アップルパイ

 ムスタに丸椅子を用意すると、渋々座ってくれた。椅子が小さいからかそれともムスタの足が長いからか、少し窮屈そうに足を曲げている。

 鼻歌混じりにアップルパイを切り分け、四分の一を取り皿に移した。


「どうぞ召し上がれ」


 ムスタは難しい顔をして、切り分けたアップルパイをじろじろ見ている。


「ムスタは、甘い食べ物は苦手?」


「いや。ただ、アップルパイほど食べにくい菓子はないな、と見てただけだ」


 しまったと頭を抱えた。もっと食べやすいものを選ぶべきだった。片手で食べれるリンゴ入りのカップケーキとか、りんご飴とかそんなものを。


「ちょ、ちょっと待ってて!」


 ムスタの前に置いたアップルパイを回収し、急いでパイ生地を引き剥がす。

 せめてリンゴだけでも食べてほしくて、ナイフとフォークを使って躍起になっていると、大きな手が慌てた様子で私の手を掴んだ。一年前と同じ体温で、すぐに絆されてしまう。

 顔を見上げれば、冷酷な顔が少しだけ赤くなっている。照れているのだろうか。


「剥がすことはない。折角作ってくれたんだ、頂こう」


 私から皿を奪うと、ナイフとフォークを動かして一口サイズに何とか切り分け、口に放り込んでいた。


 味はどうだろう。焼きすぎていないだろうか。シナモンを入れすぎたのが仇になっていないだろうか。口に合うだろうか。


 不安を抱えたまま、彼から放たれる第一声を聞き逃すまいと顔を見つめる。

 喉仏が上下し、嚥下した。ムスタは私に目を向けると、ぎこちなく微笑んできた。


「悪くない」


 彼なりの褒め言葉だと勝手に理解して、ほっと胸を撫で下ろした。自分もアップルパイを頬張ってみれば、味は申し分ないことを知る。


 アップルパイを食べている間、会話というものはなかった。この家に養子として迎えられるまでのことや、この家での楽しい生活を一方的に話しているのを、ムスタは頷きながら聴いてくれた。


 お皿が全て空になった頃。

 私は決意を固めていた。伝えなければならないことがある。その為に、今日彼をここに呼び寄せたのだ。

 改めて彼に向き直り、ひとつ咳払いをした。何事かと、ムスタは訝しげに私を見ている。


「あの、まずはあなたにお礼を言いたくて。私を助けてくれて、ありがとうございました」


 深く頭を下げて、そのまま深呼吸をする。心臓がどきどきと脈打ち、口から飛び出そうなほどに躍動していた。

 喉の奥まで迫っている言葉が、今か今かと出番を待っている。言わなくては、私の思いを声にのせて。


「ムスタ——」


「ついてる」


「えっ?」


 ムスタに遮られて、勢いが弱まった。手が伸びてきたかと思うと、私の唇に触れた。

 皮膚の厚い親指と人差し指が、私の下唇の形に沿うように這って、何かを摘んだ。

 離されると、その指の先にパイ生地が摘まれていることを知る。口に食べ残しをつけるなど幼稚だと恥じていれば、ムスタは自らの口に指を近づけ、唇でパイ生地だけを器用に食んだ。


 その様子を惚けたように見ていれば、私の後頭部に大きな手を添えてくる。温もりが頭部を包み込み、心臓が慌ただしく飛び跳ねた。


「ごちそうさま」


 私を見つめる三白眼に、熱が籠っているのは気のせいだろうか。などと思っていれば、額に無精髭のちくちくとした感触と柔らかな唇が当たって、私の世界は微睡んでいく——。

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