2 第28話 旅立ちの朝の恩返し

 瞼を、陽の光が焼いている。


「んん……」


 じわりとした熱と眩しさに、腕で顔を覆ったサナトは寝返りを打ってからふと、嗅ぎなれない匂いを感じて瞼を開いた。

 視界の向こうには磨き込まれた古い樹の、黒鹿毛くろかげの色の柱と白壁がある。

 開いた窓の向こうには、千切った白い雲が流れる青空。

 更に顔を巡らせると、趣のある扉がひとつ。その側に火の消えた油灯ランプを置いた小さな卓子テーブル。見覚えのある、紙の束が覗く鞄。そしてもう一台の寝台ベッドと、自分が横たわっている寝台ベッドの間に小さな卓子テーブルがあり、立てかけられた剣が見える。


「こ、ここは……どこだ……?」

「わふっ?」


 寝台ベッドの影から銀狼のナギが顔を出した。

 いつもの軽い身のこなしで、ひらりと白い敷き布シーツの上、サナトの足元に飛び乗る。そして盛んに尻尾を振りながら鼻先を顔に近づけた。機嫌がいい時の挨拶だ。


「ナギ……」

「おんっ!」


 いつここに来たのか全く覚えていない。

 ただ夕べの宴で交わした言葉と状況をかんがみてみれば、ここはクタナ村の人たちが用意してくれた部屋だろう。


「……えーっと」


 自分に何が起きたのか。

 頭を抱えたその時、扉の向こうに気配がして静かな音と共に開いた。

 顔を出したのは着替えを手にしたレラだ。腰上までの長い髪を下ろし、身なりは夕べ見た気がする薄い生成り地の、丈の長い上衣に赤い大きな刺繍布を羽織っている。

 一歩部屋に踏み込んで直ぐ、レラは目を覚ましたサナトに気がつき明るい笑顔を向けてきた。


「おはようございます。お目覚めになっていたのですね」

「あ、ああ……」

「ぐっすり眠っておりましたので、起こさずにいました。いい天気ですよ。食事はできていますので、こちらに運びますか?」


 まだ寝ぼけた頭を軽く掻くようにして、サナトは答えた。


「いや、用意してあるのなら俺が行こう……お前は、もう食べたのか?」

「いいえ、サナト様が起きてから、一緒に頂こうと思っていましたから」


 ベッド際のテーブルへ、手にした着替えを置いて笑みを返す。

 その顔を見て、覗き込んでいるナギに視線を戻し、ハタと自分の胸に手を当てた。いつの間にか薄手の寝衣になっている。着替えた記憶は無い。

 サナトの眉間に皺が寄った様子を見て、レラは肩を震わせながら言った。


「上着のままでは寝苦しそうでしたから、着替えさせて頂きました」

「覚えて……いないのだが……」

「ええ、頬っぺたを、つんつんしても起きませんでした。ねっ、ナギ」

「おんっ!」

「……部屋まで、お前が抱えてきたのか?」


 一瞬、レラがきょとんとした顔をしてから、その状況を想像したのだろう。怒ったような、呆れたような複雑な表情になって、声を上げた。


「もぅ! 私、そこまで力持ちではありません! ちゃんと、ご自分で歩いて、部屋まで来たことも覚えていないのですか?」


 昨夜のことを思い起こしてみる。

 村長の招待で宴をして、風に当たりに行くと席を立った。作業場に妖魔が湧きなおしていないか、念のため確認に行ったのだ。そこでオリガに会い、話をしてから別れた。

 帰りの遅いサナトを心配して、夜道を来たレラに会ったのはその後だ。

 少し上気したような、レラの顔を見てほっとしたのを覚えている。


「お前が迎えに来て……少し、話をした……湯が気持ちよかったと」

「ええ……」

「その後……」


 その後の記憶が曖昧だ。

 言われてみればレラが扉を開けたところを、見たような気もするし、夢だったような気もする。気が緩んでいたのだろう。いくら疲れていたとはいえ、休む場所まで歩いたことすら覚えていないのは初めてのことだ。


「……食事の前に、水を浴びてくる……」

「その方がよろしいようですね。場所は、お分かりにならないでしょう? ご案内は――」

「おんっ!」


 寝ぼけた顔のサナトに苦笑するレラへ、ナギが背筋を伸ばして吼える。パタパタと尾を振るその顔は、案内なら任せろと、言っていた。


     ◆


 水を浴びて着替えたサナトがナギの先導で屋敷の炊事場に着くまで、さほど長い時間はかからなかった。それでも明るい陽射しの入る炊事場の大きな卓子テーブルには、豆の汁物スープ麺麭パンに蒸した鶏肉、新鮮な野菜や果物が並んでいた。

 ナギにも特別に千切った肉が与えられている。

 里での朝は干した果実や干し肉、芋の餅などを齧る程度でいたのだ。十分なほどのもてなしの料理であるにもかかわらず、村長の奥方でもあるレベテフ婦人は、このような炊事場の卓子テーブルに食事を並べたことを詫びた。


「炊事場に伺うと言ったのは俺だ。皆、夏至の準備で忙しいだろう?」

「お気遣いくださりありがとうございます」


 笑顔で答える。

 サナトは村人たちに負担を掛けまいとする思いもあったが、場所によって調理のしかたや食材が異なる様は、レラの興味を掻き立てる。世界の様々なものを見て歩き書物に記したいと言っていたレラは、さっそく婦人との話に花を咲かせていた。


「こちらの村の方は、鶏を多く頂くのですね」

「雪解け水が減ったなら、川魚も獲りますよ。兎や鹿に野豚。でも滋養をつけるなら鶏ね。羊や山羊は多くないし、羊駝ラマは貴重ですからねぇ。鶏以外の肉はできるだけ干して、食すのは秋分から春までの間と決まっているのですよ。それでも、是非、サナト様やフィオレラ様に味わっていただきたかったものです。香辛料をたっぷり使って、ゆっくり柔らかく煮込んだ肉は絶品ですから」

「冬のご馳走ですね! 体が温まりそうです」


 そんな和やかな様子を眺めていると、レラの白い胸元に、見覚えのある光る石があることに気がついた。薄く青みがかった、光の角度で七色にも見える部分がある、あの少し珍しいものだ。

 視線に気がついたレラが首を傾げるのを見て、サナトは声をかけた。


「それは、里で渡した石か?」


 ぱっ、と明るい笑顔が返る。


「はい。奥様に細い革ひもを頂きましたので、今朝、サナト様がお休みの間に編み込んで作ってみたのです。首にかけておけば無くしません!」

「そんなに簡単に無くされては困るぞ」


 軽く苦笑して答える。

 レベテフ婦人はレラの胸元を見て、瞳を細めた。


「素敵に編み上げたものねぇ」

「とても貴重な石でしたのに、サナト様が下さったのです」

「あらあら、いいわねぇ」


 ふふふ、と口に手を当てて笑う。

 どうも言外の意味を含んだ笑みのようにも見えたが、サナトは敢えて何も言わなかった。


「サナト様、昨夜あのようにお休みになったのは、ずっと私の手当てやお世話で、お疲れだったのではないのですか? もし、村の皆様がお許し下さるのでしたら、幾日か逗留とうりゅうすることも……」

「いや」


 サナトは短く言葉を切って答えた。

 足元で口のまわりを舐めていたナギが顔を上げる


「手厚い歓迎はありがたいが、食事を終えたら発とうと思う」


 サナトとレラには、向かわなければならない場所がある。

 レベテフ婦人はその言葉を聞いて、少し残念そうな表情を浮かべたが、直ぐに頷き答えた。


「では、主人に知らせてきますね。紹介状の準備もできていると思いますので。食事は、どうぞゆっくり召し上がってください」


 礼を言う二人は婦人の後ろ姿を見送り、改めてふんわりと焼き上がっている麺麭パンを口にする。

 レラが、ふと思い出した様に声を掛けた。


「そういえば、私がサナト様と出会いました、深淵の森の沢で遭遇した兵士の方」

「ん? ……ああ、気を失って俺が運んだ」

「はい、精霊の呼びかけで、道の途中まで村の方が迎えに行ってくださったそうです。大きな怪我は無かったとのことですので、二日ほどこの村に逗留して、ベスタリア王国に帰られたそうです」

「そうか、よかった」


 サナトが呟き答えるのを見て、レラが肩をすくめるようにして微笑んだ。


「よかったと、おっしゃって下さるのですね」

「ん? 何故だ?」

「サナト様……あの兵士の方に、とても怒っておりましたから」

「俺は……」


 レラに言われて改めて思う。

 確かにあの時、サナトの嫌悪感は強かった。森に無断で踏み込まれただけではない、外の人間・・・・に対する拒絶もあったのだろう。レラの唄文が止めなければ、腕の一本でも斬り落としていたかもしれない。

 と同時にこの数日で、人に対する見方が変ってきているという実感もある。

 いわおの魔獣と戦った夜、一人、山道に戻り妖魔の気配が無いか確認に行った時も、兵士のことを思い出し無事だろうかと思った自分に驚いた。


「俺は……私利私欲で魔法を使い、大地を穢して妖魔を生むやからが赦せないだけだ。それが人だろうと何だろうと」


 大切な者を守るためには、簡単に赦してはならない。

 自分を戒めるように答えるサナトを、レラは少し哀しそうに見つめていた。


     ◆


 旅の準備を終えて屋敷を出るのに合わせ、クタナの南にある村の端まで、オレグ村長と婦人、そしてムラトと数人の従者が見送りに立った。その中に獣人の少女オリガの姿は無かったが、彼女にも新しい日々が始まったのだ。あの晴れやかな顔を思い出すだけで、サナトには十分だった。


 今、サナトの手にはオレグが書き記してくれた紹介状がある。


「ベスタリア王国の第二王女様は、昔、この村の視察にいらしたことがあるお方です。もしお目通りが叶えば、きっと文献や書物を見せてもらえるかと思います」

「ありがとう。この恩は忘れない」

「いいえ、私たちこそ、今まで多くの助けを頂きましたご恩返しのひとつです。どうぞ、道中はお気をつけて。……最近では、動物たちが姿を消していると聞きます」


 村長の言葉に、ムラトが「魔物の仕業かもしれません」と続けた。

 実際には魔物ではなく、無分別に使った魔法や、それによる妖魔の影響である可能性がある。参道で出会った巌の魔獣のようなことが、あちこちで起きているのかもしれない。


「わかった。心に留めておこう」


 サナトは短く答えて頷いた。

 ムーはゆっくり休めたのか足並みも軽やかで、隣をナギが並んでいく。

 これから進む道は来た道と違う、村の南の方から河の上流にある橋を通り、西の森や山々を抜ける道筋となる。野の獣や魔獣に魔物、そして妖魔との遭遇もあるかもしれない。

 オレグ・レベテフ村長が、手を掲げる。


「どうぞ、サナト・アウレウス・セルヴァンスと、フィオレラ・ムードラスチ・フラームに、精霊と魔拯竜ましょうりゅうの厚き守護があらんことを」


 風の流れが速い。

 それはやがて厚く暗い雲を呼び、精霊の騒めきとなってサナトたちの耳に届くだろう。






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