第二章 渓谷の村クタナ

2 第13話 山の道

 陽はやや西に傾いた程度だというのに、夏の虫の合唱が、左右に分かれた明るい森から響き渡っていた。

 午後の陽に炙られ大気に熱がこもり始めている。樹々は高く、枝も道の中ほどへと長く伸ばしてはいたが、深淵の森のような清涼さはない。全ては生きるもののせめぎ合いにかき消されていた。

 大きく息をつく気配が頭上から降る。

 エルクに騎乗していたレラは、ここ六日ばかり過ごしやすい森の中に居たせいもあって、暑さに慣れていない。


「そろそろ休むか?」

「いいえ、まだ」

「無理をしてはムーもバテてしまう」


 そう言って、山道の左右に視線を巡らす。

 サナトが育った森より樹々の間は密集していない。その分下草が多く、休めそうな場所は簡単に見つからなかった。

 幸い森の間を縫う道は広く、白い砂利を敷き詰め平らに踏みしめられていたため、右に左にとくねりながらも歩きやすい道のりとなっている。長い年月をかけて、近隣の村人たちが道を整えたのだろう。


 レラに声をかけてから少し行くと、道からさほど離れていない樹々の間に、座るに丁度いい切り株を見つけた。その周りだけ下草も刈っている。村人が使っている休憩場所なのかもしれない。

 サナトの視線を見て、はしゃぎ疲れたナギが真っ先に足を向けた。

 銀狼が進んで足を踏み込む場所なら、危険は無い。

 危険は無いのだが――。


「あそこで一休みしよう」


 サナトがそちらへ手綱を引くと、ムーは大人しく従った。

 朝の早いうちから昼過ぎまで騎乗していて、レラも体の節々が痛み始めている頃だ。昔、軍の兵士だったという森の人から、強行軍の苦労話を何度か聞いたことがあった。

 長い道のりになればなるほど、歩くのと同じくらいに休むことは重要なのだと。


「祭壇の社から一番近い村まで、一本道に沿って歩くならば半日で着くと聞いたことがある」

「でしたら、夕暮れ時には辿り着くでしょうか」

「何事もなければ……な」


 時折、肌にピリピリと小さな棘が刺さるような気配がある。

 それが何かの危険を察してのことなのか、初めて森の外に出たことで緊張しているのか、サナトは判断に迷っていた。周囲を漂う精霊の様子やナギたちの表情を見てみても、危険を知らせるものは無い。


「祭壇の社とは、どのような祭事が行われる場所なのですか?」


 ムーから下りたレラは軽く体の節々をほぐしてから、サナトに勧められた切り株に腰を下ろし尋ねてきた。サナトは喉を潤すための水袋をレラに渡しつつ、その話はしたことがなかったかと、記憶を巡らせる。


「深淵の森の入り口に建つ祭壇の社は、唯一、森の人と外の人による仲合なからいの場だ。外の人は祭壇に赴いて願いや相談事を口にし、風の精霊に乗った言葉は森の人や森の大佳靈おおかみの元に届けられる。それが応えられるものであれば、次の夏至か冬至の時に、唄文となって届けられる」

「まぁ、そうなのですね……」


 レラの宵の空のような青い瞳が輝きだす。


「他には、収穫した穀物や森の外で育てられた獣肉、工芸品なども供えられる。それと同等の品を――深淵の森でしか取れない薬草や鉱物、精霊の守りが施された魔導具などを返す。その唯一の場所が祭壇の社だ」

「大切な交流の場なのですね」

「確かに、大切な場ではあるが……」


 サナトは言葉を切って、今来た道の向こうを眺めた。


「手入れされ歩きやすいとはいえ、この山道だ。半日かけて社に来て更に半日かけて帰るなど一日仕事になる。今は季節もいいが、この辺りの冬は雪が深い。冬至の時は大変だろう……」


 話では聞いていても、自分の足で歩いてみて初めて実感する。

 もちろん訪れる人は牛馬を使っているのかもしれない。それでも、全員が全員ではないだろうし、供える荷物が多かったならば馬に背負わせて歩く人も少なくないだろうと想像する。


「森の人は、外の人たちから供えられた恵みを大切に扱っていた。祭壇まで運ぶ村人の苦労を思えば当然のことだ」


 レラがほほ笑みながら頷く。

 その様子を見て、サナトも笑みを返そうとした時、ピリ、とした威圧感が肌を刺した。虫の声が一瞬にして鳴き止む。風が凪ぐ。


「サナト様……」

「お前も気づいたか? ゆっくり、道の方に戻ろう」


 レラはサナトの荷物を受け取り、ムーの手綱を取って白く乾いた道へと戻る。ナギは警戒に耳を立て低く唸り声を漏らし始めた。そしてサナトは、樹々の向こうに視線を向けながら、森長から頂いた長剣を抜く。

 獣の匂いがする。

 こちらに近づいているのだ。

 だが、普通・・の獣であれば、銀狼がいる場へ不用意に近づいたりしない。

 ならば獣は獣でも魔獣か……魔物か。


「妖魔の気配ではない」


 粘りつくような腐臭は無い。

 サナトはナギに指の動きでゆっくり移動するように指示を出し、じりじりと道の方に戻る。

 相手が接近してくるのは縄張りを犯したからか。魔獣や魔物なら、たいていはこちらが手を出さなければ襲ってこない。

 ナギがこれ以上近づくなと、低い唸り声を大きくして威嚇する。

 それでも、樹々の影から下草を揺らすようにして、少しずつ間を詰めてくる。山の道まで出れば追ってこないだろう。もし来たとしても見晴らしがよくなればこちらが有利になる。


「サナト様……」


 道に出たレラが、風に乗せて声を届けてきた。


「ムーに乗って待て。もしもの時は、一人で先に行け」

「待ちます」


 白い山道に戻ったサナトの背に、レラは静かな声で答えた。

 怯えて一人で逃げるのを嫌がっているのではなく、何が起きるのかを、すべて見届けるといった気迫があった。

 と、不意にナギが吼えた。同時に三頭の、猪に似た魔獣が樹々の間から飛び出してきた。


 荒く熱い息。

 野山にいる、普通・・の猪ではない。体長は通常の倍近く、覆う毛の一部が硬質化していわおのようになっている。長く伸びた下あごの太い犬歯は頭まで届いている。何より荒々しく挑みかかろうとする気配。

 こちらが動かなくとも、一戦交えようというのか。

 剣の切先が、巌の魔獣に向く。

 サナトが意識してではない。剣自ら戦い挑む様な感覚に、サナトは眉根をしかめた。剣を守護する精霊の、迎え撃とうとする反応が良すぎる。

 気を静めて、サナトは唄文ばいもんを唱えた。


しし、黙して通り過ぎよ……我とは交わらん」

「バフッ!!」


 一番大きな一頭が荒い息を吐いた。

 聞こえているが聴きたくない。そう答える意思が叩きつけられる。我らの棲み処を奪った元凶らの言葉など、聞く耳もたん! と。


「くっ!」


 サナトの呻きと同時に巌の魔獣が飛びかかって来た。

 ナギが吼えながら一頭の首元に噛みつく。だが硬く、歯が立たずに振り払われるのをそのままに、大きく跳躍し、側の大樹の幹を足場に跳ね返ると再び首を狙いに行く。

 同時に、一番大きな一頭が真っ直ぐサナトに向かった。


「風の、壁となりて弾かん!」


 突如現れた大気の壁に、魔獣の足が止まる。

 その不意を突いてサナトの剣が横に走った。

 切先が魔獣の鼻先を薄く薙ぐ。

 傷ともいえないような深さだが、敏感な鼻を切られれば大抵の獣は怯む。けれど、魔獣は大気の壁が掻き消えると同時に、更に踏み込んで来た。

 傷付けたくない気持ちがサナトの足を後退させる。


「ガフゥゥウ!!!」


 魔獣が叫ぶ。

 ガキィ! と、硬質な音が樹々の間に響いた。

 地面すら掘り上げる勢いで、二度、三度と襲い掛かる長い牙。

 剣で弾き、それでも尚、向かい来る牙に剣身で競り合い、脚に力を入れる。そのまま、じりじりと圧される。体格差がありすぎるのだ。


「ぐっ……」

「グァフゥゥウゥ!!」


 サナトの後ろにはレラが騎乗するムーがいる。

 巧みに手綱を握り、間を取り、サナトの動きを邪魔しないようにしているが油断はできない。いつ魔獣の狙いがレラの方に移るか分からない。


「何が目的だ……」


 魔獣の様子から見て、単に気が高ぶっていた所に居合わせたとか、こちらが縄張りに入り込んだだけでは無い。明らかに、遭遇した時から敵意を向けていた。


しし! 望みを答えん!」

「ガフゥゥウ!!!」


 伝い来るおもいはひとつ。

 ただ、蹴散らせ、蹴散らせ、蹴散らせ!

 踏みつぶし、牙の餌食にせんとする怒り。


 山道に、乾いた土煙が上がっていく。

 もうすぐ夏至の祭で村人が多く通るようになる。

 このまま放置しては、怪我人が出る。


 三体の魔獣と入り乱れ、サナトは応戦しながら打開策を探す。

 ナギも果敢に挑むが、魔獣の硬さに致命的な一撃を与えられないでいる。

 言葉が通じないのならば――今、この場で多少痛い目を見せることになっても、不用意に人に近づかせないようにしなければ。

 猪の体が巌のように変化したのは、大地に関する魔法の影響を受けたせいだ。このまま怒りの呪詛を吐き続ければ、周囲のおりを呼び寄せる呪文となって妖魔に変化しかねない。

 一度妖魔になってしまったなら、世界の一部に戻すまで辺りを穢し尽くすようになる。


「仕方がない……」


 意を決して牙を弾いてから剣を構え直す。

 低い位置から突き上げようと突撃してくる魔獣。


「ナギ!」


 サナトの声に反応したナギが退く。そのまま唄文を唱える声が響く。


「樹々の! 巌の精、ししを鎮めん!」


 ザァアアア! と樹々の間から木のつるが伸びた。

 三頭の魔獣は足元を取られ、立往生する。その目の前、サナトは手にした剣に炎の精霊を宿らせる。


「火の、剣に宿り炎となりて穢れを灰に、気枯れをに――」


 詠唱と同時に剣に赤い火の粉が踊り始めた。

 蔓の拘束を振り切ろうとする巌の魔獣に、向かう切先が吸い込まれる。その反応の鋭さ、強さに、サナトの方が引っ張られそうになり奥歯を噛んだ。脚を踏ん張る。


「穢れを灰に!」

「ガァアアアアッ!!」


 瞬間、剣から噴き出した炎が爆炎となって包んだ。

 魔獣の叫び声が響く。

 殺したくて剣を向けたわけではない。

 息を飲み剣を引く。樹々のを戻らせる。その時、騒めく精霊を鎮めようとしたサナトの背後から、静かな声が響いてきた。

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