1 第10話 森の大佳靈の御前

 凍る、冬の朝に降る銀雪のような姿だった。

 音も無く一歩一歩進み、階段状になった壇の端で止まってから、ゆったりと大きな体を横たえる。ピンと張った耳。優し気に見下ろす瞳は黄昏たそがれに近づく金色の空の色で、太古より、この森の全ての命を内包しているかのように輝いている。


 通常の狼より大きな銀狼ナギよりも、更に大きな白銀の狼。

 レラはこの時、森の大佳靈おおかみはサナトと同じ瞳をしていると感じた。

 皆の意識と場が落ち着いたのを見て、森長もりおさは森の大佳靈へと向き直った。


「精霊の招きにより、森の人の里に訪れました少女、フィオレラ・ムードラスチ・フラームと、その世話役サナトでございます」


 森長の静かな声音が響く。

 今日も柔らかな明るい藍染の長衣ながぎぬの上に、夜の様に深い紺色の外套を羽織っている。特徴的な、両耳の上より生えた一対の角は外套よりも黒々と伸び、窓から陽を受け輝いていた。

 森の大佳靈は頷くように視線を落としてから、サナトとレラの方に瞳を向けた。

 直接耳に聞こえる言葉は無い。

 けれど精霊を介して、訪問のねぎらいがあったことは感じられた。

 レラが厳かな声で告げる。


「私は遥か西方ダウディノーグ王国の北荒野にある寺院から参りました。皆にレラと呼ばれる旅の者です。この度は深淵の森へ足を踏み入れたること、お許しくださりありがとうございます」


 深々と礼をするレラに、森長が静かな声をかけた。


「レラ殿、あなたがこの森を訪れた理由に嘘はないが、全てを語ってもいない」


 レラが森長を見上げる。

 森長は決して責めているのではなかった。

 森の大佳靈がいるこの場所で、胸の内にあることをつまびらかにするよう促しているのである。レラは、しばしどのように答えていいか迷うような沈黙を置いてから、視線を落とした。


「……はい。私の旅の目的は、この世のあらゆる事柄を書物に書き留めることの他に、もう一つございます」


 横で聞くサナトは、何故か胸の奥が重くなるような感覚が襲う。

 レラが森を穢すような者で無いことは分かる。だが、五日も共に居て、サナトに伝えなかったことがあったという、その事実が胸をざわつかせた。

 レラは良く通る声でゆっくりと語り始める。


「私が参りました、ダウディノーグ王国は歴史古い大国で、国の興りは今より四百二十年前。元は更に遥か西の大海を望む大平原にあり、海と野の恵み豊かな国であったと伝え聞いております。ですが……」


 言葉を一度切ってからレラは続ける。


「ですが……今より凡そ二百年前……いえ、それよりも前から兆候はあったのだと思います。大海を望む王国に魔物・・が湧きました」


 サナトが息を詰めた。

 魔物が湧く。

 その言葉は誤りだ。魔物は湧かない。湧くのは妖魔だ。

 魔人、魔獣らのように静かに変わりゆくものではなく、土砂が山肌を削り取り飲み込むように周囲にあるもの全てを喰らい、汚泥のように吹き出し、穢していくものが妖魔だ。

 多くの魔法を使い続けることで体におりを溜め、毒となり、人ならざる姿に変容したとしても、魔人や魔物、魔獣らは精霊の声を聞く。意図的に世界を穢したりはしない。

 ましてや湧く・・ものではない。

 森長が静かな声で訊ねた。


「それはまこと魔物・・であったのか?」

「違うと思います」


 レラは視線を落としたまま答えた。


「人々は魔物や魔獣なのだと言い伝えておりますが、私は違う物のように感じていました。感じてはいても、上手く言葉で言い表すことができません。そのため、私は旅に出ました」


 息を継ぐ。


「大地と海と風を穢し、炎ですら狂ったというそれは何であったのか」


 思い出すだけで当時の精霊の叫びが聞こえてくるかのように、レラは瞼を閉じる。


「……凡そ二百年前の、大海を望む王国に湧いた魔物は国を滅ぼしかけたといいます。偉大な魔法を操る王家と一騎当千の戦士たちは長い戦いの末、東の荒野へと逃れ、今の地にダウディノーグ王国を再建いたしました。――それからしばらくは平穏な時が続いたのですが、やはりまた遷都せんとした地にも魔物が湧きだしたのです」


 物語をそらんじる様にレラの言葉は淀み無い。


「その時は、一人の聡明な魔法騎士が国を救ったといいます――今より、十年前の話です」


 十年前といえば、レラは五、六歳の頃だろうか。


「魔法騎士は国を救った後、何故か名を捨て、王国を離れたといいます。その行方は今も分かりません」

「レラ殿は、その魔法騎士を探しているのか?」

「はい……」


 声が消え入りそうになる。

 まるで言いつけを守らなかった小さな子供のようにうな垂れてから、レラは顔を上げた。


「名前すらも残していないその魔法騎士にお詫びしたく、私は探しておりました」

「詫びと?」

「せっかく国を救って下さいましたのに、また魔物が湧きだしたのです。今度は更に大きく、狂暴なモノが……今、ダウディノーグ王国は再び滅びに向かっています」


 ああ……と、サナトは声を漏らしそうになった。

 その魔法騎士は、正しく妖魔・・を世界の一部に戻す・・ことが出来なかったのだ。ただ斬り倒しただけではまた湧いて来る。今度は更に兇悪な妖魔となって手が付けられなくなる。

 正しく妖魔を戻す力が無かったのか、術を知らなかったのかは分からない。

 ただ、同じ現象が繰り返される。それだけにレラは人々の伝承を探し求め、国に起きた事象の原因を読み解こうとしていた。

 このままであれば少女の言う通り、国は滅ぶだろう。

 レラは、口調に力を込め話を変える。


「私が生まれ育った寺院には、竜――魔拯竜ましょうりゅうの伝承が残されております」


 サナトがレラの方に顔を向けた。

 夜明けの水場で見た、レラの背中の紋章を思い出す。


「魔拯竜はこの世の全ての精霊を使役し、あらゆる魔法を使うことができるといいます。私は国を救った魔法騎士にお詫びしたうえで、竜の行方を探す。それが旅のもう一つの目的でございます」


 西の大国が滅びようとしている。

 どのような理由から背中に紋章が現れたのか、今は語られない。けれどサナトより細く小さな少女の肩は、とてつもなく大きな使命を背負っていた。


「滅びは膿んだ傷のように周囲に広がり始めております。時があまり残されておりません。精霊に魔拯竜の行方を尋ねても、この眼と耳で探すようにと……そう言って、居所を教えてもらえません」


 森長が頷いた。


「……それに、旅をするうちに、実は竜こそが世界に災厄をもたらす元凶なのだという言葉も聞きました」


 沈黙をもって見守っていた森の人たちが騒めく。

 レラは周囲の動揺に心乱されること無く、淡々と続ける。


「今の私には、何が真実なのか分からなくなってきています。竜は世界を救う聖獣なのか、滅びをもたらす恐ろしい魔獣なのか……その真偽も含め、私は探しているのです」


 顔を上げる。

 膝の上に乗せられた、レラの指は固く握られて白くなる。


「どうぞご存知でしたら、魔拯竜の居場所を教えてください!」


 声が、大社おおやしろに響き渡った。

 鳥たちもさえずりを止める。静寂の中で、金色の西日だけが柔らかく降り注いでいる。

 最初に沈黙を解いたのは森長だった。


「私も……そして、森の大佳靈ですら魔拯竜の在り処は知らぬ」


 レラの、息が漏れる気配がサナトにも伝わって来た。


「この大地、空、大海全てが竜のふところであると、私は聞いている。竜は人の手に囚われぬもの。世界の果てまで行かねば、見つけることは叶わぬかもしれん」

「世界の……はて……」


 床についたレラの膝から絶望が這い上がっているのだろう。

 傷が疼きだしたのか、わずかに目元を歪める。


「ひとつ言おう」


 少女を見下ろしたまま、森長は静かに続けた。


「レラ殿はその魔法騎士に詫びる必要はない。一時、国を救ったかのように見えたものは失敗だったのだ。そして魔法騎士が国を離れたのは、力及ばなかった為に自ら妖魔と化すのを阻止するためだ。そのまま国に止まれば、今度はその魔法騎士自身が滅びの災厄を呼びかねなかったのであろう」

「森長様……」

「名が残っていないのも、それが理由である」


 レラが顔を上げる。


「本来であれば、その魔法騎士が再び戻り、本当の意味での後始末をするのが筋である。だが、おそらくその魔法騎士では手に余る。今は人の姿を保っているかどうかも……」


 森長の声が途切れる。

 レラは真っ直ぐに森の大佳靈を、そして森長に顔を向け言った。


「もし、それが真実であったとしても、私はその魔法騎士を責める気持ちはありません。その方がいらっしゃらなければ、国はとうの昔に滅んでいたのです。一時であっても魔を退けたからこそ、生き延びることが出来た命は数え切れないほどございます!」


 レラもその一人なのだ。

 サナトはレラと森長とのやり取りを聞いて、膝に乗せた自分の拳が震えていることに気づいた。


 レラの本を読んで、魔人や魔物、魔獣らと妖魔の区分けが曖昧なことに気がついていた。森の外の人は本当にそれらを見分けられないでいるのだろう。精霊の声さえ聞き留めることができれば、見分けることなど難しくないのに、と。

 そうサナトは思い、同時に額に冷たい汗が流れる。

 森の外に住まう多くの人は、精霊の声が聞こえない。

 だから、何をなすべきか、何をしてはならないのかも分からないでいる。

 それがどれほど大きな不幸であるか、気づいてもいない。


 サナトは怒りに似た焦れったさを感じた。自分とて完璧ではない。それでも真に方法を探そうと思い行動すれば、答えは得られる。


 レラが国を救う方法を探しているというそれは、誰に言われるでもなく彼女自身が始めたことなのか、誰かに依頼されたことなのかは分からない。それでも今までに、西の王国の者がこの深淵の森に訪れて、知恵を請うて来たという話は聞かない。

 滅びに向かう国に住まう者たちは、本当に国を救いたいと思っているのだろうかと、サナトには疑いすら湧いて来る。


 ――ふとその時、風が動いた。


 見上げた目の前、森の大佳靈がじっとサナトを見つめていた。風の精霊が言葉を運ぶ。


 サナトのその怒り、憤りを、お前はこれから抱えて生きていくのか。

 西の妖魔は放っておけば、やがて精霊たちを飲み込み、命を奪い、残るのは死の荒野ばかりとなる。

 いずれはこの地にも及ぶだろう。

 サナトはそれより目を背け、生きていくのか――、と。






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