新しい恋に踏み切れない
手にしていたリンゴを購入して買い物カゴに入れ、帰路についた時。私を追いかけてくる足音に気づいて振り向いた。
マークが目の前で立ち止まり、膝に手を置いて呼吸を整えている。肩で息をしていることから、全速力で走って来たらしいことが伺える。
「なあ……ニーシャ」
「家までは、本当に大丈夫よ」
「それじゃなくてさ……別の用件で……」
マークの言わんとすることは自ずと分かって、気まずくて視線が彷徨ってしまう。
「えっと……あの……ごめんなさい」
「どうしても?」
一歩近寄ってくるマークの圧に負け、二、三歩後ずさる。
「ごめんなさい。私、あなたとはお付き合いできないの」
これで、断るのは三回目だ。
どうやら、マークは私に初めて会った時に一目惚れをしたらしくてその日に告白を受けた。
その時は、さすがに知りもしない果物屋の息子と付き合うことはできないと断った。何度か会ううちに親しくなって、夏頃に二回目の告白を受けたがそれも断った。
マークが私に好意を抱いてくれているのは嬉しいことだ。
それでも、私は彼の気持ちに応えられる気がしない。
私の中に誰のものかも分からない恋心が居座っている限り、新しい恋に踏み切る自信がなかった。
「そっか……。でもさ、夢の中でしか会えない顔も知らない男なんか、いつまで経ってもニーシャを幸せになんかできない。今、目の前にいる俺なら、ニーシャのことを大切にできる」
マークの、私に対する真っ直ぐな想いを伝える双眸が、痛い。
「……でも……この気持ちを整理できないうちは……誰ともお付き合いできないの。だから、ごめんなさい!」
マークの返事も聞かずに、逃げるようにその場から走り去った。
街灯に明かりが灯り始めた薄暗い町は、外食に向かう人やバレエを鑑賞しに行く人達などで賑わいを見せている。その人の波をかき分けて、できるだけ遠くへ逃げて、逃げて——人通りの少ない森の入り口で足を止めた。
息が切れる。心臓がばくばくと音を立てて鳴っている。
(マークに悪いことをしたわ……私のためを思って言ってくれたのに。前を向きたいのに、夢に出てくるあの人への思いにけじめをつけたいのに……)
木に寄りかかって息を整える。いつの間にか、空からは小さな雪の粒が舞い落ちてきていた。
買い物カゴに入れていたリンゴに白い雪が着くと、瞬時に溶けていく。それがリンゴが流した涙のようにも見えた。
私も泣きたい。捨てることもできない得体の知れない恋心にどう決着をつけていいものか、誰かに教えてほしいのに。誰に聞けばいいのかも分からない。
「どうすればいいの、私」
ぽつりと溢れた独り言を、かき消すような悲鳴が耳をつんざいた。
「やめてよ!!」
「俺にぶつかっておいて、生意気なガキめ!」
悲鳴をあげたのは少年のようだったが、分をわきまえろと怒鳴り散らした声音は私と同じか少し下くらいの男のように聞こえた。
「お前ら、やっちまえ!」
男の命令の後、何人かの足音がしたかと思うと呻くような悲痛な声と殴打する鈍い音が響いてくる。
(誰かが襲われてる? 助けなきゃ!)
かつての私を思い出してしまう。
一日たりとも欠かさず窓を拭き続けていた私に、孤児院にいた子供達は罵詈雑言を浴びせ、バケツの水を頭から被せ、時に拳が降ってきた。
悔しくて、悲しくて。でも歯を食いしばって生きていたあの日の私と、同じ目に遭っているかもしれない。
音のする方へ走っていけば、木々が開けた小さな広間に人だかりがあった。ざっと十人くらいの男達が、寄ってたかって拳を振り上げたり足で蹴り飛ばしてりしている。
「あなた達、何してるの!!」
声を張り上げると、私に気づいた男達が一斉に振り返った。
その男達の足の隙間、地面にぼろ切れのように転がっている少年の姿を捉えた。身なりが良く上流家庭の子供であることは明らかだ。
ピクリとも動かないが、体は浅く呼吸しているようでとりあえずほっとした。
「あんた、誰だ?」
リーダー格の男が前に出てきて、私に威嚇するように睨みつけてきた。体格の良い大男に一瞬怯んだが、少年を助けたいがために勇気を振り絞る。
「そこら辺にしなさい! その子、怪我してるじゃない」
「こいつの肩を持つのか? いけすかねえ女……ん? 赤い瞳って、お前忌子だな?」
久しぶりに聞く忌子という言葉に、心が軋む。町の人達からは好意的に受け止められてはいるが、まだまだ赤い瞳は災いをもたらすと信じてやまない人がいるのも事実だ。
「ちょうどいい。お前ら、今夜はあの女が俺達を楽しませてくれるとよ?」
取り巻きの男達が、にやにやとはしたない笑みを浮かべながら近寄ってくる。
男達の装いや雰囲気からは、道を外れたようなオーラを感じる。つい先ほど、マークが言っていた言葉が思い出された。
——夜な夜な不良少年達が集まって悪さをしている。
きっと、この男達なのだろう。地面に横たわる少年は、不運にも男達の怒りをかってしまったらしい。
少年を見やれば、まだ気を失っているようだ。このまま逃げたら彼はまた袋叩きに合うかもしれない。どうにか少年を助けてあげられないものか、と考えを巡らせた。
徐々に夜も更けていき、木々の間から漏れる月の灯りだけが私と男達を照らしていた。
舞い落ちる白い雪が、突如吹きつけてきた冷たい風に煽られて遠くへ飛ばされていく。
身震いするほどの凍てついた空気が、私と男達を包み込んだ。
「悪戯がすぎるぞ、お前達」
広間を駆け巡る風の音の合間を縫うように、渋い声音が耳に心地良く入ってきて、ドクンと心臓が大きく鳴った。
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