一年後のクリスマス

夢の男

 私は夢を見ていた。

 同じ夢を、何度も何度も。


 闇をも欺く黒い服、紅石ルビーのような大きなリンゴ、舞い踊る白い雪。


 それらは全て不鮮明で、私と対峙している人物の顔はまるで分からない。

 でも、この夢を見て目覚めると、胸がきゅうと狭くなって身体中が火照ってくる。ああ、きっと私はこの人に恋をしているんだ。顔も名前も分からない、本当にいるかどうかも分からない黒い服を着た人に。


 その夢を見るようになってから、一年後。今年もクリスマスがやって来た。


 町を歩けば、聖夜の準備に取り掛かる人々の姿が目につく。ツリーのための木を調達したり、ディナーを彩る食材を買い集めたり。忙しそうだが、皆高揚感に溢れて活気がある。


 露店が軒を連ねる道につくと、人々の視線が私に注がれていた。


「ニーシャちゃん、お買い物かい?」


 魚屋のおじさんが、歯抜けの口に笑みを浮かべてだみ声で話しかけてくる。


「ええ、今夜のデザートの買い出しよ」


「採れたての野菜が揃ってるんだ、ニーシャちゃん寄ってってよ」


「もちろん寄って行くわ!」


 魚屋に負けじと声を張る八百屋の若い主人に、手を振って応えた。


 お父様が描いた『柘榴石ガーネット色の瞳の少女』という絵が発表されてから、周囲の私を見る目が変わった。

 長らく忌み子とされてきた赤い瞳は、実は宝石のように美しいと話題になったから。今では町中の人が顔見知りで、よく声をかけてくれる。孤児院の時に感じた孤独は、もう消えてしまっていた。


 果物屋の露店の前に着くと、恰幅の良い中年の男性が気さくな笑顔を向けて歩み寄って来た。


「いらっしゃい、ニーシャちゃん」


「こんにちは、ビベイルさん」


 膝を折って片足を斜め後ろに引いて、背筋を伸ばしたまま礼をするカーテシーをした。

 お母様からしつけられた通りにやってみたのだが、ぎこちなさはまだ拭えない。ふらふらしながら姿勢を戻すと、それをビベイルさんは微笑ましく見守ってくれていた。


「生憎、マークは買い出しに出てるんだ」


 ビベイルさんに悪気がないのは知っている。その名を聞くと気まずくて、一瞬しかめた顔をしてしまった。それを、毎日たくさんのお客さんを相手にしている商売人であるビベイルさんが見逃すはずがなかった。


「何かあったのかい?」


「い、いえ! 何もないです」


 必死に取り繕って、満面の笑顔で誤魔化してみる。ビベイルさんは首をかしげて「ゆっくり見てってね」と声をかけるとやって来た他のお客さんの対応に追われていた。


 露店に並んでいる果物の中から、白い雪に映えるほどの赤々とした丸い果物が入ったカゴに目をやる。

 リンゴを見ると、胸が締め付けられてあの夢を思い出してしまう。


 胸の高鳴りを抑えつつ、色艶が良く比較的大きなリンゴに手を伸ばした。視界の端に誰かの手が伸びてきて、リンゴを掴もうとした私の手とぶつかった。


「あら、ごめんなさい!」


 横を見やれば、茶色い外套を羽織ったふくよかな女性が、申し訳なさそうに手を引っ込めていた。


「こちらこそごめんなさい、あの、そのリンゴどうぞ」


「良いの? じゃあ、遠慮なく」


 微笑んだ女性は、私が手に取ろうとしたリンゴを掴んでビベイルさんに硬貨を手渡して立ち去っていった。


 手が、胸が、震えている。

 女性の手とぶつかった時、頭の奥に潜んでいた忘れられた記憶が蘇って来た。


 震える手でリンゴに伸ばした私の手を、節くれだった男の手が掴んでくる。驚き見たその先にいたのは、黒い外套を着た男。だが、その顔は靄がかかってしまっている。

 感じたのは、私の手を掴んだ彼の体温。温かくて優しく包み込んでいる。


(あれは、夢じゃないの? 現実のこと? あの男の人は一体何者なの?)


 物思いに耽ていると、私の名前を呼ぶ声に我に返った。


「どうしたんだ? 店先で思い詰めた顔して」


 見上げれば、不思議そうに私を見る同い年の男の姿があった。イエローオーカーの短髪はパーマがかかっている。綿のシャツに紺色のズボンを履いたそばかすが目立つ男は、ビベイルさんの息子のマークだった。


「あ、いえ。なんでもないわ」


 気遣わし気な視線が居心地悪くて、慌ててリンゴに目を移し、適当なものを両手に持った。


「今日はクリスマスだよ? そんな辛気臭い顔してたら、プナイネン•ヨウルプッキにプレゼントもらえなくなるぞ」


 プナイネン•ヨウルプッキ。

 またの名を、聖夜、一年間品行方正を心がけていた子供達にご褒美を贈る、北国の赤い妖精。


 六歳から十七歳の子供達が対象で、十七歳である私は、プナイネン•ヨウルプッキからプレゼントをもらえる最後の年になる。


「私はプレゼントのお願いはしていないの」


「どうして?」


「家族がいて毎日笑顔で過ごせていれば、それで十分」


 さっさと会話を切り上げて家に帰りたかったが、マークは私とまだ話していたかったのか行く手を阻むように立ち塞がってきた。


「ニーシャ、今からひとりで帰るのか? もうじき日暮れだぞ」


「え、ええ」


「家まで送っていくよ」


「マークは、お店があるでしょ? ビベイルさんだって忙しいし、私は大丈夫だから」


「最近、不良少年達が夜な夜な集まって悪さをしているらしいんだ。通りかかった人に暴力をふるったり、金品を奪ったり。食べ物を強奪することだってあるんだ。女性や子供にも容赦なくね」


「へぇ、恐ろしいわね」


 そう言いながら、私の中で孤児院にいた時の日常茶飯事だった暴力が蘇って、酷く体が震え始めた。まだ、私はあの恐怖から立ち直ることはできていない。またいつか、暴力を振るわれる日がくるのではないか、と気が気でない。


「あんな奴ら、黒い悪魔に成敗されればいいのさ」


「ん? それって何?」


「おっと、これはびっくり。民俗学で有名な母親を持ちながら、北国の黒い悪魔を知らないときたもんだ」


 はて、お母様の書斎に北国の黒い悪魔に関する本なんてあったかしらと記憶をまさぐる。

 暇さえあれば書斎にある本を読み漁って、全ての内容は頭に入っているのに、黒い悪魔の記述はどこにもない。あそこには、フィンデル王国の民俗学に関する全ての本が網羅されているのに。


「クリスマスの日、一年の間に罪を犯した子に罰を与える、北国の黒い悪魔。その名前は——ムスタ•ヨウルプッキ」


「…… ムスタ……ヨウルプッキ?」


 会ったこともなければどんな形相なのかも分からない、でも、何故か私の体に馴染んだ名前のように思えた。


 ビベイルさんに呼ばれたマークは、買い出ししたものを露店の奥に運びにいってしまった。


 残された私はぼそりと「ムスタ……」と呟いてみる。

 ムスタ、その名を呼ぶと温かい気持ちで溢れてくるのは、何故だろう。


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