3 第30話 街道の魔物

 山の道を、駆け抜ける。

 鋭い谷間を落ちる急流のように走り行く姿は、目にする者がいればおののき息を飲んだだろう。疾走する勢いに、道の脇の草花は揺れ、樹々の枝は騒めく。鳥や獣たちは、遠く息を潜めて見守る。

 力を漲らせるムーの脚は強く、先頭を行くナギの走りにも迷いはない。

 風の精霊の力を借りず、またエルクに騎乗せずに人の足で歩いたなら、相当な時間がかかるだろう距離を二人は瞬く間に走り抜けた。


「がうぅっ!」


 ナギが疾走しながら唸りを上げた。

 道の両側の樹々がまばらになり、所々に低い石塀が見え始める。森を抜けたのだ。

 膝丈ほどの草地は牧羊のための物だったのだろう。けれど家畜や獣の姿はおろか、人の気配も無い。ぽつりぽつりと目に入り始める石壁の小さな家も、窓の向こうは虚ろな闇となっていた。


「廃村か……」


 人知れずサナトが呟く。

 村とも呼べない、集落という程度の間隔で一つ二つと小さな家がある。そのどれもが街道であるはずの山道と家を繋ぐ脇道を失っていた。人が消えて、長い時間が経っているということだ。

 それを思うとクタナ村の平穏さが、特異なものに思える。

 もしかすると、今通って来た石の橋は、深淵の森を含めたクーライ大連峰を守護する結界の役目も担っていたのかもしれない。


「サナト様!」


 ムーを駆り、サナトに遅れずついて来るレラが声を上げた。

 道の向こうで砂塵が上がっているのが見える。

 風に乗って、獣というには違和感のある叫び声が届く。何者かが争っているのだ。


「地の、騒めく殺気を散らせ!」


 サナトの足元から、ピシ、と音を立てて地の中を精霊が駆け抜ける。音の速さで先行する力が、争う者たちの足元で弾けた。


「グァァアアアア!」


 衝撃に驚いたか、青黒い体が高く持ち上がる。

 その大きさは優に人の背丈の三倍。

 二本の足はあるものの、胴から生えた腕は左右三本ずつ、合わせて六本。それも人や獣のような色形ではなく、蜘蛛の足のように硬く鋭い。頭は平らに潰れ、かろうじて顔の様なものがあることがわかった。

 元が人であったのか、虫であったのか判然としない。

 突然に遭遇したなら恐怖しか持たないだろう、完全な魔物となったそれは、黒い霧のようなおりを纏わりつけ、妖魔へと変貌へんぼうしようとしていた。

 その巨大な魔物に向かい、剣を向ける者たち。

 負傷している者もいるようだ。

 地の精霊の魔法に驚き、数歩、距離を開けた者たちの揃いの鎧には見覚えがある。サナトは眉間の皺を深めて剣を抜き、魔物と兵士たちの間に割って入った。

 強制魔法の気配が残っている。魔物にまとわりつく澱の元はそれか。


「下がれ!」

「な……何だ!?」


 兵士の叫びと同時に、再び大地が弾ける。

 伸びあがった魔物が鋭い腕を振り下ろすも、燐光を纏う剣でいなし、同時に風の精霊の力で押しのけた。疾風の如く飛び出したサナトに続いて、人の背丈を超えるほどの狼が、猛烈に吼え狂いながら魔物に飛びかかって行く。


「グァァアァファァアアアア!」


 魔物が纏う精霊の気配は、怒りより怯えだ。

 血を見たくない――と。

 この魔物はまだ、人としての意識を残している。


「くっ……我の声に応えよ!」


 剣で応戦しながら魔物に立ち向かい、サナトは叫ぶ。

 たたらを踏んだ魔物は姿勢を戻し、地を踏み、岩を削る勢いで鋭い腕を叩き落とした。

 寸での間で躱すサナト。

 恐慌状態の魔物は、目の前の状況が把握できていないのかもしれない。

 続く腕を、硬い音を立て剣で薙ぎ払う姿を見て、鎧の者たちは更に数歩引き下がった。その間にエルクに乗った少女レラが割って入る。


「お下がりください! 今ここで、不用意に魔法を使ってはなりません!」

「何者だ!」


 激しく蹄を鳴らし上げた声に、兵士の一人が叫び返した。


「名乗るのは後! 今はお引き下がりを!」

「女! 邪魔立てするのか!?」

「怪我をします!」


 レラに向かって剣を向けようとした兵士に、ぴしりと言い放った。

 サナトがチラリとレラを見上げる。

 頷き返すレラを見て、サナトは口元に笑みをのせ魔物に向き直った。

 鋭い腕が矢のように突き下されてくる。ナギが飛びかかる。


「ガファアアアアア!!」

「其の、其の身緩ませ、眠らせ、荒ぶる気を鎮めん!」


 噛みついてくる銀狼を振り払おうとした。その体を、サナトの唄文ばいもんがからめとる。

 ギシリ、と魔物の腕が軋む。

 他の者には僅かな変化にしか見えなくとも、剣で立ち向かうサナトには十分だった。

 鈍くなった動きに、サナトの唄文が繰り返される。気を鎮めよと、魔物を取り巻く精霊と、魔物自身のに訴え、それでも繰り出す腕を易々と薙ぎ払っていく。

 銀狼が吼え立てる。

 一歩、一歩と巨体が後退していく。

 怒りと恐怖で我を失っていた魔物は、サナトの一振り毎に、正気を取り戻していった。


「よし……」


 機とみてサナトは手にした剣に炎の精霊を宿らせようと、剣を水平に保つ。

 だがその流れを遮るように、サナトの背で兵士の一人が再び声を上げた。


「怪しげな術を――」

「待て」


 止めたのは、目元を隠した兜の、兵士の中で明らかに造りの違う一人だった。鎧の上からでも分かる、他の者とは違う流線形の体格。決して豪奢ではないが、質のいい鋼を使っていることは見ただけで分かる。


「不用意ではない魔法というものを、見せてもらおうではないか」


 低く笑みを押し殺すように呟いた声は、女のものだった。

 エルクの上から一歩も譲らず、魔物と対峙する剣士を背に守るように立ちはだかる少女にも興味を持ったのだろう。背後のやり取りを感じ取っていたサナトは、機を逃さないよう吼え続けていたナギに、合図を送った。

 跳ねる様に退く銀狼と入れ替わり、サナトが戻しの唄文を唱える。


「火の、剣に宿り炎となりて穢れを灰に、気枯れをに!」


 詠唱と同時に赤い火の粉が踊り、輝く剣は、黒雲に覆われ薄暗くなった周囲を照らす。魔物を取り巻く黒い霧がサナトに向かう。


「グファァアアアア!」

「穢れを灰に!」


 両断する。

 剣から燃え上がる炎が、取り巻く霧だけを焼き尽くす。魔物が叫ぶ。

 間髪を入れずに、サナトはまだ火の粉を散らす剣の切先を地面に突き刺し、唄文を続けた。ほんの僅かな澱の気配も戻しておかなければならない。


「火の、穢れは光と還り、風の、其の心の鎖を放て……」


 サナトの声に呼応するように黒雲が渦巻き、雨粒がひとつ、ふたつと落とし始めた。澱を戻す力を貸そうと風が更に厚い雲を呼び、水の精霊を届けたのだ。

 サナトは辺りを取り巻く精霊たちに感謝と笑みを返す。


「土の、受け入れたもう」


 魔物を取り巻いていた黒い霧状の澱がサナトに絡みつき、入り込み、骨を食むようにして大地に戻っていく。

 怖い、怖いと魔物に取り巻いていた気配が牙となる。


「水の、この地を清め……漂い、怒りと悲しみの大気を鎮めん」


 痛みに目元を歪めるその上に、静かな雨が降り注ぐ。

 雨は人と魔物を包み、辺り一帯に満ちた恐怖の苦痛を洗い流していくようだった。


「オォォオオオオ……」


 魔物が声を上げた。

 けれどそれはもう、殺気をはらんだ叫びではない。我を取り戻したことによる感嘆かんたんの声だった。


 ムーから下りたレラがゆっくりとサナトの横を通り抜け、白い腕を伸ばす。

 鈍い光の中で、腕は闇に咲く花の蕾のようだった。

 そして――ゆっくりと呼吸を繰り返す魔物の腕に触れる。微笑みかけ、高く透き通る声の唄文が響く。


みず御魂みたまよ、心の闇よりまなこの光と耳の調べに今を知る」

「グフゥゥ……」

「もう、大丈夫よ」


 そう、声を掛けてからサナトへと振り向いた。

 剣を鞘に収めて頷き返す。


「ああ……もう、怒りと恐怖に迷うことは無いだろう」


 優しい雨が周囲を包み込む。

 サナトも同じように魔物に手を伸ばし、いびつに変貌した体へと触れた。


「痛かっただろう。お前も、行き場を失ったのか?」

「お……う……」


 明瞭な言葉にはならない。

 それでも可能な限り人目を避けてここまで来たのだと、声を失った魔物の代わりに、取り巻く精霊が囁きかけてきた。

 この魔物に残された命は長く無い。

 ただ最期は静かにと、願いここまで来たのだ。

 サナトは胸の詰まる思いを噛みしめながら、魔物に語り掛けた。


「ここより東に険しい渓谷がある。その河を上流に辿れば、人の踏み込むことのないクーライ大連峰に至る。厳しい土地だが、今は花も咲いていることだろう――きっと安らかに、眠ることができる」

「おう……おぅ……」


 短く声を漏らすと、蜘蛛の足のような腕を上半身の支えにして、魔物は今サナトたちが駆けてきた道の方へと歩み始めた。その後ろを、碧い蝶が一羽、見守るように後を追っていく。

 レラも言葉なく見つめる。


「間に合って……良かったですね」

「あぁ……妖魔にせずに済んだ。よかった」


 雲が切れる。レラの方へ顔を向けると、雨の滴を額に受けたレラが陽の光を受け、綻ぶ花のように微笑み返していた。

 今対峙した者は、魔物、と呼ぶべき姿にまで変容していたが、元は人だったのだ。あこそまで形を歪ませてしまった詳しい経緯を知ることは無いが、サナトの中を通じて戻っていった歪みや澱から、どれほど苦しい思いをしてきたかは知れた。

 これからはこのようなことが多くなるのだろうか。

 そう、小さくため息をついた時、呆然と見守っていた兵士たちはハタと我に返ったのか、再び声を上げた。


「魔物を殺さず逃すつもりか!?」

「よせ」

「しかし、アーニア様!」

「あの魔物は、もう人を襲わない。人が襲わない限り……そうであろう?」


 アーニアと呼ばれた者が目元まで隠れていた兜を取った。

 背までの、緩やかに波打つ濃紅こいくれないの髪がこぼれる。勝気な瞳は金茶と緑の不思議な色合いをしていた。くっきりと弧を描く眉と、引き締まった艶やかな唇。すれ違うだけでどんな者の目も奪い、引き付けずにはいられない程、鮮やかな顔立ちの女性だった。

 年はサナトと同じか、一つ二つ上だろうか。

 纏う気配の精霊は気高く、そこに立つだけで他を圧倒するものがあった。






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