1 第08話 魔拯竜の紋章

 サナトが予想した通り、昼前からぽつりぽつりと降り始めた雨は夕暮れ時まで強く続き、雨が上がったのは陽の沈んだ頃だった。


 熱もずいぶん落ち着いてきたが、一向に目を覚ます様子はない。

 さすがに大丈夫かと不安になりかけたものの、レラを見守る精霊たちは静かで、このまま眠らせるがよい、と答えるばかりだった。

 精霊たちが大丈夫だというのなら、サナトが慌てることではない。

 慌てることではないのに、落ち着かない。

 結局、何度となく額の布を濡らし、換え、ぼんやりとした意識のまま口に水を含ませる。それでも時間があまり、多めに煎じ薬を作り置いたり、寝台ベッドの側の椅子で本を読んだり、仮眠を取りながら過ごした。


 レラの本は、ひとつひとつがとても丁寧に記されていた。

 道端や岩陰、森や草原にある精霊と関わりの深い動植物から、空の様子と星の位置、大地や水の色、村に伝わる伝承や祭の様子まで多岐にわたる。決して小さくも無い分厚い本だというのに、記述は細部にわたり、ぎっしりと書きこまれていた。

 筆跡を見る限りレラはこれを一人で書いている。

 一年や二年で出来ることではないだろうと、本を書く作業を行ったことのないサナトでも想像がついた。

 レラが目に映る様々な物に興味を持ち、丁寧に接しているのだ。

 それでも本人が苦手としているのか、それとも調べがまだ行き届いていないのか、魔人や魔物、魔獣に関する記述が少なかった。妖魔との区分けも曖昧だ。

 レラが「特に魔法に関することなど」と言っていたのは、森の外ではその辺りの知識や理解が曖昧なのかもしれない。


 またザビリスなる侵入者たちが言っていたように、深淵の森には使っても使い切れない程の魔法のみなもとが眠ると思われているようだ。それは一部では正しく、一部では誤った認識なのだが、レラがその言葉をどこかで聞いて森に興味を持ったのではないかと想像がついた。


「ふむ……」


 サナトが考え込むようにうなった時、寝台ベッドの方で気配が動いた。

 レラが目覚めたのだ。

 もぞもぞと動いて手で目の辺りをこする。窓の外は白々とした夜明けを迎えようしていた。


「起きたか?」

「……あ……」


 一瞬、自分がどこにいるかも分からないような顔で周囲を見渡し、サナトの方に顔を向けて息を飲んだ。

 自分が置かれていた状況を思い出したのだろう。


「サナト……様……」

「熱は下がったようだな」


 顔色も悪くない。

 念のためと額に手を当てて、もう心配はないと確かめた。


「……とても、すっきりしたような気持ちです」


 おずおずと答える。

 サナトは軽い笑みを持って頷いた。


「熱と一緒にたまっていた他の毒も消えたのだろう。脚の痛みは?」

「はい……重く、鈍い感じはありますが、痛いというほどでは」

「ならばいい。けれど治ったと勘違いをして無理はするな」

「はい……」


 叱られたと思ったのか、レラは小さな声で答えた。


「あの、私……どのぐらい眠っていたのですか?」

「一日と半――お前が里に来て三日目の朝だ。見てもいいと言っていたから、読んでいたぞ」


 分厚い本を掲げて見せる。

 レラの瞳が輝きながら見開かれた。


「ど、どうでしょう? 何か気になることは?」

「まぁ……無くも無いがよく書かれている」

「どのような箇所が?」


 身を乗り出すように訊いてくるレラに、サナトは苦笑で返した。


「その話は後にしないか? お前は森に入り込んだ頃から、何も食べていないだろう」

「あ……」


 言われて初めて気がついたとでも言うような顔をしてから、レラは自分のお腹を押さえた。

「時々水を飲ませてはいたが、傷の治りが早まるよう精の付くものを食べて、煎じ薬も飲んだ方がいい」

「私……少し水を浴びてきたく、思います」


 湯を沸かしにかまどに向かうサナトの背中に、レラが声を掛けた。

 起き上がれるぐらいなら、軽く汗を流すのは悪くない。

 サナトが窓の外の様子を見ると、大きな声を出したわけでもないのにエルクのムーが目を覚まし、こちらを見ていた。主の目覚めに気がついたようである。


「場所が分からないだろう」

「ムーが、教えてくれるようです」


 レラもムーの様子に気づいたのか、明るい声で答えた。

 立ち上がろうとするレラに手を貸してサナトが問う。


「一人で歩けるか?」

「ゆっくりであれば」

「傷は塞がったばかりだから、あまり長く水に浸かるなよ」

「……はい」


 民族模様の刺繍が施された赤い肩掛けを羽織り、裸足のまま外に出たレラは大きく深呼吸をした。夜明けの森のひんやりとした空気が、朝もやと共に流れていく。

 レラは寄り添うムーに声を掛け、柔らかな肩に掴まりながらゆっくりと水場に向かった。その後姿を見送って、サナトは竈に戻っていく。

 ダオにも、目を覚ましたなら精の付きそうなものを作ってやれと言われていたのだ。

 干し肉はそのままでは硬い。水浴びをするなら体も冷えるだろうから温かい汁物スープか何かに入れて……と考えた所でふと思い出した。


「あいつ、着替えも何も持って行かなかったぞ」


 うっかりしていたのか、もとよりそそっかしい性格なのかは分からない。

 だが汗に湿っているだろう、ずっと着ていた膝丈の上衣をまた着て帰るのだろうかと考え、肩の力が抜ける。

 着替えは……おそらく鞄の中だ。

 本は自由に出して見ていいと言っていたが、さすがにその他の荷物を勝手に触るのは気が引けた。


「世話の焼ける……」


 ひとまず湯を沸かすのは後回しにして、サナトは洗って置いておいた自分の、出来るだけ丈が長めの上衣を持ち、レラの後を追った。


     ◆


 里の中ほどを流れる小川の上流、水汲みの側に、水浴びをするのにちょうどいい水場があった。滾々こんこんと湧き出る泉がそこここにあって、水底に眠る小魚の鱗が見えるほど透き通り、夏場でも冷たい。

 もう少し陽が高くなれば里の者も姿を見せるだろうが、今は早起きな山の鳥ぐらいしか動くものの姿はなかった。

 そんな水場の茂る樹々の向こうに、人の気配と水音があった。

 ムーも側にいるのだろう。話しかける声が聞こえたが、内容までは聞き取れない。

 サナトは僅かに頭を低くして伸びた枝をくぐり、声を掛けようとした。

 その時。

 淡い金色の朝陽を反射させた水辺に立つ、白い肌の、後ろ姿を目にして――声を、飲み込んだ。


 薄桜色の髪をうなじから前に垂らし、梳いている。

 膝下までの水の中に立ちながら、肩から腰にかけての稜線は柔らかく、しなやかに伸び、縁を金色に浮かび上がらせていた。

 水面が光る。

 透明な滴が落ちていく。

 その露わになった白い背中のうなじの下から腰の辺りまで、くっきりと青く浮かぶ複雑な模様があった。


「それは……」

「はっ!?」


 サナトの気配に気づいたレラが、息を詰めて振り向いた。

 咄嗟に手に持っていた白い衣で胸元を隠す。

 顔を真っ赤にしたまま声を上げられないでいるレラに、サナトはいぶかしむような顔を向けた。


「その背中の模様は何だ? ただの入れ墨ではないだろう」

「え? あ……こ、これは……」

「強い精霊の気配を纏っている」

「……これは」


 言葉を切ったレラが、一瞬、遠いところを見るような瞳で答えた。



魔拯竜ましょうりゅうの紋章です」



 ぴり、と肌に痺れるような感覚が走った。

 サナトが繰り返す。


「魔拯竜……?」


 昔、一度聞いたことがあるような気がするが、咄嗟には思い出せない。ただ、竜の名がつくのだから、魔法に関連した模様の筈だ。


「強い魔法を使うために彫ったのか?」

「……いいえ、これは、生まれた時からあったものです」


 レラの声が小さくなる。

 今、ここで話すには躊躇ためらうようなものなのかもしれない。どちらにしろ、長く水に浸かっていては傷にさわる。

 サナトはそれ以上追及せず、側の岩の上に持っていた上衣を置いた。


「着替えを持って行かなかったようだから、着ていた物が乾くまでこれを使え」

「あっ! いやだ、私……」

「それと、あまり長く水に浸かるな。戻ったら傷口の布を替える」


 そう短く伝えて、来た道を戻って行った。


     ◆


 徐々に朝靄あさもやが晴れていく帰り道で、サナトは今聞いた言葉を呟くように繰り返した。


「魔拯竜……」


 竜とは――魔物と呼ぶにははばかられるほど、偉大な生き物。

 精霊の王。

 この世の魔法の全てを会得し、扱うことが出来ると聞く。それは、竜の問いかけに応えない精霊は皆無である、ということでもある。

 サナトも、遥か昔の伝説を耳にしたことはあるが、姿を見た者など魔法に精通した森の人もりのびとの中にもいない。ましてや、魔拯竜の紋章なるものも。


 改めてレラという不思議な少女のことを思う。

 一見、精霊の声をよく聞くだけの普通の女の子のようにしか思えない。お人好しで、そそっかしい様は、森を出たならあっという間に山の獣に喰われてしまいそうだ。

 けれど今思えば、彼女を取り巻く精霊たちはレラを特別な存在として扱い、守っていた。この深淵の森へ招いたことや、怪我を負っても大事には至らなかったことなどが、その証でもある。


「何か、大きな役目を持っている……」


 レラの後ろ姿が目に焼き付いて離れない。

 朝の光の中で水を浴びる姿は、淡く輝く人の形をとった、精霊そのもののようにも思えた。






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