第4話 ―熱源―

「……行かないよ」

 美冬はそれだけを答えた。

 秋人がどれだけ事情や背景を説明したとしても、詰まるところ『町を出るかどうか』が問題なのだ。

 であれば、彼女の答えは初めから決まっている。


「あのな、これだけ言えば、もうわかったろ?」

 頷いてもらえないもどかしさに、秋人は苛立ちを見せた。「町に残る方がおかしい状況なんだよ。同級生で残ってんのは俺とあんただけ、俺はもうこの町を出る。俺の親父も」

「――え? えっと、ちょっと待ってよ」

 彼は――彼の家だけは、この町を離れるわけがない。むしろ離れてはいけないものだとばかり美冬は思っていた。だから、動揺が走った。「だって君のお父さんは、今も警戒本部の……避難指示もまだ出てないでしょ?」

「その警戒本部がもう匙を投げたんだ。肉親ながら情けないね、自分たちだけ一足先に後方退避するってよ」

 秋人の返事には歯軋りも溶け込む。「四国の時は活性化の確認から3日後に本体が出てきたが、今回は3日どころじゃない可能性が高い。だから、親父は俺にさっさと町から逃げろと言ってきた。警戒本部がやれることはもう何もない」

「3日どころじゃないって、じゃあいつなの?」

「最短で20時間後だと」

 美冬は装着端末I-パルから時刻を確認した。今は19時9分。20時間後であれば、明日の夕方がリミットだ。「――それだって四国熱災基準の手法で解析された結果だ。今回のケースでどこまで信じられるもんだかな。いずれにしてももう時間の問題だ、この町は終わる。全部、無くなるんだ」


 全部、無くなる。

 秋人がそう口にした時、美冬の耳に飛び込む外の騒音が、一際大きく聞こえた。


 今日も雪が降っている。昨日も雪が降っていた。それが、この■■町の冬の日常だった。

 でも、明日は?

 明日の今頃、わたしはその世界を、こうして見ることができる?


 そんな死のリアリティが脳裏に迸って凍りついた美冬を励ますように、秋人は僅かに希望を灯した声で言った。

「……そこでだ。親父が口を利いてくれて、警戒本部からこの町を出る車輌に美冬の分の席を空けてもらえそうなんだ。姑息だろうが、やっぱり持つべきものはコネと権力かもな」

「それは……わざわざ、わたしのために?」

「ああ、俺たち10人といない同級生じゃないか。ほら、もう立ち話は充分だ、すぐに行くぞ。貴重品だけ持って来てくれ」

 彼は叫んだ。「もう車輛は待ってる。この事態だ、いつまで席を空けておいてもらえるか――」


 

「……薄情だね」



 美冬が冷たく放った一言に、秋人は思わずその場で固まった。

「……薄情、だと?」

 お節介、と言われるならともかく、薄情と言われる意味が彼にはすぐにわからなかった。

 呆然とする秋人を見下ろし、美冬は告げる。

「わざわざありがとう、わたしなんかのために。でも、出てって。わたしは秋人君と違って、最後までここに残る。秋人君のお父さんまでもが逃げ出すのはさすがに驚きだけど……逃げたいのなら逃げればいいよ。別に、これ以上非難するつもりもないから」

「今行かなきゃ、助からないかも知れないんだぞ?」

「今になって離れるぐらいなら、もっと前に離れてるよ」

 突き放すように彼女は言った。「……わたしは、この町のことが好き」

 秋人が目を丸くするのも構わず、美冬は言葉をつなぐ。

「ツノがあるから、暮らしは不自由だし、毎日不安だったし、お店も遊ぶところも何にもなかった。でも、この町の風景や、湖や山の形、風の匂いが好きだった。優しい近所の人たちや友だちがいた。毎日通った学校があった。親がいた頃の記憶も、親がいなくなった後にいろんな人から励まされたことも覚えてる。生まれてから今まで、わたしの思い出は全部ここにしかないの。――それに、『氷棺あそこ』には、まだお父さんがのこってる」

 美冬の声が、微かに震え始める。

「……もう壊れかけかもしれないけど、お父さんはまだ『氷棺あそこ』でツノを封じ込めてくれている。あの日仕事に出かける時に『家をよろしくな』って言われたのが、お父さんの最後の言葉だった。――“そんなつまらないことで”、って思うでしょ?」

 秋人の言葉を先読みするように、美冬は告げた。

「でも、それを全部置いて逃げるなんて、わたしにはちょっとできそうにない。そんなことをしたら、たぶん一生後悔する気がする。明日ここで死ぬよりもね。だからわたしは行かない。――君は元気でね、秋人君」

 そこまで言うと、美冬はくるりと背中を向けて、家の奥へ歩き始めた。


「――お、お前、莫迦か⁉︎」

 彼は一歩踏み出して、奥へ引っ込もうとする美冬の背中に怒鳴らずにはいられなかった。「ここに残って何になる? ただの自殺だ。誰も喜ばないぞ、きっとお前の親父さんも……おい、聞いてんのか!」

 美冬は全く意に介さず家の奥へ、リビングに引っ込み、扉の鍵を掛けた。


 秋人だって、ここで引き下がるぐらいなら、初めから美冬の下を訪ねてなどいない。彼も譲れない意思があるから、ここへ来たのだ。

 急いで靴を脱いだ秋人は、レインコートから廊下に水が滴るのも構わず、廊下へ上がって美冬を追いかけたが、リビング前の扉で阻まれてしまった。


『……美冬、ちょっと聞け! せめて、俺にも本音を言わせろ!』

 扉に嵌め込まれた磨りガラス越しに、秋人は叫んだ。『俺はな、お前と真逆だ。こんな町、大ッ嫌いだった。人も仕事もろくにない、あんなツノがあるせいで何でもかんでも規制、規制、規制。勝手に居住区を区切られて、よその町に行ったらああだこうだ指を差されるわ憐まれるわ、家でボケッと寝てたっていつ町ごと死ぬかもわかんねぇ。この町に生まれてよかったと思ったことなんか、ひとッつもなかった! だけど俺は、こんなひでえ町で、重責を背負って踏ん張る親父を――その使命感を、尊敬していたんだ』


 リビングにこもる美冬はじっと、背中でその叫びを、彼の熱がこもった言葉を聞いた。秋人の話は、美冬の本音とは真逆のところもあれば、通じ合うところもあった。

 しかし、そんな上辺の一致・不一致や、今まで疎遠な仲だったことは、全く重要ではなかった。

 美冬には、剥き出しの言葉を語り始めた秋人の存在そのものが、何だかとても自分の心に近づいてきたような気がし始めていた。

 生まれ育った町が化物によって破滅を迎えようとする前夜、貴重な犠牲の上にその化物を長らく封じてきた『氷棺』を巡る因果、そして同じ町で時間を過ごしてきた2人の再会。それらの要素が織物のように重なり合い、偶然だがどこか必然的に生まれつつある反応。

 それはリビングの薄い扉を挟んで、まるでふたつのそっくりな熱源が、ぼうと浮かんで共鳴しているような――不思議な感覚だった。


『……だから『氷棺』のことも、美冬には申し訳ないけど、町にとっては立派な判断だと思っていた。恨まれることもわかった上で、難しい決断を下した親父のことが尊敬できたんだ。それに俺も憧れて、町に残ってそういう仕事に就いた。――けど、いざ有事になって、総決算の段になったらこのザマだ』


 秋人の乾いた笑いが、静かに響く。


『笑っちまうよな、結局親父たちは『氷棺』で、お前の親父さんたちが命を賭けて稼いだ時間を、全く上手く使えてなかった。んだよ。それなのに、町が一番やばい時に、自分の身内にだけこっそり情報を流してさっさと安全圏へ逃げようとしている。……どうせこうなるんならよ、『氷棺』の犠牲って何だったんだ? 未来を信じて犠牲になってくれたお前の親父さんに、そしてお前に、俺たちはどの面下げて脱出すりゃいいんだ? 俺はもう、今まであの親父の何を尊敬してたのか、わからなくなっちまった。――だけど、すまないが俺もまだ死にたくない。二十歳そこらで、こんなひどい町で、あんなバケモンに踏み潰されて終わりだなんてあんまりだ。……それで、逃げるならせめて、せめて美冬だけは助けたいと思ったんだ』


 秋人の声は震えていた。憤り、情けなさ、忸怩。それらの感情をマーブル状に澱ませながら、まとまらない不安定な出力で、着地点を探しながら、美冬に語り掛けている。

 それは美冬にも痛いほど伝わっていた。


『――美冬、たぶんお前の感じていることは、俺も感じてる。俺だって親父には本当に失望しているし、今だってお前になんて顔向けすればいいかも正直わからない……だけど、俺はただお前を助けたいんだ。自分勝手な罪滅ぼしかも知れない、だけど、どうか、よ! ここで美冬を置いて家族だけで逃げるなんてことをすれば、俺は俺の憧れた使命感を――親父に見出そうとしていた使命感を、自分でも裏切ることになる。そうなりゃ、俺も一生後悔してしまう気がするんだよ……』


 秋人の咆哮は涙混じりで、感情の奔流を精一杯制御して。罪の告白、懺悔とも言うべき、痛みに満ちた言葉だった。

 それを受け止める美冬の背中も、やはり震えていた。目がじわりとし始めたら、もう止まらなくなった。

 リビングにひとり佇み、涙に溺れていく視界の中で、美冬はひとつ確信したのだった。秋人と自分は合わせ鏡のようだと。


――わたしがここに残りたいのは自分の虫が収まらないからだ。でも、秋人もわたしを助けないと虫が収まらない。

――この町への、そしてこの町を導く人々への愛憎を共に抱きながら、その出力方向は反対を向いている。

――わたしと秋人は、たぶん誰よりもお互いのことをわかり合えるはずなのに、どうしようもなく小さく、だけど決定的にすれ違ってしまっている。


 どうしようもなく悲しい、だけどどうしようもなく温かい――胸の奥底で脈動するその熱源を、美冬は感じないわけにはいかなかった。秋人の必死の懇願に応ずるかはともかくとして、彼の言葉は、美冬の熱源を確かに震わせていた。



 答えられずにいる美冬に、秋人がそれ以上深追いをすることはなかった。

『――警戒本部からの護送車は、明日の早朝までは断続的に出るってよ。俺はぎりぎりまで待ってる。必ず、来てくれよ』

 そう静かに言い置くと、秋人は静かに踵を返して玄関へ向かった。



 離れていく気配を扉越しに感じながら、美冬は心がほろほろと崩れていくのを感じていた。

 これでよかったんだ、と自分に言い聞かせることに、精一杯だった。

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