えてから、問いかけてきた兵士に答えた。
「……物事には、
目を瞬きながら兵士はサナトの言葉に耳を傾ける。
「ただ、強制魔法は人から見て良い面――光となるような部分ばかりを利用するために、もう片方の部分――闇に例えられる痛みや恐怖、疑念や嫌悪が澱となる。
一度息を継いで、サナトは言う。
「
分かるだろうか? とサナトは言葉を切る。
浄化しよう、と
だから本来の場所に「戻す」のだ。
「
人の世が、闇に溢れた
深淵の森で下手に強い魔法を使えば、得る物は力ばかりでなく、妖魔をも生み出し術者すら飲み込みかねない。そして辺り一帯を汚染する。あの森は、捨てられた子供、もしくは人として生きることを捨てた「
精霊の気配が濃い――と表現する世界は、人のように簡単に均衡を崩す者が触れるには、危険過ぎる場所なのだ。
目尻に涙を滲ませつつ話を聞いていた兵士に、サナトは問いかける。
「お前の中の澱を戻したのだ。体の感覚が変っただろう?」
言われて腕を軽く回す。
心なしか顔色もよくなったようだ。
「あ……あぁ、なんだか体が軽くなって、こう、すっきりした感じがぁ――あいだだだだだ!」
「馬鹿者! 治すわけではないと言っただろ。大人しくしていろ!」
鼻息荒く言い捨てて、サナトは兵士の前から立った。
◆
礼拝堂の端では、兵士の馬たちと共にエルクのムーも事の様子を見守っていた。
足を向けたサナトは荷を下ろされ、水を与えられていたムーを見て豊かな
「お前も、少し不安にさせたか? もう大丈夫だ」
彼らに親切心を示す必要は無いと思っていたが、他の馬たち同様にムーの世話をしてもらっていた。ならばその礼ぐらいにはなっただろうかと考えを改める。サナトに付き従うナギも、側で「わふっ」と小さく声を上げた。
ふと、背後から人の気配が近づいてきた。
振り向くと、鎧を外したジーノが立っていた。
アーニア様のお守りだと言っていた男の表情は、辺りが薄暗いせいもあって分かりにくい。改めて見てみれば、彫りの深い顔立ちの瞳は、深淵の森を思わせる深い緑だった。
「先程の、羽虫が人を操る、という例え話だが……」
ジーノは訝しむ顔で見上げるサナトを見下ろし、静かな声で訊いた。
「それが毒虫であったり、数え切れないほどの数の虫であったなら、人は敗れるのではないかな?」
何を意図して訊いているのか読めない。ただ、薄く笑みを浮かべたような声の裏には、何か含むところがあるような気がした。
だからサナトは、表情を消して短く答える。
「その通りだ」
ジーノの気配は変わらない。
声を低めたまま、サナトは静かに言う。
「
誰にそう教えられたわけではない。
ただ、確信としてそう思うのだ。人が誤った方法で魔法を使い続ければ、この世界を壊すことも、あり得る。
「……だが、壊れた世界で人は生きていけると思うか?」
「共倒れだな」
薄く笑ってジーノが呟いた。
礼拝堂の外では、強い雨音が響き始めていた。
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