第三章 街道を渡る討伐隊

3 第29話 呼び声

 人はその塔にしつらえた部屋を、豪奢ごうしゃな空の牢獄と呼んでいた。


 ダウディノーグ王国。

 堅牢な城壁に囲まれた、その中央に位置する巨大な王城の東の塔に、空の牢獄はあった。

 窓を覆う天鵞絨ベルベットの垂れ絹。春の草原のように柔らかな絨毯じゅうたん。細やかな彫り物が施された寝台ベッドには、真珠のように輝く絹の敷き布シーツが皺ひとつなく整えられている。

 部屋のそこここに置かれた卓子テーブルには、色鮮やかな花々が飾られていた。

 その一つを白く細い指のひらでそっと包んだ少女は、額に添えるようにして瞼を閉じる。亜麻色の腰まで波打つ豊かな髪が、こぼれる様に横顔を覆った。


「竜よ……わたくしの竜……どこに、おられるのですか……」


 精霊の、慰める様な囁き声が耳に届く。

 けれどこの塔に来た時からずっと語り掛けている問いには、「まなこと耳で探すように」と謎かけのような言葉しか返らない。もし精霊が、どこそこに居ると答えてくれるなら、今すぐにでもこの塔から飛び出して探しに行くのに、と少女は唇を噛む。

 半ば幽閉されている身では、それも叶わないだろうか。


「わたくしは、いつまで……ここで待っていれば、よろしいのでしょうか」


 柔らかな花の芳香が少女を包む。

 泣いてはいけないと思っても、若葉の色の瞳には涙がにじんでくる。と、その時、雅な彫りが施された大きな扉の向こうに人の気配があった。

 開く前からでも分かる。もうすぐこの国の王となる王子、ラ・クロード・ヌダム・ダウディノーグのものだ。そして付き従う複数の気配。第一王妃候補である、ジュヌヴィエーヴとその従者たちだろう。

 少女は素早く身なりを整え、部屋の中央で膝を折った。

 それを合図にするかのようにいきなり扉が開く。部屋に入る前に、入室の許しを求める必要が無い者のやり方だった。


「セレーナ! セレーナ・ウォートリー・アルウェーグ!」

「御前にございます」


 セレーナと呼ばれた少女が小さな声で答えた。

 その小さくかしこまった姿を見て、先頭に立つラ・クロード王子は部屋の中をぐるりと見渡し、鼻を鳴らした。


「午後の聴聞会に列席できぬとは、どんな我がままだ?」


 まただ、とセレーナは心の中でひとりごちる。

 聴聞会の話など今初めて聞いた。

 固く唇を閉ざすセレーナに、くすくすと笑う囁き声が降る。王子の後ろに立つ、ジュヌヴィエーヴと侍女たちの冷たい眼差しが肌を刺す。


「セレーナ、ラ・クロード様にお答えしなさい」


 良く通る、大人の女性の声が響き渡った。

 ここでどんな答えを言っても、悪いようにしか取られないと分かっている。

 セレーナは、ただただ小さくなって、頭を下げることしかできない。姫のかたくなな様子を見下ろす王子は感情の無い声を投げ捨てた。


「無知なお前では分からぬだろうが、もうすぐ現国王は死ぬ。俺が王となる時には竜を下し、力を掌握していなければならない。魔拯竜ましょうりゅうの紋章を持つお前が、どこかに居ると言うから待っているのだぞ」


 セレーナは頭を下げたまま動かない。


「居るというのならはその場所を答えよ! 今すぐにでも兵を差し向け、捕らえてやる」

「恐れながら」


 声を絞るようにしてセレーナは言った。


「竜は、人の手で捕らえられるようなものではございません」

「ほぅ……この国を継ぎ王となる俺にはできぬと言うか? お前はその目で、竜を見たことがあるのか?」


 苛立ちを滲ませる声が叩きつける。

 セレーナは体を硬くして答えた。


「見た……ことは、ございません……」

「ラ・クロード様」


 黄金に輝く髪を結い上げ、豊かな胸を揺らすジュヌヴィエーヴが、氷のような瞳を細めて呼び止めた。宝石を散りばめた衣装ドレスが、耳障りな音となって耳朶じだに触れる。


「わたくしがご進言しました通り、もうこの世に竜はいないのです。どれほど紋章の娘が呼びかけても応えないのが、その証拠でございます」

「うむ、ジェネットの言う通りであろうな」


 セレーナは顔を上げた。

 それだけは違うと断言できる。でも、どこに居るのか、なぜ呼んでも応えないのか分からない。分からない以上、何も言うことが出来なかった。

 勝ち誇った顔でジュヌヴィエーヴは見下ろす。


「セレーナのあの青白い顔をご覧下さいませ。十二の娘には家臣の前で威厳を誇ることなど、無理・・、でございます。お可哀想ですからここはお慈悲を下し、部屋に置いておいた方がよろしいかと」

「そうだな。飾りであれば、お前でもどうにかなる」


 ジュヌヴィエーヴが唇を歪ませながらこうべを垂れた。

 そして来た時と同様に、一行は断りも無くセレーナの部屋を後にしていく。

 顔を上げ見送るセレーナの目に、ジュヌヴィエーヴの、背中が大きく開いた衣装ドレスの後ろ姿が映る。これ見よがしに髪を結い上げた背には、輝きを失った魔拯竜の紋章が刻み込まれていた。


「竜よ……魔拯竜よ、声が届くのでしたら、お願い……わたくしを、助けて……」


 一人残された部屋でセレーナは嗚咽を漏らす。

 窓を砂塵が打ち付ける。黒雲が天を覆う。

 遥か西の大国では、呪いが呪いを呼び、妖魔の影がより濃くなっていた。


     ◆


 ふと、風が走った。

 微かな気配に顔を上げたサナトは、強い風に押し流されてくる厚い雲を見て、顔をしかめた。

 クタナ村を出て、渓谷添いに山道を行くこと数時間。強い風がこずえを揺らしているが、気配は風の精霊ではなく、人の声の様に思えた。


「今、何か聞こえなかったか?」


 隣を行くレラは同じように空を見上げ、首を傾げる。


「いいえ。……今朝はあれほどいいお天気でしたのに、空模様が崩れてまいりましたね」

「ああ……そう、だな」


 今のは精霊の呼びかけだったのだろうか。

 もう一度気配を探ってみる。けれど微かな違和感とも、呼び声とも形容しがたい気配は、もう感じられない。ただの気のせいと言われれば、そうだったのかもしれないと思うほどのものだった。


「何か、気になることが?」

「いや……きっと空の崩れを案じた精霊たちの声だろう」


 クタナ村を南に、渓谷の上流へと向かう。

 初夏の陽射しを浴びた両端の緑は瑞々しく、季節の花や山鳥たちの声は深淵の森の鮮やかさを思い起こすものだった。

 あまりゆっくりしていい道中ではないはずなのに、自然と足の運びが緩む。レラも今日はムーの手綱を取って、サナトの隣を歩いていた。


「もう少し先に、西の方へと渡る橋があると聞いているのですが……」

「このように険しい渓谷に橋を渡すなど、大変なことだっただろうな」


 渓谷の幅は徐々に狭まりつつあるが、河までの落差は大きく、一向に浅くなる様子が無い。万が一にも足を滑らせたなら命は無いだろう。

 そのような谷の山肌に道を切り開き、橋を渡した人々の苦労を思わずにはいられなかった。


「サナト様、橋を抜けましたら一休みなさいませんか?」

「ん……そうだな。疲れたならムーに乗っていいぞ?」

「いいえ」


 胸を張るレラが答える。


「どこで村の方とすれ違うか分かりません。私も歩きます」

「気にせずともいいのに」


 苦笑すると、レラは顔を赤くしながら小さな口を尖らせる。


「サナト様が平気でも、私は気になるのです」


 昨夜の村人の勘違いを、レラは未だ気にしているらしい。

 そんな少し意地を張るような姿もおかしく、サナトは肩を震わせた。


「もぅ、何を笑っているのです……あ、サナト様!」


 岩山を回り込んだ先、遠く渓谷を渡す橋が見えた。

 ナギが「おんっ!」と元気に声を上げ、跳ね踊る様に前後を行く。

 橋は近づくにつれて簡易的なつり橋ではなく、強固な石で組み上げられたものだと分かった。幅も広く二頭立ての馬車も通ることができそうだ。


「なかなか立派な橋だな」

「人の手ばかりではなく、精霊や、あまねくものたちが力を貸して造り上げたようですね」


 レラが手を伸ばし、取り巻く精霊の姿を認めて微笑む。

 石でできた欄干の一部は苔に覆われ、相当に古いものであることが分かる。にもかかわらず、堅牢という言葉でしか表せないほど立派で、橋を守護する精霊の存在感も強かった。

 サナトの口から自然と唄文がこぼれる。


「石のいわおおごそかなる橋となりて、永久とわに人と精霊を繋がん」


 レラが青い瞳を瞬かせて目の前に伸びる橋を見つめ、そしてサナトを見上げた。

 雲間から射し込んだ眩しい陽射しが、石橋を輝かせ、輪郭を浮かび上がらせる。精霊が囁き、唄う。それは天の雲間に渡る空の橋のように、神々しく見えた。

 石橋をゆっくりと渡り始めたサナトの背を追いながら、レラが尋ねる。


「サナト様、今のは?」

「さぁ……わからん。自然と口を突いて出た」


 夕べ訪れた、作業場の裏にある窯の前でも同じようなことがあった。

 精霊が、サナトの口を借りて紡いだとしか思えない唄文だ。何か意図して唱えたものでは無いが、周囲を見渡すレラが声を上げた。


「橋の守りと繋がりが、より強固になりました」

「そのようだ」


 村の声聴きであるグルナラが、サナトに名を与えた時と同じようなことが起こったのだ。それだけではない、あの後からサナトの中にある精霊との繋がりが、より深くなったのではないか……そんな気すらし始めていた。


「名を与えられたのは、思う以上に、重要な儀式だったのかもしれん」

「ええ、私もそのように思います」


 レラが答える。

 一歩一歩、踏みしめる様にして橋を渡る。その最後の一歩を踏み終え渓谷を渡り終えた瞬間、サナトとレラは息を飲んだ。

 同時に顔を見合わせる。


「空気が変った」

「ええ……違います。これは、何でしょう……」


 エルクのムーが「ぶふふっ」と鼻を鳴らし、ナギが耳を立てる。銀の尾を振ってはいるが喜びのものでは無く、不穏な気配に戸惑うものだった。

 道の両側に伸びる樹々の枝は長く張り出し、踏みならされた広い道に薄暗い影を落としていた。空の雲は厚みを増し、陽が落ちたかと思うほど辺りを淀ませる。

 二人は、橋を抜けたなら一休みしよう、と言っていた言葉も忘れて先に進んだ。

 遠く、からすの叫び声が響く。虫の音が消える。


「サナト様……」

「うん」


 サナトは腰に携えた剣の鞘を強く握った。


「ムーに乗れ、走る」

「はい」


 レラは素早くムーに騎乗して手綱を握る。

 サナトが唄文を唱えた。


「風の、この身をかいなに乗せ、飛ばせ」


 声と同時に、サナトは矢のように疾走を始めた。ナギが続く。


「ハァッ!」


 レラの高い声を合図に、ムーが大地を蹴る。

 騒めく気配の元へと、二人は山の道を駆け抜けた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る