第21話 英姿颯爽

 水中を漂った気泡が水面みなもでぱちんと弾けるように、頭の中にある一つの考えがひらめいた。朔也さくやは素早く顔を上げた。


 確信を得るために動く。朔也は手を伸ばして、コンクリートに刺さった手裏剣を一枚引き抜いた。


「……軽い」


 かつての忍者が所持していた手裏剣は、重量がある上かさばるため、一度に三、四枚程度しか持ち運べなかったらしい。それを踏まえて考えると、ナットの扱うものは格段に軽量化されていた。足りない威力はスピードでカバーしているのだろう。やいばに毒が塗られている可能性もある。


 熱風が吹き過ぎる。朔也の頬を一筋の汗が流れ落ちる。


 彼の身軽な動きに対して、この重さなら……


 辺りを見回す。街灯や外壁、道路に刺さる武器の数は目視できる限りでもとうに十を超えている。


 この方法なら、上手く行くかもしれない。


「なあ、お前。何でさっきから、そんな高い所にいるんだ?」


 朔也はぎこちなく口の端を上げ、ナットを見上げた。


「ああ、そうか。俺が怖いんだな? 所詮はお前も、俺たち肉食獣にとっては餌に過ぎないんだからな」


「俺たち?」


 ナットの眉がぴくりと動く。かかったな、と朔也は目を細めた。


「ああ、そうだ。俺と――そこに倒れてるお前の相棒だよ」


 朔也が言い放った途端、ナットの瞳に激しい怒りの炎が上がった。


「それだけは言うな……!」


 今までとは形相ぎょうそうが違う。この話題が彼のいわゆるなのだと朔也は悟った。


「僕がユーリの餌? 侮辱ぶじょくもいいところだ! お前に何が分かるっていうんだよ!」


 たかぶる感情に任せて、一枚の手裏剣が一直線に風を切って飛んでくる。朔也は素早い動きでそれをかわし、言葉を重ねた。


「自分が獲物じゃないっていうのなら、証明してみせろよ」


 機敏な動きを繰り返しながらナットを挑発する。


「うるさい! うるさいっ!」


 ナットは目を血走らせ、次々と攻撃を繰り出した。


 高速で打たれる手裏剣が街を破壊する。先ほどまでとは逆の鬼ごっこをしながら、朔也は襲来する刃物を避けていった。


「僕はそんなんじゃない! ただ食べられるだけの被食者なんかじゃ――」


 ふいに、ナットの動きが止まった。


「どうした? もう終わりか?」


 十分な距離を置き、振り返る。

 彼はふところに手を入れたまま固まっていた。怒気で紅潮していた顔は今や青ざめ、両目は信じられないと言うように大きく見開かれている。


「嘘……でしょ」


 ナットの手がゆっくりと抜き出される。その手には、何も握られていなかった。


 計画通りだ。朔也は心の中でガッツポーズをした。


 ナットの武器のこと。遠距離から攻められるという利点を持つ飛び道具は、反対に消耗品であるという欠点がある。持てる武器の数は無限ではない。故に、ナットを挑発し、激昂させ、武器を消費させる。


 それが朔也の考えた、作戦とも言えない思いつきだった。


「けど、まさかこんなに上手くいくなんてな」


 朔也は額の汗を拭った。

 敵の手札は、完全に尽きたのだ。


「僕、められたってこと……?」


 ナットの頬を冷や汗が伝う。鮮やかな瞳にあふれんばかりのおびえが満ち、


「いっ、嫌だ!」


 形勢が逆転したことを嫌でも理解したのだろう。彼は瞬時に変化へんげし、闇雲に駆け出した。


「逃がすか!」


 朔也も小さな狩人へと姿を変え、ナットを追う。勝負がつくのに、それほど時間はかからなかった。


 曲がった街灯の上で、猫はリスに飛びかかった。真っ逆さまに落下する二匹。


「うぐっ……」


 衝撃を和らげるため寸前で変化へんげを解いたナットの体を、同じく人間の姿となった朔也が取り押さえる。


足掻あがいても無駄だ」


 朔也はナットの首筋に向けて素早く手刀を下ろした。うめき声を上げる間もなく、ナットは昏倒した。


 埃っぽい空気がゆったりと流れる。辺りに聞こえるのは、朔也の荒い息遣いだけだった。


 猛暑の中、全力を駆使して戦った疲れと、アドレナリンの分泌による興奮状態で感じていなかった痛みとが一気に押し寄せ、少しでも気を抜いたらその場に崩れ落ちてしまいそうだった。


 だが、まだだ。まだすることが残っている。


 鉛のように重い体に鞭打ち、朔也ははやてのもとに急いだ。早く彼のところに行かなければと思うのに、上手く走れないのがもどかしかった。


「颯さん」


 かたわらに膝を突き、そっと頬に触れる。温かい。朔也はほっと息を吐いた。呼吸も安定しているようだ。


 通りの向こうからサイレンの音が近づいてくる。通行人の誰かが通報してくれたのだろう。あとは彼らに任せよう。


 朔也は手負いの戦士を道の端に運び、上着を脱いで彼の体にかけた。ひどい怪我だった。肌は裂傷にまみれ、自慢の服もあちこち破けてしまっている。しかし彼の場合、おそらく心的な傷の方が深いのだろう。彼の異名、「無血の戦闘員」――血を恐れ、相手を傷つけずに戦う颯。彼にとって変化は――スカンクは、もう一つの自分であると同時にお守りのような存在でもあるのかもしれない。


 自分はどうだろう。俺にとって、猫の自分とは何なのか。一段高くなった歩道の端に膝を抱えて腰掛けながら、そんなとりとめのないことを考えてみる。


 沈みかけた夕日が二人を照らしている。暑さはほのかに和らいだように思われ、心地良い風が髪をなびかせて流れていった。


「ん……」


 蚊の鳴くような微かな声だったが、朔也の耳にははっきり聞こえた。


 力なく地面に垂れていた指先がぴくりと動く。まぶたが小さく震え、颯の目が薄く開いた。


「颯さん!……よかった、目が覚めたんですね」


 颯は黙ったまま片手を伸ばし、顔の上に落とした。夕日に照らされて、指輪が涙のように鈍く光る。まだ恐怖心やショックが抜け切っていないのかもしれないと思い、朔也はそれ以上何も言わずに彼を見守る。


「みっともねぇとこ見せて悪かったな」


 パトカーのサイレンだけが遠く響く中、手の下からぽつりと声がした。朔也は顔を上げかけたが、迷った挙句また膝を抱えて目を伏せる。


 もやもやとした思いが胸中に渦巻いていた。気がついたときには口に出していた。


「俺……さっきユーリに殺されそうになったとき、自分が弱いことを不幸体質のせいにしたんです。何もかも上手くいかないのは体質だから、自分のせいじゃないんだって」


 とにかく彼にそんな風に言ってほしくなかった。上手くまとまらない言葉を懸命に繋げてつむぐ。


「でも、颯さんの戦っている姿を見て恥ずかしくなりました。俺は間違ってた、なんて馬鹿だったんだろうって」


 自らのかせに抗いながら、その身をていして誰かを守る。あのボロボロな後ろ姿が、誰よりも何よりも頼もしく輝いて見えた。彼の一挙手一投足から目が離せなかった。


 こんな風になりたい。心からそう思った。


「みっともないなんて言わないでください」


 ザッと地面を踏みしめて立ち上がり、朔也は颯をまっすぐ見下ろした。激しい疲労を隠し切れていなかったが、オレンジ色に染まったその顔は穏やかに微笑んでいた。


「颯さんは、すごくかっこいいです」


 彼は絶句したようだった。唖然あぜんとしたその顔が、みるみる赤くなっていく。


「なっ……褒めても何も出ねぇからな!」


 再び腕で顔を隠し、そっぽを向いてしまう。髪の隙間から覗く耳はこの夕日に負けないくらい真っ赤で、朔也はくすりと微笑をこぼした。


「そろそろ行きましょう。歩けますか? 肩貸しますよ」


「ああ、悪い」


 ぐうーっと盛大に鳴った腹の音に、颯が目を見開く。今度は朔也が顔を赤らめる番だった。


「すみません……俺です」


「そういや俺ら、昼飯食ってなかったな。ぱーっと牛丼でもかっこみたい気分だ」


 寝る前に食べたクロワッサンの味を思い出していると、あっと思い出した。


陸斗りくとさんのメロンパン……」


「しゃーねぇ。後で一緒に怒られようぜ」


 颯が言い、二人はいたずらを親に隠す子どものようにくすくすと笑い合った。


 帰ろう、『ブレーメン』へ。――我々の居場所へ。


 影法師がふたつ、長く長く伸びていた。

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ブレーメンの特殊部隊 有坂瑠利 @ruri_arisaka

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