1 第07話 森の人

 よほど体力を消耗したのだろう、レラは直ぐに寝息を立て始めた。

 やや呼吸は浅く、速い。それでも表情に苦悶の色が無いのを確認して、サナトは手当てに使った道具を片づけるのと同時に、周囲を見渡した。

 蝋燭ろうそくの揺れる気配。窓からの微かな風の流れ。注意深く目を凝らし耳を澄ます。気配を探る。時折、思い出したように虫の音が響く。

 遠く夜の鳥の、低く温かな声が聞こえてくる。


「妖魔の気配は……ないか」


 この家を守る精霊たちは穏やかな夕べに微睡まどろんでいる。かなり強めの魔法だったが、今の唄文ばいもんで妖魔を呼ぶことは無かったようだ。

 何度目かのため息を漏らしたサナトは音を立てないように扉を開け、家の外で心配そうにしていたエルクに声を掛けた。


「ムーと言ったか? お前のあるじは大丈夫だ」


 そう話し掛けるも、鼻を鳴らす。


「俺がちゃんと手当てをした。少し眠れば直ぐに元気になる」

「ぶふっ」


 短く息を吐いて頭を振る。

 その首元のたてがみを撫でると、ようやく気持ちが落ち着いてきたのか軽く頭を上下させて答えた。少し心配性で人見知りなところもあるが、気性の優しいエルクだ。


「それまでお前の世話は俺がする。長く旅をしてきたのだろう? この道具を片づけたら、毛を梳いてやるから少し待っていろ」


 少し離れた場所でナギが見守っている。

 サナトは血を溜めた盆を持って里の外れにある小川の川下まで行き、剥き出しの土が見える地面に膝をついた。

 人にとっては毒となる精霊はサナトの唄文ばいもんに応えて、体から出て行ってくれたのだ。その礼を果たさなくてはならない。サナトは両手ですくった柔らかな土を盆に盛るように乗せ、静かに唄文を唱えた。


「願い受け入れたる異質なる、血の靈にのりて、地の靈が受け止め、水の靈が清め至る。ことわりへと還り眠り給う」


 盆の上で固まり始めていた黒ずんだ血が土に吸われていく。

 その様子を見届けてから、盆の土を地面に戻した。人にとっては毒でありやまいの元となるものでも、ひとつの精霊なのだから疎かに扱ってはいけない。敬意を払わなくてはならない、というのが魔法を扱う者の作法だと教えられた。

 サナトは三度妖魔の気配は無いか確認してから、淡々と、側の小川で盆や汚れた布を洗う。

 後について来ていたエルクのムーが、サナトの頭に鼻先をつけてきた。


「もうすぐで終わる、待っていろ」

「ぶふっ」

「こら、邪魔したら濡れるだろう」


 わしゃわしゃと髪を甘噛みしてくる。

 人見知りなエルクだと思っていたというのに、思いの外、甘えん坊だったようだ。主が眠ってしまった寂しさからか、かまってくれとでも言うのだろう。それともレラに対する礼のつもりなのだろうか。


「やめろって、ははっ、はははっ!」

「きゅふ~ん」


 少し離れていた場所で見守っていたナギまでもが落ち着かなくなり、仲間に入れてくれと絡みついて来る。


「わふっ!」

「ナギ、こら」


 まだ子供遊びが抜けない銀狼にサナトは困ったような顔で笑う。

 ナギが後ろ脚だけで立ち上がったなら、軽くサナトの身長を超える体長なのだ。ナギにしてみればじゃれあいのつもりでも、不意を突かれれば力で負けかねない。それはそれで、主としての自負心が許さない。

 そんな心の内を知ってか知らずか、更に大きなエルクと二匹のもふもふにじゃれつかれているところに、人の気配が近づいてきた。


「サナト、楽しそうだな」

「ダオ!?」


 同じ里に住む森の人のダオが、片手に包みを持って声を掛けてきた。

 年は森長より少し上の三十代の終わりだというが、外見からそれを知ることはできない。

 人の姿をほとんど残していないのだ。

 唯一の人の名残りは二足歩行という所だろうが、体つきは巨大な猿のようであり、顔は蜥蜴とかげのようであり、頭の後ろから尾にかけて山嵐のような棘に覆われていた。

 普段の動きはゆっくりしているが、悪しき者たちが侵入してきた時の戦闘能力は森の人の中で一、二を争う。怒らせると森長の次に怖いと言われていた。

 その見た目に驚いたのだろう、ムーが少し離れて様子を伺う。

 サナトはぐしゃぐしゃにされた髪をかき上げながら、恥ずかしいところを見られたという顔で年上の森の人に向き直った。日没後だというのに外を歩いているということは、精霊に呼ばれて何か仕事をしていたのだろう。


「俺は、楽しんでいたわけではない」

「ははは、まぁ、いい、そういうことにしておこう。ところで風と樹々に聞いた、珍しくから人が来ているというじゃないか」

「精霊が招待した客人だ。怪我をして、さっき毒出しの唄文で手当てをしたところだ」


 ぶっきらぼうに答えたサナトは、片づけを終わらせようと手を戻した。

 ダオはサナトが五歳になるかならないかの頃から森に居る古参の一人だ。幼い頃から兄のように接してきた相手だからこそ、獣たちに遊ばれている所を見られてバツの悪い気持ちが顔に出る。

 ダオもそんなサナトの心の内など見通して、表情の分かりにくい姿でも声は軽く、苦笑を滲ませながら労った。


「それは大儀たいぎだったなぁ」


 毒出しの唄文は、ダオにも経験のある精霊魔法だ。

 唄文を唱える方も、唱えられる方も酷く神経を使うものだと知っている。巷で多く使われている、強制魔法の治癒の呪文とは根本が異なる。


「毒出しの唄文を使ったなら、熱が出るんじゃないか?」

「……既に出始めている。水を飲むように伝えた」


 ふむ、と軽く顎を撫でるようにしてダオは頷いた。

 小さな子供がすっかり大きくなったと、まるで父か兄のような瞳でサナトを眺め言う。


「そうか、あまり熱が酷いようなら吐くかもしれない。気をつけておけよ」

「……わかった」


 そこには考えが及ばなかったと、サナトは樹々の向こうにある家の方を見た。

 風が騒いでいないから、今はまだ、静かに寝ているのだろう。けれどこれから酷くなるようなら、せめて今夜は寝ずの番で様子を見ていた方がいいだろうと考えた。

 そんなサナトにダオが手にした包みを掲げ渡す。


「お前のことだ、夕食も口にしていないんだろ? 後でこれを食べるといい。客人にも、目が覚めたなら精の付きそうなものを作ってやれ」

「わかった。ありがとう」


 素直に受け取る。

 それを見て、ダオはゆっくりとした足取りで元来た道を帰って行った。ナギが鼻先を近づけてくる。その頭を優しく撫でながら、サナトはナギに声を掛けた。


「ナギ、今日は良く働いたな。俺はしばらく狩りに出られそうにないから、遊んでおいで」


 ふんふん、と鼻を鳴らしサナトの手をぺろりと舐めてから、ナギは夜の森へと姿を消した。

 その後姿を見送ってからサナトも家に戻る。ムーはサナトの後について歩き、家の前まで来ると近くの木陰で足を止めた。その場所だとレラの眠る窓辺にも近く、声も届くと分かっているのだ。


 暗い、蝋燭ろうそくの明かりが一つだけ灯る部屋で、レラはぐっすりと眠っていた。

 額や首元に手を当てると熱く、呼吸も速い。

 サナトはひとまず冷たく濡らした布を額に当ててから、静かに道具を片づけ始めた。そしてムーの毛を梳いてやる道具を手に取り、窓の外に顔を向ける。さすがのエルクも疲れたのか、大きな樹の幹の側で膝を折って休んでいた。

 無理に起こすことも無いだろう。

 夜はまだ始まったばかりだ。

 音を立てないように細々としたものを片づけ、今後利用が増えるだろう薬や薬草の残りを確認し、弓矢の手入れをしてからダオに貰った干し肉や餅を齧る。

 風は穏やかで、光を放つ虫が一匹二匹と飛び、夜の鳥の声ばかりが時折思い出したように響いていく。


 静かな森の夜更け。

 明るい月が、天高く昇っていく。

 星が瞬く。

 蝋燭の炎が、じじっ、と鈍い音を立てた。


 夜の深い頃になっても、この部屋に人の気配があるのはずいぶん久しぶりのことだ。

 余りの静けさに、ふと、呼吸が止まっているのではと気になり様子を見る。けれど月に照らされた白く豊かな胸元は、規則正しく上下を繰り返していた。

 手首に巻いた腕輪に編まれた石も、月明かりに輝いている。

 希少な種類の石は少ないが、どの石も大切にされ、宿る精霊たちも清められていた。レラが普段、どのような言葉――唄文を発しているのかサナトには分かる気がした。

 発する言葉や思念が濁れば、身に着けている物、特に守りの石などは真っ先にくすんでいく。濁りに堪え切れ無くなれば持ち主に代わって砕けたりもする。所持している石が輝きを保っているということは、持ち主の魂にも濁りが少ないことを現していた。


「琥珀……か……」


 意図せず言葉が漏れて、サナトは自分の声に驚いたように口元を抑えた。

 周囲に人はいないが、部屋に息づく精霊たちが楽しいものでも見たというように囁き合っている。こんな娘は今まで見たことがなかったね、とサナトをからかうような精霊の声に、小さなため息で返した。

 精霊にも様々な気質のものがいる。人の暮らしの近くにいる精霊はたいてい好奇心が強く、明るい。その家に暮らす者たちを守り、小さな変化も知らせてくれる。時にお節介なほどに世話好きなものもいる。

 サナトがレラに対して苦手意識を持っていることを見抜いて、面白がっているのだ。


「別に俺は、こんな娘のことなど何とも思っていない」


 くすくすと笑う気配がして、サナトはもう一度ため息をついた。

 夏の夜は短い。

 額の布を何度となく交換したり、寝台ベッドの側のテーブルで出来る、身の回りの細々とした物の手入れをしている内に東の空が薄青く白んできた。

 朝霧が漂い始める。

 夜明けを告げる鳥の声が遠く響く。


 眠るレラの様子を見ると、心なしか呼吸の速さも落ち着いていた。熱はまだあるが、燃える、というほどではない。

 熱が酷くなれば吐くかもしれないと聞いただけに、サナトは胸を撫で下ろした。

 眠る前に飲んでいた煎じ薬がよかったのか。何より、レラを守護しようとする精霊たちの力が働いたのかもしれない。


「ん……」


 不意にレラの声が漏れた。

 目を覚ましたのかと顔をのぞき込む。瞼は僅かに動いているが、目が開くという所まではいかないようだ。


「水を飲むか?」


 声を掛けると、渇いた唇が動くも声にはならない。

 サナトはカップに冷たい水を入れ、細い肩を抱き起こしてから口元に持っていった。水の匂いを感じたのか、レラは二口ふたくち、口に含むと、また静かな寝息を漏らした。熱の峠は越えたようでも目が覚めるにはもう少しかかりそうだ。

 一度、傷に巻いている布と薬を取り換える。

 窓の外は日が昇る時刻ながら、燦々さんさんとした陽射しは無く湿った匂いが漂う。いつの間に雲も出てきたようだ。


「今日は雨になりそうだな……」


 誰に言うでもなく、サナトは呟いた。

 暑い日にならなければ体の負担も少ない。

 夕べは一睡もしていないのだから、レラが落ち着いている今のうちに仮眠でも取ろうかと思いつつ、眠れるような気がしなかった。とはいえ、大方のやれる仕事は終えてしまって、静かに時間を使う用事が思い浮かばない。

 と、その時、戸棚の横に置いていたレラの荷物が目に入った。


 この世のあらゆる事柄を書物に書き留めるために旅をしているという、その鞄の中に、備忘録や本が入っていると言っていた。自由に出して見ていいと言うのなら、今のような時間にでも見せてもらおうと鞄を開ける。

 丸めた大きな紙や、数枚の束ねた紙の一番上に、立派な装丁の本が一冊入っていた。

 サナトは手に取り卓子テーブルに着く。


 しっかりとした革張りで、痛まないよう角に金具の細工を施した立派な本だ。それでも長く持ち歩いている物なのだろう、手の当たる場所が光沢を放つように磨かれていた。

 その最初のページを開く。紙とインクの匂いが鼻を掠める。

 しっかりとした丁寧な文字で、ここに書き記したものは筆者が直接見聞きした世界の姿であると、短い序文と共にレラの名が記されていた。






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