2 第27話 これから何をしたいのか
サナトが来た時と同じように、前庭は虫の音が響いていた。
眩しいほどの月明りの下、星々も、雲一つない空に瞬いている。
オリガは作業場を囲む塀の辺りにまで来て、くるりとサナトの方へ振り向いた。少女の表情は明るい。
「うん、自分がこれから何をしたいのか、何をしたかったのか、もう一度ゆっくり考えてみることにする」
「そうか」
ふ、と少女が笑って走り出す。
その小さな背に、サナトは声を掛けた。
「家は近いのか?」
「すぐそこ! 見送りは要らないからね! おやすみぃー!」
元気な声が返り、坂道の更に上の細い道へ駆けて行く。
月影にオリガの姿は直ぐに見えなくなったが、
サナトを取り囲む大気は清々しい。
けれど、前へと運ぶ足が、いつもより重く感じる。歪みが淀み、
レラとの出会いでサナトの世界は一変した。そしてこれから進んで行く世界は、正に見たことも無い世界なのだ。
「わふっ」
すぐ横を並んで歩くナギが声をあげる。
サナトは気遣う銀狼の視線に、苦笑するような表情で返した。
「人の世は、難しいな……」
「おんっ」
尻尾を振る。
主の言葉をどのように理解しているのか分からない。それでもこの銀狼はいつもサナトを取り巻く精霊を見て、気を配り、声を掛けているのだろう。
「おんっ!」
不意に、ナギが声を上げて駆けだした。
と同時に、目の前を碧い蝶が通り過ぎる。何かの報せだろうか。
青い光の行く末を追うように顔を向けると、そこには
「お迎えにあがりました」
柔らかく微笑む。
ほんのりと上気した頬と、村の娘たちがしていたように結い上げた髪。
肩から膝までの、丈の長い上衣は借りたのだろう洗いさらしたもので、肩にはいつもの赤い大きな刺繍布を羽織っている。更に足元は、旅装束の長靴ではなく、素足に突っ掛けの薄い履物でいた。
里に居た時の、サナトが暮らしていた家で見たようなくつろいだ姿だ。
宴はよほど楽しかったのだろう。ほころぶ笑顔を見て、サナトは何故か、ほっと息をついた。
「あまりに遅いので、道に迷ったかと思いました」
「ナギもいるのだ。精霊が迷わせたのでなければ、帰りつける」
「ふふふ……そうですね」
肩をすくめて笑う、傾げる頭にひと房の髪が滑り落ちる。
サナトは自然と笑みを返しながら、レラの額と目元を隠す髪を指先で上げて、呟いた。
「濡れている」
「はい、先にお湯を頂きました。とても気持ちが良かったですよ。サナト様もゆっくり浸かっていらしてください」
「あぁ……そうだな、いや……」
曖昧な言葉で返す。
「少し、先に……眠りたい」
「まぁ……」
レラの顔を見て安心したせいか、徐々に足の力が入らなくなってくる。
妖魔と対峙した後で倒れるようなことにはならなかったから、上手く対処できたのだと、心のどこかで思っていた。今になってふらつくほどに力を失っているとは、やはり自分が思う以上に、作業場での
「では、お部屋の方にご案内いたします。……少し、ふらついていますが、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ……」
そう反射的に答えたものの、果たして用意してもらった部屋まで意識がもつだろうか。レラに担がれるわけにはいかないというのに、自信が無くなり始めている。
一歩、足を進める度に視界がぼやけていく。
ナギが心配そうな顔で、サナトやレラの周囲をくるくる回る。
部屋の
夢の中を進んでいるような心地だ。
どこをどう通って部屋まで辿り着いたのか、所々記憶が抜け落ちながら、気がついた時にはレラが扉を開けている所だった。
「サナト様、こちらです」
「んん……」
肩を貸すレラが、扉近くにあった小さな
縺れる脚。サナトの耳元で「上着を脱いで――」と声を掛けるレラの言葉を聞いた時、ぐらりと体が傾いだ。
「きゃぁああっ!」
そのまま、ばふん、と音を立てて、二人は
◆
「あ、あのっ……サ、サナト様っ!?」
サナトの腕の中で、もがもがと暴れたレラはやっとのことで
顔を真っ赤にしたレラは息を飲んで、しばし動きを止めてしまった。
思うより彫りの深い顔立ち。
長い睫毛。
適当に切ったのだろう、光の加減で深い草色に見えることもある黒髪は、短くはあるものの部分的に長く、目元にかかって邪魔になるのではないのだろうかとレラは思う。真剣な時や戸惑った時には眉間に皺が寄って、鷹の様に鋭い金色の瞳が、より一層険しくなる。
「サナト……さま?」
「ん……」
肩を軽くゆすると小さく声を漏らしたが、瞼はぴくりとも動かない。
まるで気を失ったかのように眠っている。
本人が気にしている「怖い顔」は、瞼を閉じていると驚くほどあどけない。自分と一つか二つしか歳の違わない青年なのだ。
レラはサナトの腕の中で身を
「……ぐっすり、眠っている」
「わふっ」
「よほどお疲れになっていたのでしょう……」
どうにか腕を逃れ、
「私……サナト様の寝顔を初めて見ました」
「わふっ?」
「私が目を覚ました時にはいつも起きていましたし、私が眠った後に休んでいたのでしょう。ずっと……見守っていて下さったのですね」
そっと、瞼にかかった前髪を払う。
無防備な寝顔を見下ろして、レラはなんだかおかしくなってきた。
自分より大きな魔獣を臆することなく制したり、恐ろしい妖魔を鎮めたりする力があるというのに、普通の男の人なら知っていそうなことをまるで知らない。
自分を飾ることもなく、与えられた役目には手を抜くということがない。
それはレラにとってとても微笑ましくあり、同時に、人の世にいたならとても生きづらかっただろうとも案ずるのだ。
「ずっと、このままであればいいのに……」
何故か嬉しさよりも、哀しみがこみ上げる。
ナギがレラの顔を見上げる。
森長は、サナトが人としての形を失うだろう可能性を予言していた。これから二人は大きな災厄に見舞われている、ダウディノーグ王国まで向かわなければならない。
互いに無事なままではいられないだろう。
自分がもたらしたことではあるが、どこまでサナトと一緒に居られるかも分からない。
いつの日か――きっと、別れは来る。
レラは、きゅっと唇を噛んでから、一つ息をついて顔を上げた。
「さて、剣を外さないと体を痛くしてしまうわよね?」
「おんっ!」
鞘に収められているとはいえ、腰に備えたまま横になっていては危ない。
レラはどうにか体をずらしてから、外した剣を
そして、もう一度「ううむ」と小さく唸る。
「ナギ、私……上着を着たまま横になっていては、寝苦しいと思うの」
「くふーん?」
「お休みになる時は、眠りやすい恰好というものがあるでしょう?」
「おんっ!」
「サナト様は私の裸を見たのですから、脱がせても、叱られないわよね?」
ぐっと拳を握る。
ナギが首を傾げる。
「脱がせちゃっても、叱られないわよね!!」
「お……おんっ!」
「よしっ!」
ナギの許可はとったのだから大丈夫、と気合いを込めたレラは、大仕事に取り掛かった。
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