1 第12話 旅立ち

 静かな朝だった。

 いつもより夜明けを告げる鳥の声が少ないように感じられるのは、サナトの気のせいだろうか。そう思いつつ、昨夜の内にまとめた荷物を手に取る。レラも既に準備を終えて、こじんまりとしながらも居心地のよかった家の中をゆっくりと見つめていた。

 視線を追うように、サナトも眺めていく。


 柔らかな陽射しを受け止める窓。種類別にきっちりと分けられた薬草の瓶とそれらを収めた棚。かまどの横に並べられた皿や長く使い込まれた鍋。食事を囲んだ卓子テーブル。嵐の夜には頭から毛布をかぶった寝台ベッド――。

 この家には、サナトが里に来る前から住んでいた人たちの、途方もないほど長い間に集められた品が眠る。

 ここ数日、家の中で細々とした物を片づけたい気持ちになっていたのは、このような未来が来ることを心のどこかで予見していたのかもしれない。


薬罐やかんは持っていくのですね」


 サナトの荷物は多くない。

 森長から頂いた長剣と愛用の短剣、水袋。里の人たちが贈ってくれた品と薬、カップ、わずかな着替え、弓矢。書物を持ち歩いているレラの半分にも満たない。それでも小さめの薬罐を背負い袋に入れていたのを見て、レラは愛用の品なのかとほほ笑んだ。

 ところがサナトは、何を不思議なことを訊くのかという顔で答える。


「薬罐が無ければお前に呑ませる煎じ薬を作れないだろう」

「あ……」

「怪我をしていたことを忘れたのか?」


 呆れた顔を返しながら外に出たサナトは、レラの荷物をムーの背にくくりつけながら言う。


「少し痛みが引いたからと油断していたら治りが遅くなるぞ。これからは調子が悪くなったからといって直ぐに休めるわけじゃない。それに、長旅になるのだろう?」

「はい……」

「本当によくここまで、無事にこれたものだ」


 しゅんと肩を落とすレラに、サナトは苦笑して見せた。

 主が気落ちしているのを察して、ムーが慰める様に鼻先をつけてくる。


     ◆


 全ての荷物の準備を終えてからサナトは周囲を見渡した。

 夏の初めとは思えない程ひんやりとした空気の中に、紫丁香花むらさきはしどいの香が漂う。

 天気が悪くなる気配は無い。

 日が昇ればそれなりの暑さにはなるだろうが、旅立ちの日にはちょうどいい空模様だ。

 そして――改めて、家を振り返る。

 深淵の森の入り口にある祭壇の社に置き捨てられ、森の人に拾われた時から暮らしてきた家だった。嬉しいことも、哀しいことも共にあった。死が訪れるその日まで、ここで暮らすのだと思っていた。

 サナトは今日まで育った家に向かって、静かに唄文ばいもんを唱える。


「住まう家の、其の懐で命育む謝恩しゃおんを聴く。永き時を経て守りしが去りも、新たなきたるまでしばし眠れ」


 里に新たな森の人が訪れるまで、この家は眠りにつく。

 そうして、家は幾世代、幾人にも渡って流れゆく命を守っていく。

 サナトは静かに扉を閉めてからレラの方に向き直った。

 ここでは、深淵の森から旅立つことは死と同じだ。戻ることは許されない。


「行こうか」


 二度と、この家に帰ることは無い。




 振り返らず歩き出す。足元の草が鳴る。

 ムーとレラが続くその足音に、もう一つの音が微かに混ざった。顔を上げると、樹々の間から大きな銀狼が姿を現し鼻を鳴らしていた。


「くふぅぅ~ん」

「お前、来てしまったのか?」


 駆け寄るナギが真っ直ぐサナトを見上げる。

 人では無くても、この森に暮らすものなら旅立つ者を見送らないという約束は知っている。それなのに、ナギは姿を現してしまった。


「おぅぅ~ん」


 鼻を鳴らしてサナトにすり寄ってくる。

 サナトが頭を撫でると、銀毛は朝露に濡れていた。ずっとここで待っていたのだろう。こんな場合の対処法など聞いたことが無い。

 困り果てるサナトに背中からレラが声をかけた。


「サナト様、ナギを連れて行ってはダメなのですか?」

「連れていく?」

「置いて行かれるのが辛いのでしょう」


 遠慮がちに尾を振りながら、ナギはサナトの言葉を待つ。

 真っ直ぐに見上げる瞳。サナトは小さくため息をついてから、もう一度ナギの頭を撫でた。


「俺と一緒に行けば、お前ももう、この森には戻れなくなるんだぞ。それでもいいのか?」

「おんっ!」


 わずかに腰を落として元気に声を上げる。

 期待に尾が激しく揺れる。

 レラに言われるまでも無く、サナトにもナギの声が分かっていた。

 ここでダメだと言ってもナギは聞かずに追いかけてくるだろう。


「わかった、一緒に行こう」

「おんっ! おん!」

「こら、静かにするんだ。まだ夜が明けたばかりの時間だぞ」


 軽くたしなめる。

 けれどナギは仔犬のように駆け回り、サナトの前や後ろを行く。肩を落とすサナトに、レラが笑った。


「何が可笑しい?」

「ふふふ……私、サナト様は何でもできると思っていました。でも、もちろん、知らないこともたくさんあるのですよね。これから向かう森の外のことも」


 レラは笑いを堪えながら喜ぶナギを目で追い、そして肩を落としたままのサナトに顔を向ける。


「……こんなことを言っては生意気だと、怒りますか?」

「怒らない。お前の言うことは事実だ。俺は森の外のことは、知識でしか知らない」


 怒らないと言いながら、口調は憮然ぶぜんとした感じになる。

 ずっと森の中で育っていた自分は、それほど奇妙に見えるのだろうか、と。


「お前から見て、俺はそんなに変なのか?」

「変……と言いますか、森の外に暮らす男の方とは随分物の見方や感覚が違っているように思います。ダオ様はひねくれ者などとおっしゃっておりましたが、サナト様は驚くほど……素直です」

「嘘をついても仕方がないだろう。精霊は全てを見通している」

「お言葉の通りです……」


 またもやレラが笑いを堪える様な顔になる。


「私、サナト様が深窓のご令嬢のように見えてきました」


 レラの思わぬ言葉にサナトは戸惑った。令嬢とは貴人の娘という意味だ。


「目が悪くなったか? 俺は女ではない」

「そういう意味ではありません!」

「では、どういう意味だ?」

「それは……そのうち、お話しいたします」


 今度はレラの方が困った顔になって口を閉じた。

 何かの例え話なのだろうことは察するが理解できない。レラが困るぐらいなのだから、ずいぶんと難しいことを訊いてしまったのだろう。

 そう思うサナトは、頭を捻りながら呟く。


「外の世界の言葉は難しいな」


 里の外壁、門の場所まで辿り着いて足を止める。

 ゆっくりと門扉が開いていく。

 ここから先は足場の悪い森の中を通る。ムーの背にレラが乗り、その手綱を手にするサナトは、ゆっくりと門を抜けていった。ナギが先導するように先を行き声を上げる。

 二人に言葉は無かった。


 翡翠の樹々が風に騒めく。遠くで鳥たちが歌いあう。

 朝陽を浴びる、二人が初めて出会った沢を抜け、森の深い樹々の間を行き、数日前に兵士を運んだ祭壇のやしろの前まではあっという間のことのように感じた。

 見上げれば日はもうかなり高いところまで昇っている。

 サナトはムーの手綱を緩く引きながら、レラに問いかけた。


「西の大国まで行く道のりは決まっているのか?」

「道のりは、精霊たちが指し示します」

「そうか」


 風の吹くまま、精霊の導くまま……ということだ。

 社の横を通り、夏至と冬至の祭の際に人々が集う広場を抜ける。その先、左右に並ぶ精霊を模した柱の間を通り過ぎれば、そこはもう深淵の森ではない。

 不意に、柱の手前でサナトの足が止まった。

 目に映る道の向こうにも緑の樹々は見えるが、そこは、妖魔の溢れる絶望の世界かもしれない。そうであっても、決めた思いは変わらない。

 引き返さない。

 そう、今一度、心を確かめて一歩を進める。


 柱の間を通り抜ける。


 風が変わる。

 流れる。

 空は青く、雲は白く漂い、陽の光は眩しく辺りを照らす。

 足元からは夏の虫が鳴き、熱気がサナトたちを包む。乾いた土と、濃い草の匂いが体の中に満ちていく。

 深淵の森とは全く違う、けれどそこも、命の生気に溢れた精霊たちの舞う世界だった。


「サナト様……」

「うん」


 精霊たちは風となって背中を押す。

 まずはこの道を真っ直ぐ。その先にある、人が暮らす村まで、と。






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