ケースA-2 金の輪
流れ込む水。減っていく空気。空かない扉。響く金切り声。
──ゴボゴボッという水音に続いて、声はくぐもった音に変わる。塩辛い。不自然に緩慢になった時間の中、無限に続くかと思われたそれも、いつの間にか止んだ。どこまでも沈みゆく中、緩やかになりすぎた時間が、そこで止まってしまったかのように──
力なく漂う妻と娘の姿が、網膜に焼き付いていた。
……ぼんやりとした思考の中、うっすらと目を開く。日の向きが変わったのか、大穴から差し込む光が眩しい。腕で目を塞ぎ、光を遮る。急激に光を失った目の奥で、浮かび上がる──焼き付いた光景の、妻の見開かれた虚ろな瞳と、目が合った。
……いや、そんなはずはない。あれはただの悪夢だ。現に、ここに俺はまだ生きている。……しかしだ、雲を突き抜けるほどの大樹、そして
などと思案していると、思い出したかのように、電撃のような痛みが足を襲った。たまらず飛び起きたが、そこに左足はなく、膝の傷口は、まるでそこに足などなかったかのように、綺麗にふさがっていた。
「よくもまぁ、ぐっすりおねんねできたもんだ。男ならあまりレディを待たせるもんじゃないと思わないかい?」
飛び起きた俺を見て、彼女──赤髪の
それはさておき、彼女は手にしていた竹刀で俺の頭をペシッと叩く。……竹刀だって?いや、確かにスパルタ教師っぽいなとは思ってはいたが。これから一体どんなお仕置きをされるのかを考えると、少しドキドキした。
いや、そんな事を考えている場合ではない。いきなりのバッドエンドは回避できたように思えるが、俺の記憶が正しければ、彼女は間違いなく危険分子のはずだ。……だが、やはり俺はまだ生きている。そう考えると、まだ活路が残されている可能性は十分にある。こうなったなら、もう回りくどい話はナシでやってみるのもアリではないだろうか?
「なぜ俺のことを食べないんだ?」
「おや、それは『食べてもいい』って言ってくれてるのかい?」
「い、……」
ドストレートにボールを投げすぎたようだ。人を食ったような態度で、意地悪くニヤニヤわらう彼女は、こちらから出てくる言葉を待っていたようだが、押し黙ったまま言葉を紡げない俺に飽きたのか、ハァ、と溜め息をついた。竹刀をポイと投げ捨て、するするっ、と俺の周りを一回りしたかと思うと、俺をとぐろの内側にぎゅっと捕らえる。絞められる直前に慌ててひっこめた両腕は自由だが、腰と腹を包むこの蛇体がその筋力を振るえば、俺の内臓は一瞬で潰れてしまうだろう。
無様な最期を想像し青ざめている俺に対して、彼女はずいっと対面してきた。顔が近い。青ざめるべきなのか、赤面するべきなのか、もはやわからない……思わず目を逸らす俺に対して、彼女はその蛇体の膨らんだ部分を
「お前も女房と同じ所へ行きたいだろう?……多少は
……は?女房?
困惑している俺をよそに、こう続ける。
「何の魔力も宿せない
彼女は俺の左手を掴むと、薬指に光る
静寂の中、下半身を蛇体に拘束され、左手を掴まれたまま──どれだけの時間、見つめあっていたか。相変わらず薄ら笑いを浮かべていた彼女だが、ついに興味を失ったのだろう。とぐろを解くとゴロンと寝転がった。
「せっかく竹刀も持たせてやったのに、全く……お前、どれだけ臆病なんだい?面白くないねぇ」
そう言われて気が付いた。無意識に拾ったのだろうか、俺の右手は、しっかりと竹刀を握っていた。だが、決して怒りで凶器を振るおうと思った訳ではないし、臆病でそれができなかったわけではない。まぁ、そうだったとしても、使えるのが片足だけでは、踏み込みが足りず大した威力も出ないだろう。俺は驚くほど冷静だった。
「一つ訂正させてくれ。俺はあんたに危害を加えるつもりは毛頭ない」
「おやおや、怒っていないのかい?」
「最期の姿を拝めなかったことは、まぁ多少は心残りではある……が、あんたは妻を殺した訳ではない。そうだろう?」
「……何故そう判断したんだい?」
飽きた
「まず、あんたはラミアだ。そして、俺の持っている知識では、ラミアには2種類ある。生き血を吸うタイプと、獲物を丸呑みするタイプだ」
「吸血?ンン、私はそんな奴は見たことないが……お前の女房を、頭からバリバリ齧った可能性はないのかい?」
吸血の線は元から考えていなかったが、完全に除外してよさそうだ。俺は彼女の腹──膨らんだ蛇体を一瞥して、こう返した。
「もしそうなら、そんな風に一部分だけ膨らみにはならないハズだ」
「ふむ、なるほどねぇ。そう言われればそうな気がするよ」
そして、いささか乾きつつある、血塗れの床を指さし、俺はこう続けた。
「つまり、俺にしても、妻にしても、あんたがわざわざ傷つけて、血を流させる理由が無いハズなんだ」
「……フフ、なかなか面白い発想だねぇ。じゃあ、その怪我は一体だれが負わせたものなんだい?」
この小馬鹿にしたような反応が、『それは正解ではない』という意味ではないことを祈りたい。
「最初に、俺のことを落ちこぼれと呼んでいたよな?確かに、俺は勉強ができるほうではなかったが、そんなことあんたが知る由も無いハズだ。……そして、ここは雲を突き抜けるほど高い樹の上。つまり──」
俺は人差し指をピンと立て天井を示しながら、バカげた結論を述べる。
「落ちこぼれ達は、空から落ちてきたんじゃないか?恐らく、怪我はその時に──」
突然、彼女がポン!と手を打ち、俺は思わず口を止める。……そして数秒固まった後、彼女はこう呟いた。
「なるほど、それで『落ちこぼれ』だったのかい」
猫の器 -(裏)- そくほう @foottreasure
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