最終話  ―雪を溶く熱―

 家の外から漏れ伝わる喧騒はますます大きくなり、先ほどからヘリコプターの羽音が聞こえている。それらが何をしているのか、興味は持てなかった。

 無音のリビングの中、美冬は敢えて時計も装着端末I-パルも一度も見ることなく、じっと膝を抱えていた。東京、あるいは札幌でまとめられた情報など受信しなくとも、今やここが最前線なのだ。


 せめて気を紛らわせるためにテレビをつけた。だが能天気なバラエティ番組はやがて重苦しい緊急ニュースに切り替わり、美冬はいよいよ逃げ場を塞がれた気分になる。

 入手した情報が乏しいのだろう、場と尺を持たせるため、キャスターは何度も同じ説明と、同じ映像を繰り返した。


『……繰り返します、この時間は緊急ニュースをお伝えいたします。本日17時17分頃、北海道■■市周辺の■■特別指定封域内の特定熱源体観測モニターに、表面温度の断続的上昇が確認されました。■■特定熱源体地方警戒本部により緊急動静解析が実施された結果……』


『……17時29分より特定熱源体に装着された観測センサーが断続的振動を検知しました。気象庁は、同時刻における周辺地震計による地震動の検知は確認されていないとのコメントを……』


『……本日18時07分に行われた■■特定熱源体地方警戒本部からの通報を受け、榊原総理の指示により官邸危機管理センター内に対策室が設置されています。官邸筋によれば、これらの状況は2026年7月の“四国北西部熱災”の発生直前と極めて酷似した兆候と……』


『……まもなく特別指定封域ならびに隣接自治体に対し緊急避難指示が発令される見通しです。私有車並びに陸路での単独避難は絶対におやめ下さい。避難行動開始後12時間以内に全ての住民を護送できるよう、事前計画は策定されておりますのでご安心ください。どうか無秩序な行動は避け……』



 右耳から左耳へ抜けていくニュース音声に沈みながら、美冬はまどろむように考えていた。

 もし、謎のツノが隕石に乗って落ちて来なければ。よりによってこの町に生えることがなければ。何かが変わっていたのだろうか。


 ツノさえなければ、少なくとも彼女の父親が『氷棺』で亡くなることはなかったし、美冬が頑なに町に残り続ける理由もなかった。

 2026年に起きた四国北西部熱災の2年後。急ピッチで建設された『氷棺』が無事竣工し、本格稼働を控えた最終調整が行われていた。美冬の父も現場担当者として『氷棺』内部で作業にあたっていたまさにその時、ツノが活性化の兆候を見せたのだった。

 報告を受けた警戒本部――その本部長である秋人の父は、厳しい選択を迫られた。『氷棺』を即時稼働させ、緊急冷却措置を行えば封じ込められる。しかし、稼働直前まで作業にあたる作業員数名の退避は間に合わない。

 この時、現場作業員たちは、即座に運命を受け入れた。この町を四国の二の舞にするわけにはいかない、我々に構わず直ちに緊急冷却を――そう、自ら進言したのだった。

 かくして、『氷棺』による緊急冷却が実施された。ツノの表面温度の上昇は無事67分目にピークアウトを迎え、以後『氷棺』は13年間に渡る絶対のかんぬきとして、ツノが暴れ出さないよう、じっとだき抱えてきたのだった。


 こうして、命と引き換えに、美冬の父はこの町を護った。

 だが、どうしてそんな勇敢な決断ができたのか。美冬の父は、何から何を護ろうとしていたのか。美冬にとってそれは簡単にわかるようで、簡単にはわからない難問だった。

 この町を愛する美冬には、ひとつの悲しい実感がある。それは、そう遠くないいつの日か、この町は消え去ってしまうだろうという予感。例えツノが生えなかったとしても、美冬には、それが理屈ではなく肌身としてわかっている。30年前に政府が公表した絶望的な将来人口の推計値を持ち出すまでもない。少しずつ存在が抜け落ちて、衰えて、薄れていくのを、寂れた街角に見出しながら育ってきたのだ。

 誰もが静かに町を出て行く。そうして、熱を少しずつ喪いながら、いずれ町はそっと消えていく。降り注ぐ雪の中に、かき消されていくように。

 そんな町の、お父さんは、何を――?



  ◇



 美冬がはっと気づいた時、窓の外は明るくなり始めていた。ずっと放置されていたテレビモニターは自動的に電源が落とされ、寝入ったように沈黙している。だが、家の四方八方からはテレビよりも騒がしい騒音が打ち寄せていた。


 美冬はふらりと立ち上がり、窓辺に寄った。サーチライトによる強烈な光線が、青く寒々しく灰暗い早朝の空に軌跡を描き、『氷棺』のそびえる方角を幾筋も照らしている。

 美冬はふと、地鳴りのような「ぶーん」とした不穏な微振動を足裏に感じ取った。窓枠に指先を触れれば、ぶるぶるとした振動がはっきりと伝わってくる。

――まさか、ツノの振動がここまで。

 ここで美冬はようやく装着端末I-パルを起動させた。警告、そして警報を知らせるために赤く明滅する無数のプッシュ通知を視界の四隅に認めつつもその全てを無視し、望遠機能により針葉樹林の向こうに微かに覗く『氷棺』方面をクローズアップした。連日連夜の降雪により『氷棺』の周囲に積もっていたはずの雪は、まるで酸をかけられたかのようにじわりと溶け始めており、剥き出しの湿った大地が徐々に拡がっている様子が映し出された。


 その時、手前の針葉樹林の淵をなぞるように、連なって走る数台の車輛が、窓の外のずっと向こうを横切っていった。

――もしかするとあの車輌のどれかに、秋人君やその父親も乗っているのだろうか。それとも、わたしがうたた寝している間に、呆れてもう行ってしまったのだろうか。

 それは美冬には確かめようがないことだった。いずれにしてもまだ時刻は明け方で、秋人が訪ねてきてから10時間ほどしか経過していない。

 秋人の言った通りだった。事態は想像以上に恐ろしい速度で進行している。ただ、彼の無事を祈るばかりだ。



 そして、“産声”が響いた。

 まるで鯨の咆哮のような、くぉーん……という妙に甲高い音が、朝日に照らされる天空を突き刺していった。びりびりとした振動が、美冬の肌を逆立てるほど振るわせていく。

 さらにその咆哮を追いかけるように、何かがべきべきとへしゃげていく音と、数度の爆発音が響く。その度に地震ばりの強烈な振動が、美冬のいる空間を分厚く包み込み始めた。


 ぴしり。

 美冬の目前の窓が突然ひび割れ、水面に張った氷が割れたように亀裂が走った。思わずのけぞった美冬だが、その割れ目の中心をよく見ると、1本のネジの欠片が突き刺さっていた。

――『氷棺』の破片だ。

 美冬は直感的に確信した。根拠はない。が、きっとそうに違いないと思った。

 その瞬間、胸の奥底をじわりと温めながら、熱い笑みがこみ上げてくるのを美冬は覚えた。

 化物の目覚めと共に飛んできた1本のネジ。それはまるで、『氷棺』からこの家に帰ってきたかのようだと思えたのだ。


 そのひび割れた窓の向こう、朝日を浴びて、この町に佇むどの旅館やホテルよりも大きな影が立ち上がっていくのが映っていた。

 首をゆったりともたげ、背伸びをするように直上まで口を振り上げると、最初の産声よりもはるかに大きな咆哮が放たれた。

 冬の道東の晴れ渡った空を突き抜けていくそれは、化物の示威のようだった。己の声を空に撃ち込む雄叫び。その身体から放たれる猛烈な熱風が美冬の家まで吹き荒れた。

 あれが、ツノの正体。まるで醜悪なワニガメのように表情の感じられない屈強な頭部と、白く濁った目玉らしきもの、鉄骨をも容易く断ち切るかに思える重厚な顎。

 加えて、節足動物のように連なった複数の付属肢が、火炎のような土煙を吹き上げながら、1本、2本、3本、4本……と次々地表へ現れていく。ちょっとした岩山に、蟹の脚とカメの頭を取り付けたような、見たこともない生命体が覚醒している。


――大きい。

――あんなに大きいもの、生まれて初めて見た。


 その光景を見つめる美冬の表情は、感動に満ちていた。あたかも海面を大跳躍したザトウクジラを目の当たりにして、圧倒されたかのように。

 自分でも不思議なぐらい、恐怖は感じなかった。絶望も感じなかった。その訳は、実感にほんの少し遅れて美冬に訪れた。


――ああ、『氷棺』が破壊されたんだ。


 13年もの間、あの忌々しいツノを封じ込めていた『氷棺』。

 ツノもろとも、大好きだった父の亡骸を封じ込めていた『氷棺』。

 この寒冷な消えゆく町を鎮護するシンボルであり、父の悲しい墓標でもあった『氷棺』。

 秋人にとって、結果的に自分の父と自分の無力を責め立てる存在となってしまった『氷棺』。

 

――わたしをこの町に縛りつけたもの。

――お父さんのたましいを、あそこに縛りつけたもの。


 それが今、木っ端微塵に、完膚なきまでに粉砕されたのだ。

 あの大きな、大きな――宇宙の果てからやってきた雄大な生き物が、何よりも強い熱源体が、何もかもを吹き飛ばしてくれた。

『氷棺』はもう、ここにない。

 巨大な熱源が、ここにある。


――お疲れ様、お父さん。


 そんな自然なひと言と共に、美冬の眼から涙が溢れ出た。

 

――13年ぶり。おかえりなさい。今までありがとう。


 頬に伝うその筋は、温かかった。

 胸の奥で再び熱が震えて、そこから言葉が、言葉にならない温かさが、奔流のように美冬の世界を覆していく。

 これって、錯乱なのかな? 心の中の冷静な自分がそう問い掛ける。でも、例え錯乱なのだとしても、自分の胸が温かいもので満ちていくのなら、そっちの方がずっと正気なんだと、胸を張って言える気がした。



 次の瞬間、北部方面隊 第5師団を筆頭とする陸海空の自衛隊が、その威信と矜恃、そして鋼のようなプロフェッショナリズムに懸け、総力を挙げた砲撃を開始した。

 激烈な火力、徹底的な猛攻――この国を、国民を護るための気高き暴力の粋が、割れた窓の外を埋め尽くしていく。

 何としても駆除せねばならない。故郷のために。この国の全ての人々のために。世界のために。この星のために。ここに生きる、明日の我々のために。何としても、駆除せねばならない!


 雪が溶けていく。雪は全て、溶けていく。

 美冬はその目を逸らさない。

 網膜を焼き焦がすような炸裂を受けても。

 鼓膜をつんざくほどの轟音を受けても。

 窓ガラスが吹き飛ぶほどの爆風を受けても。


 そして、その一切をものともせず、数多の戦闘車輛をあたかもミニカーのように左右に吹き飛ばし、大気を歪めるほどの灼熱で雪原と針葉樹林を赤く溶かしながら、強靭な熱源体は恐ろしい速度で駆け出した。飢えて死ぬまで、とどまることのない、暴風のような疾駆が始まる。


 自分に向かって真っ直ぐに迫り来るその熱源に、美冬はむしろ抱き締めるように両手を広げた。



 

 ああ、

 雪は全て、

 溶ける。




 ―了―

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