終章

「おーい蘭、いるかあ。ちょっとさあ、俺んとこへ来てくれないかな。」

そんな声がして蘭は、華岡がやってきたんだなということが分かった。ちょうど蘭は、自宅内で下絵を描いているところだった。

「おい、蘭、ちょっと来てくれ、お願いがあるんだよ。」

と、華岡は、そういうことを言いながら、蘭の家に上がり込んだ。

「なんだよ、いきなり上がり込んで。何をするつもりなんだ?」

と、蘭が、仕事場から出て、玄関先に行くと、

「あ、ああごめん、忙しい時に。今柏崎朝代の取り調べをやっているんだ。だけど、彼女がお前となら話をすると言っている。忙しいのはしょうがないが、お前もちょっっと取り調べを手伝ってくれよ。一緒に署に来てくれ。」

という華岡。蘭は、はあという顔をしたが、華岡の顔が真剣そのものであり、仕方ないなあ、わかったよ。と言って、テーブルの上においてあったカバンをとった。華岡は、ワゴンタイプの車に蘭を乗せた。じゃあ行くぞと車は、動き出した。

「で、僕はまず、何をすればいいんだよ。」

と、蘭が言うと、

「おう、俺と一緒に、彼女の取り調べを手伝ってくれればそれでいい。ただ、お願いなんだが、絶対、感情的にはならないでくれよ。」

と、華岡は言った。それは蘭にとっては、少々難しい注文でもあったが、わかったよ、とだけ蘭は言っておく。

しばらく走ると、蘭と華岡は、警察署に到着した。華岡に手伝ってもらって、蘭はワゴン車を降りた。

「僕が取り調べに立ち会うなんて、何とも言えない気分だな。僕は、素人だし、うまくやれないよ。」

と蘭は、警察署内の廊下を移動しながらそういったのであるが、華岡は、気にするな、お前はいてくれさえすればそれでいいんだ、と言って、そのまま歩いて行ってしまう。蘭はしぶしぶ、取調室の中に入った。

「おい、連れてきたぞ。君が望んでいた、彫たつ先生に来てもらった。先生の前なら、本当のことを話してくれるな。」

蘭の目の前にいる、柏崎朝代は、あの時蘭のところにやってきた彼女とは違う人物であるような顔と思われるほど、顔つきが違っていた。あの時は、すごく明るくて、生き生きしていたはずの彼女が、今はどこかへいってしまったようである。

「柏崎さん。」

と、蘭は言った。

「あなた、本当に野田良子さんのお手伝いの方を殺害したんですか?」

「はい、しました。」

もう、しらを切ることはできないと思ったのか、彼女はそういった。

「では、またそれはなんで?」

ショックを隠せないまま、蘭はそういうことを聞き返した。

「だって、あの人が、日常生活の事とか、いろんなことを私に繰り返して言うので。耐えられなかったんです。あのバンドのほかのメンバーは耐えられたかもしれないけど、私はそうじゃありませんでした。ほかの三人は、みんなものすごいお嬢さんで、何をするにも不自由はなく育っていましたが、私はそうじゃンなかったんです。あの鳥居さんは、そういう私と、ほかの三人をいつも比べっこしてました。ほかの三人には優しかったんですけど、私にはすごく冷たかったんです。本当は、それが普通の事かもしれなくてもです。」

「そうですか。具体的に、何をされたのか、話してもらえませんか。」

と蘭が聞くと彼女は、

「ええ、実は、私が本当にやりたかったのは、野田さんなんですよ。」

と語るのであった。

「野田さん?」

「ええ、野田さんです。野田さんは、音楽を作ることはすごいうまい人だったけど。」

彼女は、少し涙を見せて、そういうことを言うのである。あの、野田良子にそんな一面があったのかと蘭も華岡も少し驚いていた。

「確かに、あなたたち恋歌の楽曲のほとんどは、野田良子さんが編曲を担当していましたね。確か、ポップミュージックや、ロックなどやっていて、それが大ヒットにつながった。」

と、蘭が言うと、

「ええ、そういうものばかりでした。レッドツェッペリンの天国への階段とか、そういう私たちも知らない曲をやらされたりして。」

と、彼女は答えた。確かに、天国への階段は、彼女たちの年齢であれば聞いたことなんかない曲だと思う。それくらい古い作品である。

「箏は、お年寄りの楽器というイメージが強いから、そういうのでポップミュージックをやるのであれば、古いものがいいって、野田さんが勝手に決めてしまってたんです。私たちの意見は何一つ通りませんでした。第一作目のアルバムの曲を決めるときにも。」

と、彼女は、涙をこぼしながら語り始めた。野田良子の自宅内で、コーヒーを飲みながら、打ち合わせしていた時のことを思い出す。

「いいじゃないですか。箏でほかのジャンルの曲をやってみるのも。何かやってみたい曲とか、そういうものがあれば、すぐ言ってください。」

野田良子は、鳥居さんから出されたコーヒーを飲みながらそういうことを言った。

「私は、クラシックの楽曲、モーツァルトとか、そういうものがいいのではないかと。」

と、メンバーの一人が言う。

「そのほうが、著作権使用料を払わなくても済むのではないでしょうか。」

確かにそれは言えた。現役で活動しているミュージシャンの楽曲を演奏するには、著作権使用料を、日本音楽著作権協会に払うということは必要なことでもある。

「まあそうね。それもそうだけど、できる限りヒットする作品をやった方がいいから、そうね、ロックとか、そういうものはどう?CDを積極的に買っていた世代のロック、そういうものをやった方がいいじゃないかしらね。まあ、著作権使用料は払わなきゃいけなくなるのはしょうがないけど、知名度の高い曲のほうが、売れるのではないかしら。」

そういって、もう一人のメンバーが、いわゆるヴィジュアル系というのか、そういうものに属しているバンドの数々を挙げた。朝代は、よくそういうバンドの名を知っているのかと、不思議に思う。だって、音楽学校を受験するというのは、朝から晩までピアノなり箏なりを練習しまくっていて、ポピュラーソングを聞いている暇などなかったし、許されることでもなかったからである。音楽学校に入ってもそれは続いていた。そういう曲を聞く暇もなければ、ポピュラーのコンサートに行く暇などなかった。

「じゃあ、柏崎さん、あなたの意見はどうかしら?何かやってみたいとか、弾いてみたいと思われる曲はある?もちろん、古典箏曲とかそういうのはダメよ。そんなものはわからなくて当然なんですからね。なるべく、多くの人の耳に届いているものが一番いいのよ。」

と、野田良子に言われて、朝代は、びくっとする。

「わかりません。」

とそれだけ言っておく。

「私は、そのような音楽を一切聞いてこなかったので、何が流行っていたのかなんて、まったく知りません。」

と、正直に答えるが、野田良子もほかのメンバーもカラカラと笑った。

「そんなことも知らないの?本当に、音楽を学んできたのかしら?」

「ええ、だって、そんなことしている間はありませでした。だって、そういうことはできなかったんです。だって授業が終われば練習で、アルバイトしている暇もなかったし、そんなポピュラーな曲を聞いて楽しむなんて、私は全く経験したことはありません。」

朝代は、それが一般的な音楽学校の生徒だとおもっていたのである。音楽学校というところは、そういうところなのだ、クラシックや邦楽など、地元のそこいらにいる学生とは違うのだということを見せつけること。それが、音楽学校生の使命だと家族に言われていた。だから、音楽学校に行ってもひっきりなしに勉強をして、一切遊んだりすることはしなかった。そういうことはやってはいけないと思っていた。

「そうなの。なら、音楽学校に行っても意味ないわね。あなた、ひどい勘違いだわ。それでは、音楽を学んだのではなくて、古典箏曲のみを学んできたのね。そんなものならったって、何の価値もないわよ。それよりも、今の音楽学校卒者に求められるものは、音楽を知らない人に、わかりやすく伝えることじゃないかしら。今、与えられている教材をこなすだけじゃ、とても優等生とは言えないわね!」

野田良子は、ほかのメンバーと一緒にカラカラと笑っていた。そんなバカな、あたしは、とても優秀な成績で卒業したはずなのに、なんでこんなこと言われなければならないの!と朝代は思った。そして、野田良子が、自分を無視して、ほかのメンバーと、ロックの話をし始めたところに、驚いてというか怒りが生じてしまった。なんで、私は、一生懸命やっていたはずなのに、なんでみんなこんなことで楽しめるの?そこで、初めて、野田良子に対して、殺意が現れたと思った。

「そうだったんですか。実は、僕の友達にも、そういう人がいました。彼もやっぱり、出身身分が違いすぎていて、音楽をやっていても、誰も彼のことは相手にしなかった。彼自身も、ピアニストとして、演奏はしましたが、やっぱり友達に巡り合わなかったことで、無理をしてしまったんでしょう。今は、もうボロボロです。彼も、あなたと同じように、たった一人で、音楽の研究を続けておりました。」

と、蘭は、彼女に言った。

「あなたも、そうだったんですか。音大で課されたものをやるだけで精いっぱいで、それ以外のことにまったく関心を持てなかったんですか?」

蘭が聞くと、彼女は静かに頷いた。

「ええ、服装とか化粧とか、そういうものにも無頓着でしたし、そういうものをしていて、教師に取り上げられたりしているのを見ると、あたしのほうが正しいって思いこんでしまって、まさかそういうことをしている人たちに、あたしが負けるとは、夢にも思いませんでした。学校では確かに模範生みたいなところはあったけど、社会に出たら、無駄だとおもっていたものが当たり前であるなんて、どうしても、許せなかったんです。だって、私にとって、そういう行為は悪いことでしたし。それよりも一生懸命勉強して、学校の指示していることをちゃんと守って、学校の勉強にいそしむことこそ、一番正しいと思ってたから。それに、音楽学校と行っても、ほとんどサル山のような教室もありましたから。」

まあ、彼女のいうことは、音楽学校ばかりではなく、通常の学校でも起こりうることであった。勉強を一生懸命しても成功することはまれというか、そうなる確率は極めて低いのであるが、学校の教師というのものは、勉強しかやらない生徒にしてしまおうとするので、そこの加減が難しいのである。

「まあ確かに、勉強していれば、親も喜ぶし、学校の先生もえらいと言ってくれるし、それさえやっていれば、世の中うまくやっていけると思うように、周りの大人はしますよね。」

と、蘭はそれだけ言った。

「そして、余分なことをしていると、手のひら返るように怒鳴りますよね。ほんとは、その余分なことのほうが、意外に重要だったりするんですがね。」

「ええ、私は、野田良子さんや、ほかのメンバーと出会ったことで、それで初めて知ったんです。そのことを。」

と彼女はそういった。

「そうですね、気が付くのが遅すぎたのかな。でも私は、これまで一生懸命勉強することによって、教授やほかのひとたちに褒めてもらうことを生きがいとしてきました。その人たちが嫌っていたものが、まさか普通に使われているとは、思いませんでした。だから、それですごく戸惑ったんです。あたしが、今までやってきたことは、間違いだったんだって。」

「まあ確かにそうですね。そっちの方が大事だって、大人の人は気が付かないんですよね。僕の友達も、たぶんそうだったと思います。きっと、大人の人が喜ぶから、ゴドフスキーなんて言う世界一難しい作曲家の曲を弾きこなすまでなったけど、そういうことで、逆に同年代のひとと交流はできなかったと思います。」

と、蘭は、そういうことを言った。

「きっと水穂さんも、今頃くしゃみしているだろうな。」

と、華岡が、ぼそりとつぶやく。

「それでね、彼もそういう風にして長らく孤独な人生を歩んできましたが、今、床に伏していて、やっと、心から看病してくれる人が見つかったという感じなんです。あなたも、今こそつらいかもしれないけどね、きっとあなたのことをわかってくれる人はできますよ。だって、あなたは、もう以前のひとじゃないじゃありませんか。」

と、蘭は彼女の腕に彫った、ガーベラを顎で示した。

「それがあるんですから、あなたはもう音楽学校にいた時のあなたじゃありません。野田良子さんに恨みを抱いた時のあなたでもありません。大事なことを忘れないで、しっかりと罪を償って下さい。」

「はい、、、。」

彼女は目にいっぱい涙を浮かべてそういうことを言った。

「入れ墨というのはね、やくざの象徴でもなんでもありません。以前の自分にさようならして、新しい自分になるための道具。僕の師匠がね、毎日のように言ってました。入れる前の自分には二度と戻らないんだって。刺青師は、その手伝いをするのが役目だって。」

蘭は、そう彼女に言った。

「先生は、すごい師匠につかれましたね。」

と、朝代は、そう彼に言う。

「やっぱり、先生は、そういう師匠に会えたから、そういう人間になれたのであって。私は、周りのひとと言えば、ただ、がり勉を促進するような人たちばかりしか出あっていませんもの。」

「いや、大丈夫です。あなたにはそのために時間というものがあるんだ。それに、さっきも言ったでしょ。入れる前の自分には二度と戻らないんです。入れ墨とはそういうもんです。」

蘭は、できるだけわかりやすく言ったつもりだったが、彼女がわかってくれたのか、それは不詳だった。でも彼女は、にこやかに笑って、

「先生に出会えてよかった。」

とだけ言ったから、理解してくれたのだろう。

「じゃあ、事件のことを話してくれるな?」

と、華岡が朝代に言った。

「事件の時、どういう動きをしたのか。具体的に詳しく話してもらえないでしょうか。」

「ええ、あの事件を起こした動機は、野田先生の一番大事なものを取ってやろうという気持ちからだったんです。だって、野田先生は、家事とか全部あの鳥居さんにやってもらっていた。だから、鳥居さんを消してしまえばいいと思って。」

と、彼女は語り始める。

「野田先生は、私が、普通に家事とかやっているのを、バカにしていました。そんなことやっても何の金銭的な価値にもならないと笑っていました。だから、それをやってくれる人を消してしまおう。そう思って犯行に及びました。」

「じゃあ、鳥居信子さんを殺害したのは?」

「ええ、ただ、田子の浦港に用事があっていきたいと言っただけです。鳥居さんは何も抵抗はなく従ってくれました。そして私は、睡眠剤の入った飲み物を飲ませて、鳥居さんがその場で動かなくなったのと同時に、海へ投げ入れました。後は、もう、どんどん帰ってきてしまって。鳥居さんがどうなっていたのかとか、そんなこと私は知りません。」

と、静かに答える彼女に、

「鳥居さんは、そんなにあなたのことをバカにしたりしていたんでしょうかね?」

と蘭は聞いた。

「僕はむしろその逆であったような気がするんですが。」

それを言うと華岡もそうだなあといった。

「うん、俺もそう思う。だって信子さんは、君に、お茶をくれたりしていたんだろ?野田良子と一緒になっていたなら、そんなことしなかったはずだと思うんだけど。」

「でも私、野田先生のこと、好きじゃなかったし。」

彼女がそういうと蘭は、

「うん、その気持ちはわかります。でも、今の自分は違うんだってことをもう一回考え直してみてください。」

と、再度言った。

「ええ、、、。」

「どんな時だって、人をやるということはいけないことでしょう。そりゃ確かにつらかったかもしれないけど。あなたがしでかした一番の間違いは、世界のみんなが敵に見えてしまったことですね。世の中には、必ず味方になってくれる人は現れるものですよ。僕の友達もそうだった。でも彼の場合は、歴史的な事情があって、個人の力ではとても変えることはできなかったんです。それを解決するには、日本の歴史を変えなきゃならないからです。でも、あなたは、そうではないんだ。しっかり、意識さえあれば、いくらでも歴史は変えられる。どうか、そこを思い直して生きてください。」

蘭は、彼女に懇願した。いくらかわかってくれるといいなと思いながら。

「どうか、そのガーベラを、半端彫りにはしないでくれよ。いつかこっちに帰ってくることができたら、必ず蘭のところに行って、仕上げしてもらってな。」

華岡は、彼女の腕に入れられた、ガーベラを静かに眺めて、そういうことを言った。

「そして、もう、以前のあなたとはきっぱりさようならしてください。」

蘭はそう、彼女に言った。

「わかりました。あたしは、大きな勘違いをしてしまったようです。まだ、広い世の中を知らな過ぎたのかもしれない。そのためなら、私は、生きようと思います。」

無理やり言っているのか、それとも心から納得したのか、顔つきからではちょっと判断できない感じだったが、少なくとも彼女の口からそういう言葉が出たので、それは間違いないだろう。蘭はそう思った。

後ろで、華岡が思わず涙をこぼして泣いている。なんだ、感情的になるなといったのはお前だろと、蘭は言いたかったが、それはやめておいた。

「ええ、その通りだと思います。あなたにも、きっと今までの自分が間違っていたと分かるときが来るでしょう。その時に、それをちゃんと受け付けられるように、古いものを捨てなければ新しいものは入らないということを覚えておいてください。」

蘭は、静かに言った。

「ありがとうございます。先生。あたし、先生のガーベラがあるから、生きていけます。」

と、にこやかに笑う彼女に、もう二度と、そんな自分や他人を傷つけるようなことはしないでくれよな、と蘭は、ふうとため息をついた。

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天国への階段 増田朋美 @masubuchi4996

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