第2話 ―ここでも始まる、もうすぐ―

 窓の外から、恐らくは自衛隊の大型車輌が行き交う音、そして大勢の人々が往来する音がにわかに聞こえ始めた。特別指定封域などという物々しい名に反して平穏だった日常にしては騒々しい。

 何かあったのだろうか。そう美冬が不審感を抱いた時だった。


 示し合わせたように呼び鈴がぽーんと鳴った。来客の予定など美冬は聞いていない。ほとんどの知人友人が逃げ出してしまった町で、誰が独り暮らしの自分を訪ねるのだろうか。

 リビングに戻って、壁面に備わった旧型インターフォンの室内モニターを確認すると、レインコートを被り、大きなバッグを背負った美冬と同年代の青年が立っている。フードのせいで顔がよく見えない。

 インターフォンを通じて「どなたです?」と尋ねると、『光井だ。覚えてるか、小中で一緒だった』とやや粗いノイズ混じりの声が響く。


 光井――その名字を、美冬は確かに小学校、それから中学時代の記憶と共に憶えている。ああ、確かにこいつだけは町を離れないだろう、という勝手な信頼をしていたことも含めて。


 ともかく玄関に向かって2重の扉を開けると、物々しい音と吹き込む雪と共に、光井と名乗る青年がそこに立っていた。

「えっと、光井……秋人君、だよね?」

「そうだ。どうも久しぶり」

 秋人と呼ばれた青年は、雪まみれの分厚いレインコートのフードを持ち上げ、抑揚の少ない、しかしずっしりした低い声で答えた。「覚えてくれてたんだな。あんまり話したことないのに」

 頬肉の落ちた引き締まった顔が現れて、そこには汗とも溶けた雪ともつかない雫がべったりとはりついている。美冬の記憶にある中学時代の彼と比べて、体つきも面つきも随分がっしりとしていて屈強になっているようだった。それでもそれは、中学の頃に美冬が感じていた「ちょっと物静かな男子」という印象を変えるほどではなく、目の落ち着いた輝きは賢さを感じさせるものだった。

 そしてその顔は、どんな冗談を言ってもニコリともしなさそうなほど、真剣そのものだった。


「……あの、さっきから外が騒がしいけど、何かあったの?」

 美冬がまず尋ねたのは、彼の訪問理由よりも外の状況だった。扉を開けた途端に外の喧騒が直接家の中に飛び込んできて、何やらただ事ではない雰囲気があった。

「実はそれを言いに来た」と秋人は静かに答えると、こう告げた。


「美冬、町から出るぞ。すぐに」


 ふざけている風でも、照れている風でもない。秋人の声はただ切迫していた。

「えっと、いきなり、何?」

「まだ誰にも言うなよ。――んだ」

 数回瞬きをした美冬を、秋人はじっと睨んで、さらに続ける。「お前、忘れてないよな? その……、俺の親父が地方警戒本部の構成員だって」

「……うん」

 美冬の顔が、はっきりとかげった。「そりゃあ、覚えてるよ」

 忘れるわけがないじゃん。口には出さないが、そう思った。



 警戒本部――正式には特定熱源体地方警戒本部。熱災特措法に基づき指定された特別指定封域に設置される産官学防から成る現場対応の司令塔だ。防災・危機管理に関する豊富な知見と誇れる経歴を有する秋人の父は、地元代表として長らくそのメンバーに名を連ね、本部長を務めた時期もあった。

 そして、秋人はそんな父から聞いた話をよくクラスで話題にしていた。


――ツノとはどういうものなのか。

――自分たちはどう暮らすべきなのか。

――会議の場で大人たちが雁首揃えて何をしているのか。

――どうしてこの町のツノが、長らく安定的な状態を保ててきたのか。

――いくつもの安全対策。その決定を下しているのが、誰であるのか。


 秋人の持ち込む情報は生々しく、クラスの男女の好奇心を刺激するには充分なものだった。

 だが、それを語る秋人の表情は、決して嬉々としたものではなかったように、当時の美冬には見えていた。特に美冬に対しては、申し訳のなさそうな態度を見せることが多かった。


「今から話すのは、その親父から聞いたことだ。本当はべらべら喋っちゃまずい内容だ。だから、念押しするが、公式発表までは誰にも言うなよ」

「言わないよ」

 美冬には言う相手が思い浮かばなかった。友人はもう皆、町を離れている。秘密を打ち明けて楽しめる人はここにいない。父母でさえも、だ。「――で、ツノがどうしたの?」


 息を吸い込んで、決心したように秋人は口を開いた。

「ついさっき、警戒本部から九条通報が行われたらしい。――“九条通報”って、何のことかわかるよな?」

 美冬は首を縦横どちらに振ろうか、一瞬戸惑った。身近な常識のひとつとしてその言葉ぐらいは知っていたが、即答で説明できるほどはっきり理解しているわけではない。

 それを見た秋人は、首元の装着端末I-パルを人差し指ですっとなぞるように触り、それからトンボの目を回すように指先をくるくる回した。装着端末I-パル間でのデータ共有の仕草だ。美冬の副次視階層サブ・レイヤー上のダッシュボードに受信アイコンが表示されたので接続を許可すると、秋人の見る副次視階層サブ・レイヤーとの同期が開始される。


 そこに映ったのは熱災特措法の第9条の条文と、その発動要件のイメージ図だった。

 要するに、一定時間(目安としては90分間)以上、ツノの活性が認められ、国民への脅威が予見された場合、当該封域に設置された地方警戒本部は、直ちに関係各機関へ通報する――それがいわゆる“九条通報”のあらましだった。

 そして、そのイメージ図の背後から前面へ繰り上がって表示された映像に映るのは、めちゃくちゃに散らかされた都市の悲惨な姿と、火炎の中で恐ろしく機敏に蠢く巨大な影。


「――こんな大規模熱災がここでも始まる、もうすぐ」

 彼はその映像を指し示した。「この、15年前の四国のようなことが。この町で、この場所で」

 美冬は、いささかの驚きと絶望とを感じながら、乾いた笑いがこみ上げるのを感じた。そんなばかな、という気持ちもなくはなかった。

 秋人の言うことが現実に起こるのだとしたら、あまりにも恐ろしいことだからだ。これから始まるのは、世紀の災害になるはずだからだ。

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