風が吹けば春が来る
藍色
風が吹けば桜が散る
足が急に前に出なくなり、思わずつんのめる。
靴紐がほどけている。しっかり結んだはずなのに。
靴紐を結ぶため屈み込むと、桜の花びらが落ちていた。
花びらが風に舞う。
目で追うと、大きな桜の木が生えていることに気がついた。
全く気が付かなかった。こんなに立派で、堂々としている桜の木がすぐ近くにあることに。そして、季節の移り変わりにすら意識が向かない自分がどこか情けなくなる。
そんなことを考えながら靴紐を結んでいると、見知らぬ女性がぶつかってきた。慌てふためき、謝っているのか、やっぱり慌てているだけなのか、よくわからない彼女の様子を見ていると、肩の力が抜けた気がした。
仕事を終え、夕飯の材料と安い発泡酒(ときおり高めのビール)を買い、家に帰る。
特別何かあるわけではないが、まあ満足している。
いや、満足だと思っていたそれが、諦めと疲れからくる麻痺であることに、今朝気づいてしまった。数年ぶりに刺激が欲しくなる。
何をしようかと考えるが、何も思いつかない。
つくづく自分のつまらなさが身にしみるが、無理もない。ほとんど代わり映えのしない日々を数年に渡り続けてきたのだから。
――そうだ、あの桜を見に行こう。
買い物の帰りで、少し遠いが仕方ない。
歩く労力よりも、自分の心を動かしてしまったその桜をもう一度見たいという思いの方が強いし、何よりつまらない自分がやっとのことで思いついたのだ。
近くに桜の名所があるせいか、満開の桜の下に人はいなかった。
少し迷って、近くのベンチに座り、発泡酒の缶を1つ取り出し、開ける。
――せっかくなら美味いビールを買っておくんだった。
はっきり言ってしまうと、それほど感動はしなかった。綺麗だとは思うが、それなら近くの名所に行ったほうが良いと思う。
だが、今日久しぶりに季節を思い出した自分にはこのくらいが丁度いいのかもしれない。
そうだ、今度は久しく会っていない友人と花見にでも行こう。
そう思って、高校の同級生に連絡しようとした、その時。
強い風が吹いた。
花びらが風に舞う。
手を止め、携帯をしまう。
無理に今年のうちに、すぐに散ってしまう桜を見に行かなくてもいいじゃないか。それに、季節だって春しかないわけじゃない。
また来年、見に来ようと、そう思った。
来年はもっと立派な桜を見に行こうか。誰を誘ったら良いだろう。一人で行くのもそれはそれで良いかもしれない。
そうして、一本だけの桜を後にする。
足が急に前に出なくなる。今日はよく靴紐がほどける日だ。
屈み込むと、足元には桜の花びらが散らばっていた。
花びらが風に舞う。
心は不思議なほど軽くなっていた。
風が吹けば春が来る 藍色 @ai_iro
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