1 第02話 旅する少女

 森は、どこまでも鮮やかな緑と明るい陽射しの中にありながら、駆け抜ける二人の気配は、およそ穏やかな森には似つかわしくないものだった。


 一人は悲鳴を上げ、樹の根に足を取られ転がり倒れては立ち上がり、手足を枝葉で切りながら走る。額には玉の汗が浮かぶというのに、背筋は凍る程の恐怖で強張っていた。錆びた剣を握る指も鎖で縛りつけられたかのように固い。


「――黒き森の御靈ミュルクヴィズの枝を、を、払い我が姿を――ひぃぃい!」


 背後に迫る恐怖の幻影に、乾いた喉が張り付く。

 自分がどこをどう走っているのか分からないまま、縦横に伸びる枝を払い、魔法で捻じ曲げていく。

 そして追う一人は風に乗り、淀むことのない谷間の清流のように駆け抜けていた。

 距離はさほどの差があるものではない。だというのに、鬱蒼うっそうと茂る樹々に遮られてか、先を行く姿が掻き消える。


「目晦まし……いや、道開きの強制魔法を使っているな」


 しかも詠唱を行いきっておらず、中途半端な効力しか現れていない。

 サナトは一人呟き顔を歪ませた。

 姿は見えなくとも、兵士が逃げた道筋は精霊の気配が濁っている。それは足跡よりもはっきりと残った、例えるなら黒い煙が筋となって漂うような痕跡だった。

 精霊の姿を見聞きできる者でなければ明確に感知はできないが、微かに鉄錆びた匂いが混ざる。


「森が、穢れる……」


 ギリ、と奥歯を噛む。

 早く見つけ出し正気を取り戻させるか、昏倒させなければ。

 深淵の森は精霊が濃い。奥へ行けば行くほど、その密度は高くなる。

 他愛もない目晦まし程度の魔法でも、何を引き起こすか分からない。術者自身が妖魔となって死ぬならまだいいが、森を穢すことになれば、膿んだ傷口のように辺り一帯を巻き込みかねない。

 この森で魔法を使うということは、何よりも慎重にならなければならないのだ。


 森の小さな獣がサナトに警告を伝えてきた。

 この先にもう一人の迷い人がいると。

 最初に碧い蝶を介して精霊が伝えてきた少女のことだろう。


「森の……小さき我を通し給え」


 唄文ばいもんを唱えると、呼応したかのように虫たちが飛び、森の樹々の枝がしなり道を作る。サナトは森の獣が我が庭を疾走するように駆け抜けた。

 僅かの後、樹々が途切れる。

 沢に出たのだ。

 明るい切れ間にサナトが躍り出た。と、同時に響き渡る悲鳴。


「きぁぁあっ!」

「あ、わぁああああ!!」


 声の方、サナトが森から飛び出した先の沢に、うずくまる赤と白い外套の人。声音と体格からして少女のようだ。その目の前に、みすぼらしい鎧の兵士の姿があった。

 サナトが追っていた男だ。

 側にいた手綱をつけた大きな獣――荷を背負ったヘラ鹿エルクが威嚇するようにいななく。

 兵士の剣が、宙をかき乱すように二度三度大きく揺れた。


「くそっ!」


 サナトは呻いて岩場を跳ぶ。

 突如現れた人影に驚いた兵士は、サナトに向かってでたらめに剣を振り回した。

 ぶん、と風が鳴る。

 その動きを冷静に見極め身を反らし、兵士の胸元、鎧の隙間に重い拳を突き入れた。よろめく。次の動きの前に、くるりと踊り脇腹をかかとで蹴り上げていく。


「がはっ!」


 ガシャリ、と見た目以上に軽い音を響かせ、兵士は吹っ飛び沢の岩の上に倒れた。

 簡素な兜が転がり落ちると、現れた顔は擦れた声に反してまだ若い男だった。泥に汚れた肌の色は蒼白で、枯れ葉の色の短い髪は引きちぎったぼろ切れのようだ。何より灰色の目が恐怖と混乱の中で正気を失っている。


「ひ……あぁぁあ! あ!」


 ここに来てやっと剣から手が離れた兵士は、沢の水をバシャバシャと跳ねさせながら後ずさる。腰が抜けたのだ。立ち上がることもままならない。

 その様子をサナトは冷えた視線で見下ろし、鉄錆びた剣を拾い上げた。


「た、助けてくれ! 許してくれ!」

「去れ」

「ひぃいいい!」


 頭を抱えて身を丸める。言葉が通じないのかと思うほど、兵士はうわ言のように同じ言葉を繰り返す。

 と、その時、透き通った声の唄文が流れた。



みず御魂みたまよ、心の闇よりまなこの光と耳の調べに、今を知る……」



 さぁぁあ……と呼応するように樹々の梢を震わせた。

 流れる。

 碧く輝くうたは、夜明けの風のように、サナトと倒れる兵士の間を吹き抜ける。

 息を飲んで振り返った。

 頭から被る赤い布の下で、白い肌と、柔らかな口元だけが見える。

 祈るように、唄うように唄文ばいもんを紡いで、少女の唇が笑みになる。


「はっ、はっ、は……あぁぁあ……」


 再び呻き声が耳に届いて、サナトは足元に顔を向けた。

 兵士の、濁ったような瞳に光が戻り始め、荒い呼吸が治まっていく。今の魔法は、恐怖に駆られて心迷った者を導く唄文だろう。しかもずいぶん古い言葉だ。

 この少女は一体何者なのか。

 戸惑うサナトの前で、少女は軽やかな声をあげた。


「大丈夫です。もうここに、貴方を傷つけるものはありません」


 力の抜けた兵士に諭すような声を掛けてから、少女は頭から被っていた、民族模様の刺繍を施した赤い肩掛けを下した。

 新雪を思わせる肌の色に、薄紅の柔らかな口元。

 薄桜色の艶やかな髪は匂い立つようで、花の精を思わせる優しさの中にも、夜明けの空のような清らかさと、芯を通す意志の力を宿した青い瞳がある。

 時が止まる。

 真っ直ぐにサナトを見上げた唇が問いかける。


「そうでしょう?」


 声よりも年若く見える。

 少女の唄文で毒気を抜かれたのはサナトも同じだった。


「森を、不用意に荒らさないのであれば……攻撃はしない」


 サナトの言葉に少女は微笑ほほえみ頷いてから、もう一度兵士の方へ顔を向けた。


「さ、身体を起こして。貴方お名前は?」

「お……おれは……」


 ゆっくりと、上半身を起こそうとした兵士は不意に体をぐらつかせ、岩の上に倒れた。

 鎧が当たって耳障りな音を立てる。驚き駆け寄ったサナトが抱き起し、声を掛けながら体を揺り動かすも年若い兵士は目を覚まさない。


「おい!」

「緊張の糸が切れたのでしょう」


 少女が声を掛けた。


「ただ、気を失っているだけのようです」

「……そうみたいだな」


 サナトは大きくため息をついて肩を落とすと、意識を失った兵士を水辺から、沢の比較的なだらかな砂利の岸辺へ移動させた。

 ひとまず森の危機は去ったと見ていいが、ここに兵士を寝かせたままではいられない。どうにかして起こすか、サナトが抱えて森の外まで運ぶかだ。

 この深淵の森は、本来人が踏み込むような場所ではない。


「お前は?」


 少し離れた場所でエルクの手綱を握りこちらの様子を見ていた少女に、サナトは声をかけた。


「私はフィオレラ・ムードラスチ・フラーム。旅の者です。レラとお呼びください。貴方様は深淵の森の人もりのびととお見受けいたします」

「そうだ。サナトという」

「サナト様、先ほどはお助け下さりありがとうございます」


 そう言って、レラは深々とこうべを垂れた。

 主人の様子を見て側のエルクも危険は無いと理解したらしい。ブフッ、と一つ息を吐いてから静かにサナトの方を向いた。


 両手を広げた形の立派な角を持つエルクだ。ふさふさしたたてがみが、晩秋の草原のように風になびいている。

 とても穏やかな、そして主人に対する絶対の忠誠心を持つ素直な魂を持っている。このような獣を従える少女は、それだけの格があるのだと知ることができた。少なくとも今すぐ、この森で悪しき魔法を使うような者ではない。

 そうと分かっても、不用意に侵入してきた者を放置することはできなかった。


「お前は、ここを深淵の森と知って立ち入ったのか?」

「はじめの内は気づいておりませんでした。光と風の精霊の導くまま、しばらく進んでから森の様子が違うと気づいた時、そこの方が飛び出してきたのです」


 レラは横たわる兵士に視線を向けて素直に答える。

 周囲を取り巻く精霊の様子を見ても、レラが嘘を言っていないことは分かった。

 サナトは改めて、厳しい声でレラに告げた。


「ここは森の大佳靈おおかみの許しを受けた者、もしくは人として生きることを捨てた者しか立ち入ることのできない場所だ。そのどちらでもないのなら、森を去れ」


 レラは真っ直ぐサナトを見つめ返してから、ふ、と視線を落として頷いた。


「そのどちらでもありません」


 青い瞳が微かに憂いを帯びる。


「サナト様のお言葉の通りにいたします。……ですが、申し訳ございません。私には森の外へ向かう道が分からずにおります。どうぞご案内頂けますか?」


 少し困った顔で微笑む。

 今いる沢は、上流も下流も森の外には繋がっていない。沢沿いに歩けば森を出られるというわけではないのだ。森の人の道案内が無ければ、レラは永遠にさ迷い歩くことになるだろう。


「分かった、俺についてこい」


 頷くレラがエルクの手綱を持って足を進める。

 だが、一歩も進まない内に大きく均衡バランスを崩し、近くにある岩に片手をついた。

 陽を浴びる顔が青いほどに白くなる。眉根を歪ませて、唇を噛みしめてからもう一度体を起こそうとする。


「どうした?」

「何でもありません」

「お前のエルクが不安がっている。何もないということは無いだろう」


 ヒスヒス、と鼻先をレラの肩に近づけて鳴く。

 戸惑うようなエルクの視線を見れば、あるじの異変を感じ取ってのことと分かる。

 レラは苦笑しながら答えた。


「森の人は、何でもお見通しなのですね」

「怪我をしているのか?」


 白い大きな外套でよくわからないが、ふらつくような足取りを見る限りくじいたか。そう思ってレラの元まで近づき片膝をついて外套をめくると、肩からの膝下までの長い上衣じょういの下が血で赤く滲んでいた。

 やはり怪我をしていたのだ。

 厚手の下衣かいを履いているのにこの血では、傷は深いのではないだろうか。


「見るぞ」


 そう一言断り上衣をめくると、左の膝から太ももの中ほどまでが縦に裂けていた。






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