オルタナティブ・ダークシード ~金の瞳と魔拯竜の紋章~
管野月子
第一章 深淵の森に息づくもの
1 第01話 深淵の森
一粒の種から闇が生まれるように、それは、ぬるりと頭をもたげた。
淡い、若葉の色がぐずぐずと腐り、腐臭をまき散らし、
それは言うのだ。『ずるい……』と。
歪んだ笑みを白い顔に張り付けて、
『ずるい』
『ずるい』
『ずるい……』
身体が動かない。
這い上がって来る指を、腕を、振り払うことができない。
『約束が、違う……』
「……何を」
絞り出した声は自分の物ではないようだった。
視線を落とす。
その両手はすでに――。
◆
「サナト」
「……っ!」
陽射しが貫くように金色の瞳を焼いて、サナトは思わず顔を
息をするのも忘れていたのか、肩を軽く揺さぶられてはじめて、午後の陽射しに温んだ空気が喉に滑り込む。
どっと強く波打つ心臓。
日焼けした健康的な首筋に、てきとうな長さで切った黒髪が張り付いている。サナトは額を濡らす冷たい汗を
ここは――光に溢れた「
鳥は歌い風が花の香りを運ぶ、夢のように美しく平穏な世界。その
「精霊の報せか?」
「分かりません……精霊の声ではなかった。けれど、ただの夢でもない」
「白昼夢。
声を掛けたのは長身の、落ち着いた物腰の女性だった。
腰よりも長い、真っ直ぐに伸びた黒髪。高い
サナトの歳の倍、三十も半ばほど聞いたことがある。
夜の闇を思わせる深い紺色の
魔人。
その言葉が一番近いだろう。
両耳の上より生えた一対の黒い
深淵の森の片隅に住まう人々の長――
「胸騒ぎがします」
「うむ……精霊がざわついている」
耳を澄ませば、精霊の囁きは微かな声となって届く。
――森の境界、結界のすぐ外に、封じを破ろうとしている者がいる、と。
深淵の森は、本来、人が踏み込むことを許していない。
魔法の
決して「人」を拒絶しているわけではない。
だが、私利私欲に駆られ侵入しようとする者に対しては、そうはいかない。
この森で下手に魔法を使えば、
ここは捨てられた子供、もしくは人として生きることを捨てた「
「欲に駆られた……悪しき者が近づいている」
結界を破り侵入しようとしている略奪者の気配だ。森に満ちる力を、自由自在に扱える便利な道具か何かと勘違いしている者。
「それともうひとつ……」
すぃ、と流れるように
それは――運命の流れを変える者。
精霊に護られ、美しくも大きな獣を連れた、薄桜色の髪と夜明けの空のような青い瞳の少女。
「迷い人か?」
「間の悪いこと……好奇心に突き動かされ踏み込んでしまったようだな。サナト」
「少女の方の結界は……破られていない」
「穴があったか、気まぐれな精霊が招き入れたのか」
苦笑する森長に、サナトは眉間の
「どちらにしろ、良からぬ心を抱く者は、立ち入らせるわけにはいかない」
「うむ、ナギを連れてゆけ」
森の樹々の間から、大きな銀の狼が姿を現した。
昨年生まれた若い雄狼だが、既に立派な毛並みの成獣であり、爪や牙は他の獣の追従を許さない程に鋭い。更に、サナトの腰に届くほどの体高は、通常の狼とは比較にならない程大きく、気の弱い者ならば姿を見ただけで逃げ出すだろう。
サナトは頷いてから銀狼のナギを従え、風に乗って走り出した。
遅い春を
鳥が飛ぶ。駆け抜ける風に獣たちが顔を上げる。
森は不吉な気配など知らぬように、午後の眩しい陽射しの中にあった。
その美しさや精霊の気配に惑わされ、迷い込む者は少なくない。ただの無知と好奇心だけであれば警告だけで済むのだが――森の外れの結界の縁に辿り着いた時、サナトの淡い期待は消えた。
数人の、揃いの鎧を身に着けた男たちがいた。無理やり結界を破り踏み込んだのだろう、火の魔法でも使ったか焦げた匂いがする。
森を、焼くつもりだったのか。
決して
怯える獣たちの声が響く。
長い冬を越え、ようやく顔を出した新芽が踏み
光となって散っていく精霊たち。
ギリ、とサナトの奥歯が鳴った。
強固な結界は強制魔法と同じ
そのため、広大な森を守る境は
それを、自分たちの力によるものだと
樹のかげから姿を現したサナトは、真っ直ぐ男たちに向かった。
「深淵の
怒りを抑えようとするあまり声が低くなる。
鎧の男たちは突然現れた青年よりも、その後ろに控える銀狼を見て顔をひきつらせた。
一人が、腰の長剣を抜く。
「何者だ貴様は? その犬を連れて消えうせろ!」
「警告する。今すぐこの地を去れ」
「
数人いた内、鎧の造りが
顎髭を生やした土色の
「
「森の人だ」
「まぁ……いい。ここには使っても使い切れない程の魔法の
尊大な態度で言い放った。取り巻きは私兵というところだろう。
サナトは腐臭を感じてわずかに顔を
おそらくこの男は強制魔法を使い続け、湧き出た歪みや淀み、
今はまだ、その状態がわずかなため、精霊の声を聞かない者は気づかない。気づけないのだろうが、このザビリスという男が自我を失うのは、そう遠い未来ではないだろう。
サナトは一歩も譲らない立ち姿で声を響かせた。
「森の恵みを望むならば
「夏至ぃ? ははっ、宴でもひらいて酒や肴でもてなしてくれると?」
「……最後の警告だ。今すぐこの地を去れ。去らなければ――」
「怪我をするか?」
スラリと剣を抜く。
濁った剣だ。人や獣の血を吸った、
「大人に対する口のきき方を教えてやる!」
ザビリスが吼えると同時に、周囲の兵士たちが飛びかかって来た。
対するサナトの武器は腰に携えた短剣のみ。だが、この程度の者たちを相手に、剣を抜く気は無い。
上段から斬りかかる刃先を、するりと避けた。
取り囲む二人目の薙ぎ払いも、一歩、下がるだけで軽く躱す。その横から銀狼のナギが飛びかかった。
「うわぁああっ!」
剣を振り回す兵士の刃を余裕で避け、腕に噛みつく。そのまま引きちぎるかのように首を振り回した。
真っ先に獲物の首を狙いに行かない辺り、ナギも手加減しているのだ。
その間にも、取り囲む兵士たちが斬りかかってくる。
サナトは三人を相手しながら、切っ先ひとつ
「何を遊んでいる!」
部下のもたつく様子に業を煮やしたのか、自ら剣を振り上げ斬りかかって来た。
他の兵士よりは腕があるのだろう。真っ直ぐサナトの胸元や頭を狙う剣筋に迷いがない。だが下生えの緑や樹々の間で踊るように
一方サナトは、血走るザビリスの目を見て胸が悪くなり始めていた。
ただ腕がいいのではない、殺すことに慣れている剣だ。相手の命を奪うことに何の
サナトは大きく間をあけて身を屈め、片手を地に着けた。
ナギが飛び退き離れる。周囲の樹々が騒めきだす。
良く通る声が、辺り一帯に響き渡る。
「地の
「なっ!?」
その瞬間、ザビリスと兵士たちの足元が揺れた。
風が樹々の間を吹き抜ける。
魔法の力に驚いた兵士が悲鳴を上げ、後退しようとする地面がずぶりと沈んだ。下草と樹の根が縦横に延びるしっかりとした地面が、まるで沼地のように兵士の足を飲み込んでいく。
「ひゃぁああ!!」
「あ、に、逃げろ!」
剣を放り投げて森の外へと飛び出す兵士。
ザビリスだけが苦虫を噛み潰したような顔で呻く。その体を
子供が転がるように手をつく。
宙を舞う剣はくるりと反転したかと思うと、倒れたザビリスの耳の横、地面に深々と突き刺さった。息を飲む悲鳴が漏れて、体を支えようとするも腕ごとずぷずぷと埋まっていく。
「お、おのれ……」
泥の地面から這い出すようにザビリスが後退を始めた。
その後ろで正気を失った兵士が一人、何を血迷ったのか森の奥へと逃げ出した。方向感覚を失ったのだろう。
「しまった……ナギ! こいつらを結界の外まで追い出せ!」
「おぉぉん!」
一声吼えて、ほうほうの
ナギの足元は
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