2 第16話 空の星、地の熾火

 空には幾千万もの星の煌めきがあり、地には温かな熾火おきびがある。

 この世に存在する全てのものに精霊は宿っている。その精霊を恐れるということは、世界を拒絶することにもなるのだと。

 サナトの側で地面に伏せたまま休んでいたナギは、頭を寄せて手の甲を舐めた。

 人は愚かだと思うのに、それでも精霊たちはいつも優しい。


「恐ろしく思っても、俺たちの日々は魔法と共にある」


 枝でおきを掻くと、火の粉は赤い花が風に散るように舞った。


「唄文も呪文も、時と場合と使い方を誤らなければ大きな助けとなるものだ」

「呪文もですか?」


 じっとサナトを見つめて、レラは訊き返す。


「もちろん。呪文は危険も多いが唄文とはくらべものにならない程大きな力となって現れる。お願い・・・の唄文では対処しきれない時は、使わざるを得ない」

「対処しきれない時……というのは」


 おずおずと訊く。レラはすっかり呪文に対して悪い印象を持ってしまったようだ。

 サナトは苦笑してから思考を巡らせた。


「例えば……大雨で山が崩れそうだと知った時、麓に暮らしていたならどうする?」

「逃げます」

「逃げて間に合えばいい。だが逃げ出す時も残されていなかった場合、強制魔法の呪文を唱えることができたなら?」


 レラは視線を落として考える。考えるまでもないことだか、口にしていいのか迷っているのだろう。

 答えられずにいる少女へ、サナトは続けた。


「大いなる自然の前では、人ひとりの魔法など時間稼ぎ程度にしかならないとしても、強制魔法の力で逃げ出す時間を稼ぐことができたなら、命だけは救うことが出来る。そして、大地の形が変わるような大きな力を必要とする時は、唄文おねがいでは弱すぎる。もちろん強制的な力なのだから、後で必ずおり戻す・・ことが必要だ」


 レラがじっとサナトを見つめる。


「全ては時と場合と、使い方や頻度による」


 深淵の森は平和な地だ。穏やかで、すべてにおいて調和がとれた場所だが、時に空や大地が荒れ狂うこともある。森の大佳靈おおかみですらそれらを制御できるものでは無い。

 大地が揺れ動く時、それは最も偉大なる、この星そのものの力によって起こるのだと、年嵩としかさの森の人からサナトは学んでいた。

 人の力など羽虫と変わらない。

 だから人は決して、おごってはならないとつけ加えて。



「この世は不思議だと思うことがある」



 サナトは囁くように呟いた。


「何故このような形や仕組みとなって俺の目の前にあるのか。深く理解もできていないし、うまく言葉にすることができない。恐ろしいと思うこともあるし、すがりたくなることもある。醜いものを生みながら、どこまでも美しい……不思議だ」

「……ええ」


 レラが頷いた。


「不思議で、とてもおもしろいです」


 そう言って微笑む。

 精霊の声を聞き魔法を駆使したとしても、この世は不思議で満ちていて、一介いっかいの人ごときが全てを知り尽くすことはできない。

 知るには人の一生はあまりに短い。


「ですから――こんな時が、いつまでも続いてほしいとすら思います」


 微笑む。

 レラの瞳はまるで、涙を浮かべているように潤んで見えた。


「どんなものも永遠には続かないぞ。星すらも死すると聞いている」


 サナトは薄く笑い返す。


「空も地も、木々や獣たちも、昨日あったからといって今日もあり、明日もあるとは限らない。だからお前は、目にしたものを書物に書き留め、残そうとしているのだろう?」

「はい」


 肩をすくめてレラは言う。

 ダウディノーグ王国の危機を見たレラだからこそ、そのことはよくわかっている。


「それでも、この夜がいつまでも続けばと……思ってしまいます」


 にっこりと微笑む。

 ――静かな夜だった。

 虫の声と、遠くに響く梟の唄。風も眠り、薪がぜる音だけが思い出したように鳴る。ムーはぐっすり眠っているのだろう。ナギは時折尾を揺らすも、微睡むように瞼を閉じている。

 サナトは手に届く場所に置いておいた木の枝を足して言った。


「もうそろそろ休め。明日もまた山道を行くのだから」

「はい……あの、火の番は」

「俺とナギで見ているから心配するな」


 ナギが片目だけ開けて、また閉じる。

 眠っているように見えても、眠りこけて周囲の異変に気づかないほど鈍くはない、とでも言うように。そんな銀狼にレラは瞳を細めてから、側にいるムーに寄り添うように横になった。

 顔は、炎のこちら側に向けている。

 白い肌が夜の闇に浮かび上がる。

 視線を反らすと、不意にレラが呟いた。


「サナト様のお話は、言靈ことだまのようですね」


 顔を上げ、サナトはレラを見つめ返した。


「コトダマ?」

「はい、いにしえの民族の言い伝えで、言葉にも精霊は宿り力を持つ、というものです。今、ふと思い出しました」


 レラの声がサナトの心の中に染みていく。

 この世に存在するもの全てに精霊が宿るというのなら、言葉にすら宿っていてもおかしくない。


「言葉の精霊……いいな、そういう話は好きだ」


 柔らかく、レラは微笑む。

 そしてゆっくりと瞼を閉じると、さほど間を置かない内に静かな寝息を立て始めた。


     ◆


 サナトは今話した事柄をしばし心の中で反芻はんすうしてから、レラの眠りが深くなったのを見て、剣を片手に立ち上がった。

 側のナギが顔を上げる。

 サナトは、静かに、という仕草をしてから声をかけた。


「山道の様子を見てくる。何か異変があれば知らせろ」

「わふっ」


 小さな声で答えるナギを見て、サナトは一人、月に照らされた白い山道に戻った。

 人はもちろんのこと獣の姿もない山道は、夜の虫の音だけを響かせている。その道を、来た方に戻りながら、サナトは全神経を周囲に張り巡らせた。どんな些細な違和感も無いか、危険な気配はないかと。

 やがていわおの魔獣と戦った辺りまで戻って足を止めた。


 月明りに浮かび上がる白い道が、樹々の間を縫ってどこまでも続いている。昼中の熱を失った静かな夜風が、頬を撫でる。

 どれほど息を潜めても、何の異変も感じない。

 そのまましばらく立ち尽くしていたサナトだが、やがて、安心したように肩の力を抜いた。


「妖魔は湧いていないようだ……」


 魔獣と戦った時に使った魔法は唄文である。

 それでも、ザビリスと交えた時の様に、妖魔が湧くことがある。

 知らず知らずの内に剣の鞘をきつく握っていたことに気がついて、サナトは一人、苦笑を漏らした。そして柄を軽く握ってから、シャラン、と軽い音を響かせて剣を抜く。


 森長に頂いた剣は、鍔を始めとした柄のこしらえに豪奢な飾りは無いが、よくよく見れば細かい彫りが施されて、品位の高さは宝剣のように見える。

 長剣というにはやや短め。ゆるく反りの入った片刃の剣身は珍しい形で、果たして「剣」とよんでいい物か判断に迷うところだ。

 一見して触れただけで切れそうなほど鋭く、薄く見えるが、厚みが無いわけでもなく、重い。

 伸びやかに見える刃先が、実際より細く長く見える印象を持たせていた。何より、月明りを反射させる剣は冴え冴えと輝き、青白い燐光を放っている。

 その剣を右に左にと軽く振る。

 まるで激流をも巧みに渡る魚か、空飛ぶ鳥すら狙う猛禽もうきんのような流れ方だ。気を緩めればサナトの方が振り回されそうになるほど。


「この剣に宿る精霊は、ずいぶん荒く、厳しい性格のようだ」


 昼間の魔獣と戦った時、剣は手加減しようとするサナトをたしなめる様な気配があった。このままでは剣にサナトの方が使われてしまう。

 更に、二度三度と剣を振ってから、輝く剣を見てサナトは静かに鞘へと収めた。


「魅入られてしまいそうだ……」


 今まで以上に修練も必要だと、サナトは苦笑しながら覚悟した。

 森長が剣を託したのは、道中の安全を願ってのことかと思っていたが、それだけでは無いような気がしてくる。

 この剣を持つこと自体に何か意味があるかもしれないと考え、同時に、今はいくら考えても答えが見えるものでは無いと軽く頭を振った。


 あまりレラたちの側から長く離れずに戻った方がいい。

 昼間来た深淵の森からの道を眺め、そして村へと続く――今、歩いて来た道に視線を向ける。

 ほんの数日前、祭壇の社に置いてきた兵士はこの道を通ったはずである。

 ふと、彼は無事だろうかとサナトは思った。

 明日近隣の村に辿り着けば、その後の様子を知ることもできるだろう。と同時に、嫌悪しかなかった名前も知らない人に対して、そのような気持ちが湧く自分が不思議でならなかった。

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