2 第20話 破壊と虚無の呪詛

 大きな建物の裏手に、陶物すえものの登り窯はあった。

 斜面を使い、一番低い手前の焚口から薪を入れて、昇る熱を利用する。三つに分かれた間を繋げた、大きさもそれなりにある窯だ。しっかり組んだ煉瓦れんがの造りは堅牢で多くの陶物を生み出し、炭を作るのにも使われているのだろう。


「ここか……」


 影に、もぞりと動くものがある。

 澱が妖魔の形になり始めている。だが同時に、濃い歪みやおりがあるにもかかわらず、この地を守護する精霊たちの気配がする。

 今は火が入っていない窯にサナトが手を添えると、村人たちが代々に渡って大切に使い続けてきたおもいが、精霊たちから伝わって来た。そして同時に、事の発端となった少女に対して心配するような気配がある。

 少なくともこの窯の周囲に漂う精霊は、少女に怒りを抱いてはいない。

 それだけで悪戯いたずらに魔法を使ったのではなく、止むに止まれぬ思いがあったのだと知ることができる。


「いかがでしょう?」


 村長が様子を伺うように声を掛けてきた。

 妖魔は、もっと大きくしっかりとした形を取っているかとも思っていたが、まだそこまで澱は凝り固まっていないようである。油断さえしなければ戻しきれるだろう。

 だからこそ、早く戻さなければと思うのだ。

 サナトは気を引き締めたままの表情で振り向いて答えた。


「やはりこの窯の辺りを中心として、良からぬものが淀んでいる。けれど、今であればまだ、対処が可能なようだ」

「あぁ……よかった」


 村長を始めとした、ムラトや娘たちが胸を撫で下ろす。


「サナト様……私たちはここで見ていても、よろしいでしょうか?」


 遠慮がちに問いかける村長の後ろでは、不安げに見守るムラトや娘たちの姿がある。

 彼等がこのままここにいては危険なのではないだろうか。そう思い、この場から離れるように言おうとしたが、既に澱は娘たちにもまとわりついていた。

 不安と戸惑いが、疑心暗鬼を生み出している。

 この場・・・だけの澱を戻しても足りないかもしれない。

 場と、人が生み出し続けている歪みや澱、そのどちらをも戻しきらなければならない。そう思い、村長の横に控えるレラに顔を向けた。


「何かあれば、私が精霊にお願いして、全力でお守りいたします」

「わふっ!」


 レラに続いて銀狼ナギも戦闘態勢で返事をする。


「万が一危険な兆候があれば、俺に構わずこの場から逃げるように」

「わ……わかりました」


 いざという時は頼んだぞ、という視線を送りレラが頷くのを見て、窯の前に水を湛えた瓶と緑の小枝を置く。そして腰にある剣の存在を確認してから窯の方に向き直り、深く息を整えた。


     ◆


 祈りの形に手を組み、静かに唄文ばいもんを唱えはじめる。

 妖魔は澱だ。

 魔法の中の都合のいいものだけを無理やり引き出した際の歪みであり、残りかすであり、残骸ざんがいでもある。だがそれだけではない。

 何をおもい唱えたか。

 それらのねんも妖魔を呼ぶことと関わりがあるのなら、魔法など触れることもできないのではとサナトは思う。


 何ものにも、怒りや恨み、妬みや悲しみを持たずに生きるのは難しい。


 心の痛みを知り、日々を穏やかに暮らそうとしていた森の人ですら、完全に負のおもいを消すことなどできない。目の前にあるそれらすべてに感謝の心を持つのだと、言われてその通りだと思っても、その気持ちだけで生きられるものではない。

 人は、醜い。

 心無い言葉に傷つき、それでも足掻いて更に傷を深くする。泥の中でもがく様に、溢れるおもいは大地を穢して妖魔を生む。

 だからそんな人間など――消えて、無くなってもいい、と。


「……ふ……」


 サナトは呼吸を整える。

 今のおもいは妖魔を呼び寄せた者が抱えていたのろいだ。

 サナトの中にあるおもいに触れ、増幅させ、呪詛となって引きずり込もうとする。妖魔の一部に取り込もうとするものだ。惑わされてはいけない。


 否定はしない。

 けれど、捕らわれてもいけない。

 これは明確な強制魔法の呪文からもたらされた歪みやおりではなく、拒絶と不信、孤独と悲しみからきた、破壊と虚無の呪詛からきている。


 最初は他愛のないまじないのようなものだったのかもしれない。

 そこまで形式だったものでは無く、ただの愚痴や一言の恨み言だったのかもしれない。けれど心を刻むおもいが寄り集まって、辺りを歪め、淀み、澱となり、今、妖魔へと変貌へんぼうし始めている。


「水の、其のものの流れ整え、火の、穢れは光と還る」


 瓶の中の清らかな水が立ち上り、炎が消えていた筈の窯から火の粉が幻のように舞う。水と火の精霊に誘われるように、細かく散っていた澱が徐々に妖魔の形を取っていく。

 それは、赤く輝く糸状の蟲のように見えた。

 何本もの絡まる糸が地面を這うようにしてサナトの唄文に引き付けられ、近づいて来る。

 足元から這い上がり、闇にからめ落とそうとする。


「ひっ……」


 サナトの背後で引きつる声がした。

 一度、村の声聴きがはらいをしたと言っていたが、その時にはここまで明確な形をとっていなかったのだろう。澱や精霊のままであるなら知覚できなくとも、妖魔となれば人の目にも映るようになる。

 初めて妖魔の姿を見て、度肝を抜かれたか。

 どちらにしろ、今ここで完全に戻し、元となる者が同じことを繰り返さないようにしなければならない。


「風の、其の自由を示せ、土の、受け入れたもう」


 腐臭から、肌を焼くような焦げた匂いに変わり、漂い始めた。

 細い蟲の様に蠢く妖魔は、赤く燃える鉄の糸のようになってサナトの中に喰い込んでくる。

 実際に体を傷つけているのではない。深淵の森で戻した小鬼の妖魔と同じように、体に触れた瞬間に燃え、水が蒸発していくように消えていく。それでも呪詛は肉を喰らうように入り込んでくるのだ。

 痛みに、サナトの表情が険しくなる。


「――常なる緑に宿りし、呪詛を斬る剣とならん」


 大地の力を得て風を起こし、緑のは妖魔の呪詛を断ち切っていく。

 断ち切られながらも、サナトを通り道にして悲しいおもいは流れ落ちていく。

 誰にも受け止められない思いが、伝わらない寂しいが、いっそ消えて無くなれと繰り返す。毒のよう染みわたっていく。



 お前も、正しい唄文を唱えても……妖魔を呼ぶだろう。



「くっ……」


 力を尽くしても報われない。認められない。

 そのたとえようも無い虚しさは……分かるだろう? そう、妖魔は嗤いかける。


「水の、この地を清め……漂い、怒りと悲しみの大気を鎮め――」


 同調してはならない。

 認める。

 けれど受け入れず、受け流す。

 何をやっているのだと、冷めた自分が囁きかける。

 認めるのに受け入れないなど、矛盾しているではないか。意味が分からない。お前の言葉はただの詭弁きべんかと翻弄し始める。


「――せいなるの一部へと、戻らん」


 抵抗する妖魔が、焦げたような異臭を放つ。

 サナトを援護する、瓶に入っていた水の精霊が応え霧となって漂い始めた。

 静かな夜明けの霧の様に、周囲を涼やかな大気へと清めていく。残る闇の種となる部分は、サナトを通じて大地に――世界の一部へと戻っていくだけだ。

 あと、もう少し。

 そう思った時、サナトの背後で呟く声があった。


「どうして……」


 ぞわり、と妖魔の気配が動いた。

 サナトに集まり戻ろうとしていた妖魔が、獣人の少女の方に引き戻される。

 咄嗟に剣を抜く。


「火の、剣に宿り炎となりて穢れを灰に、気枯れをに!」


 詠唱と同時に炎の精霊が宿り、赤い火の粉が噴き上がる。

 短い悲鳴とどよめき。恐怖が伝播でんぱする。

 糸のような妖魔は寄り合わさり、縄のように長く太い蟲になる。その頭を剣で貫き、地に縫いとめていた。

 長い体がのたくりサナトに絡みつく。


「土の、飲み込め!」


 絶対に、ここで逃すわけにはいかない。

 ギリ、と奥歯を噛むサナトの前でナギが吼えた。

 レラは炎から人々を守るように一歩前に出て、横へと腕を伸ばす。サナトが叫ぶ。


「もういいんだ!」


 何故、そんな言葉が出てきたのか分からない。

 唄文でなければ呪文ですらも無い。

 けれど、剣に貫かれ地面の上でのたうつ妖魔に向かって、サナトは叫んでいた。


「もういい、それ以上……責めるな」


 牙を剥く。

 触るな、近づくな、もう誰も信じられない。信じたくない。

 うねり叫ぶ妖魔の声に叫び返す。


「お前の、在るべき場所、求める場所はある!」


 どこに!?

 空気を裂く叫びとなって打ち付けてくる。それでも剣に宿る炎に焼かれ、徐々に形を失い、妖魔は世界の一部に戻っていく。

 光と対になる、穏やかな闇。

 精霊たちがサナトの腕に手を添え、伝えてくる。哀しみと寂しさに凝ってたおもいへ、唄文は届いたと。

 意図せず口を突いて出て来た言葉は、この場所を守護していた精霊たちが、サナトの口を借りて告げた言葉なのだと、そう気がついた時には妖魔の気配は完全に消え失せていた。






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