1 第04話 精霊の招待
レラが待っている沢まで戻った時、陽は更に西に傾き森の影が宵の色に落ち始めていた。
比較的なだらかに並ぶ岩場で膝を折るレラは、地面に座るエルクに寄りかかるようにして瞼を閉じている。表情は険しい。痛みが強いのだろう。
側には碧く輝く蝶が一羽止まり、少し離れた岩で、銀狼ナギは少女とエルクを見守っていた。
近づくサナトにナギが気づき頭を上げ、短く「おんっ」と鳴く。
その声で、レラも瞼を開いて顔を上げた。
「遅くなった」
「いいえ、私……眠っていたみたいです」
「傷の手当てはしたのか?」
サナトが訊くと、力ない声でレラは答えた。
「布を巻きました。血は止まったと思います」
丈の長い上衣をめくって、
膝辺りから太ももの中ほどまできつく巻いた布には、血がにじんでいた。血は止まりかけているのだろうが、あまり手際のいい手当てのようには見えない。
「薬は使っていないのか?」
「ちょうど持ち合わせがありませんでした。軽い傷には……薬草などで対応していたので」
そう答えながら、布の下で薬草を当てているようにも見えない。
もちろん怪我をした体で、足場の悪い沢を歩き回り薬草を探すというのも無理な話だ。そう思いもしたから、サナトは短剣と共に腰に備えていた小さな革袋から、血止めや化膿止めにいい薬草を幾つか取り出した。
「ここに来るまでの間に少し採ってきた。使うといい」
「ありがとうございます」
受け取り答える顔が辛そうだ。
サナトは小さくため息をついて周囲を見渡す。
今から森を出ても日没になるだろう。この怪我では野宿も難しい。妖魔どころか魔物や山の獣が出ても逃げ切れるかどうかは分からない。
どうしたものか。
そう思うサナトに応えたかのように、側に止まっていた碧い蝶が飛んで、サナトの周囲をひらりと舞ってから森の奥、里の方へと消えていった。蝶の姿を介して、森の
客人を里に案内せよ、と。
「エルクに乗るといい俺が手綱を引く。今夜は
「えっ……ですが、私は……」
「森の大佳靈が許しを出した。今から森を出ても夜になる」
そう言葉を切ってから、サナトはレラを見下ろした。
どことなく、自分の言葉に険があるように感じながらも続ける。
「もちろんお前が森を出たいというのなら、俺は止めない」
「いえ!」
レラの返答は早かった。
「実は私、森の人の暮らしを見てみたいと思っていたのです。禁断の森で精霊と共に生きる人たち。大いなる魔法の使い手。一晩だけでもいいので、是非、お連れ下さい!」
なるほど、とサナトは肩を落とした。
気まぐれな精霊は、この少女の様に純粋な願いを持つ者を気に入るところがある。
結界も破らずに何故森に入り込めたのかと思ったが、精霊たちが招き入れていたのだ。風も最初から、迷い込んだのではなく探求心により自ら森の奥へと足を向けて来ているのだと、言っていたではないか。
もちろん、人として生きることを捨てた森の人となるのでなければ長居はできないだろうが、精霊の招待であるのなら、サナトがいくら追い出そうとしても無理な話である。
「それだけ元気なら心配はいらないな」
「……すみません。私、嬉しくて……」
「怪我人なのだから、あちこち歩き回るなよ」
「肝に銘じます」
そう答えるレラの声は明るい。
ナギが軽やかに先を行き、レラを乗せたエルクの手綱をサナトが引く。今度は嫌がることなく素直に従うのを見て、サナトは複雑な気持ちになった。
獣の心ならどんな事でもわかると自負していただけに自分はまだまだ未熟だと。もしかすると精霊魔法を使いながら妖魔を呼んでしまうのは、そんな力の足りないところに原因があるのではないだろうか。
自分を厳しく律するだけではなく深い思慮も必要なのだと。そう思い沈むサナトの背に、レラの感心するような明るい声が掛けられた。
「狼が、ムー……エルクを襲わないなんて、不思議ですね……」
「森の獣は無駄な殺戮をしない」
サナトの声に銀狼のナギが振り向いた。
ナギは先を行きながら、距離が離れすぎないよう時々足を止めては振り返り、また進むを繰り返す。力ある狼が先導すれば、森の他の獣たちも不用意に近づかない。そればかりではなく、先程の沢でもずっと側で見守っていたことを不思議に思ったのだろう。
「ナギは賢い。自分のやるべき勤めをよく知っている」
「ええ。それに……サナト様をとても慕っています」
ふふふ、と微笑みかけられて、サナトは居心地悪そうに森の奥を睨み付けた。
サナトが育った森の人の里に、この少女のようなことを言う者はいない。どう接していいのか戸惑ってしまう。これはある意味、妖魔よりも厄介だとサナトは思った。
◆
それからさほど行かない内に深い森の道が開き、谷間を跨ぐ古い石橋を抜けた先に、一つの大きな門が姿を現した。
斜光を浴びる頑強な石門は
エルクの背に揺られていたレラは、ぽかんと口を開いてから感嘆の声を上げる。
「すごい、です」
「何がだ?」
「こ……このように立派な建物が……まるで、古代の遺跡のようです」
「そうなのか?」
サナトは眉根を寄せながら訊き返す。
「えぇ……あちらに見えるのは王城ではありませんか?
城という言葉がどういう物か、他の森の人から聞いて知識としては知っている。だがそれだけのことだ。森に人間が支配する王は居ない。どれだけ立派であっても、ここは「里」と呼ばれている。
◆
サナトたちが門扉まで近づくと、扉は大きな音を立てて開いた。
人が手で開けるものでは無い。ずっと昔に施した魔法が今も生きていて、里に入る資格のある者にしか開かないような仕掛けになっているという。
もっともそれ以前に、資格のない者は森の奥まで入り込むことなどない。仮に先程の兵士らの様に無理やり結界を解いたとしても、サナトのように森を見回る森の人に追い払われるか、精霊に惑わされて死ぬまでさ迷い歩くことになるかのどちらかである。
レラはそのような造りとは知らないから、自分たちが通り過ぎることで自動的に閉まる門扉にすら瞳を輝かせている。
門を抜けた里の中は、外と大きく変わっているわけではない。
今まで歩いてきた場所より多少樹々が密集していないというだけで、森の続きといっても差し支えない程度だ。
「とても……厳重なのですね」
「かつてこの地に、ひとつの小国があったという。その名残だ」
「このような深い森の、山間に?」
「ああ、どのような国が在ったのか、今となって伝える者はいない」
妖魔によって奪われたのか、森の大佳靈の逆鱗に触れ追い立てられたのか、はたまた樹々が勢いを増し国をまるごと飲み込んでしまったのかもしれない。どちらにせよ、今、ここに住む
門扉より真っ直ぐに進んだ先は、石畳だったという場所に落ち葉が厚く降り積もり、草地となった広場になっていた。その横を小川が流れ、一つ二つと小さな家が点在する。森の動物たちもめいめいにくつろぎ目の前を平然と通り過ぎていく。
広場を少し行った先には、見上げるほどに大きな――レラが言う所の遺跡群と城があった。
近くで見れば分かるように里を囲む外壁とは違い、城やそれらを取り囲む石の建物は古代から息づいている樹のように、ひび割れ崩れている箇所もある。
かといって寂れた雰囲気は無い。
むしろ永い年月を経た形ある物が、穏やかに、大地に還ろうとする姿である。
レラが城と言い、森の人が
「人の姿が見当たりませんが……どこかに出かけていらっしゃるのですか?」
レラは里の中に入っても瞳を輝かせながら、あちこちに顔を向けていた。本当に怪我をしていなければ走り出していたのではないかと思うほどだ。
「もう陽が沈む頃だから、それぞれの家で明日の支度でもしているのだろう」
「したく?」
「夏至が近いからな、近隣の村人に頼まれた物を用意したり……森の手入れをする用具を手直ししたり。ほら、ついたぞ」
里の広場の奥、西側に位置する大きな樹の影にある家の前でサナトは足を止めた。
他の家と比べても一回り小さい。それでも窓には
他の者たちと同じように、今はこの家に一人で暮らしている。
どこへ連れていけ、という指示が無い以上、ひとまずレラは自分の家に招くより他にないだろう。そう思うサナトの前に、風の精霊が言葉を運んできた。一息ついた頃を見計らって、
「後で森長自らが足を運んでくださるそうだ」
「まぁ、勿体ないことです。ご挨拶でしたら、私の方から……」
「それまで家の中で休んでいろ」
有無を言わせず、レラをエルクから下して言う。
そのまま手綱と荷を外したサナトは、エルクの背を軽く叩いて言った。
「向こうに水場がある、行っておいで。ナギ、案内してやるといい」
「おんっ!」
尻尾を振って銀狼が歩き出す。
エルクはサナトと、そして
「ムー、行ってらっしゃい。私は大丈夫」
その声に安心したのか、ゆっくりとナギの後に続いた。
レラはもう一度周囲を見渡し、そして今歩いてきた里の広場の方へと顔を向けた。
「里は……他にも、あるのですか?」
レラの荷物を運ぶサナトが訊き返す。
「他とは?」
「いえ……その、お店が見当たりません。閉まったのですか?」
「店? あぁ……お金という物を使って必要な物と交換する場所のことか。この里にそのような所はない」
「ない?」
「必要な物があれば分け合えばいい。こっちだ」
そう答えて、サナトは扉を開けた。
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