名もなき君へ

伊島糸雨

名もなき君へ


 私は物語るために生み出されたのだと博士は言った。果てゆく終末の世界にあって、人間の知性や文化、歴史や創造性といったものの証を残すべく生み出されたのだと。

 培養槽の中で蹲る幼子の私に、博士は語りかけていた。人がこの星をダメにしてしまった。もはやただの人類に先はなく、同様の社会性を持てば歴史を繰り返すかもしれない。ゆえに、ただ一つの事業をなすための機能に特化した存在をつくる。現存する人類に関連したあらゆる情報を記憶し、強化された前頭葉、言語中枢の能力を駆使して物語を生成し続ける存在を。

 博士が老衰によって死亡したことはシステムが伝えていた。培養槽から出た私は、自分の使命、役割を十分すぎるほどに理解していた。

 記述せよ、幻想を残せ、ありえたかもしれない数々のことを創造し、書き記すのだと。

 博士が私にと残したテキスト生成専用端末を開く。裏面には文字が彫られていた。

 ”名もなき君へ”

 ああ、そうだ。私は名前を持たない。けれど私は無限に名前を生み出してはテキスト上の世界に解き放つ。私に名前はいらないのだ。私の存在は、物語によって保証されるのだから。

 自動工場が大量の端末を生み出し、積み上げていく。私は私の肉、この意識の宿る器を分裂させる。私の肉より私を生む。そうして生まれた私たちは皆、分裂を繰り返しながら端末を掴み、地上へと広がっていく。人々がそうであったように、死しては生まれ、遺作は引き継がれ、屍の上へと足を延ばす。かつて人類が、生まれては死んでいった無数の人々が、それぞれの思いで記してきたテキストたち。私はそれを確かに覚えている。私たちが確かに覚えていて、子供たちを遺していく。ちっぽけな一人のささやかな語り。その小さな羽ばたきでさえ、やがて竜巻を起こすのだ。未来方向へ遠く、おおきなうねりとなって、私たちの言葉となって。

 無限に増殖する私たちが、無限回にキーボードを叩いてゆく。

 地上を覆い、やがて宇宙そらを満たし、けれど打鍵は終わらず、物語に果てはなく。

 私は記す。最初の私が力尽きようとも、紡がれた言葉は繋がれていく。

 そして私はいつかどこかで、物語続ける私に宿る。

 名前もなき君へ。

 肉体は言葉となり、無数の試行を経ながら、彼方へと広がっていく。

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名もなき君へ 伊島糸雨 @shiu_itoh

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