リンゴ

 その日も雪が降っていた。クリスマスイブの夜の町は普段以上に賑やかだった。外食に向かう恋人達、バレエを鑑賞しに行く家族連れ、雪にはしゃぐ子供達。皆誰かと楽しそうに歩いている中を、私はひとりぽっちでとぼとぼ当てもなく彷徨っていた。


 生まれたばかりの私は、孤児院の前に捨てられていたという。親の愛も知らず、誰とも友情を築くことなく、十五年間、孤児院と学校という狭い世界で生きてきた。

 他の子供達は、次々と里親のもとへ行って家族となっていくのに、私だけは取り残されて煙たがられていた。


 その生活は窮屈で耐えられなくなり、ついに逃げ出した。孤児院からも、生きることからも。


 それから、早一週間が経とうとしている。

 食事も取らずに骨が浮き出た体は、十五歳という年齢を感じさせないほどにやつれて小さかった。


 今晩、食事にありつけなかったら死を迎える。生きることを諦めたはずなのに、私の頭の中は、死への恐怖が席巻していた。

 ふと、露店の軒先に目がいった。白い雪景色の中、赤々とした果実が見事に映えている。

 ごくり、と生唾を飲むほどに美味しそうなリンゴが、私によからぬ思いを抱かせた。


 ——リンゴを盗んで今夜だけは生きてみよう。


 人混みに紛れてこっそりと近づく。商人は、店にやって来た客と会話を楽しんでいて気づいていない。盗むなら、今だ。


 緊張と興奮で、手が勝手に震えてくるのを抑えながら、赤い果実に手を伸ばした。あと少しでリンゴが手に入るという時、私の細い手首を掴んでくる大きな手があった。


 見つかった。手首を掴んでいる人物に恐る恐る目をやった。


 黒い外套を羽織った男が、睨みつけている。その形相に恐れ慄き、手を振り払おうとするも食事をしていないせいで力が入らずにその場にへたり込んだ。

 ふわり、と体が浮き上がる感覚がして、いよいよお迎えが来たのだと察した。が、体を包む温もりが、私にまだ生きていることを知らせている。


 驚き見れば、目と鼻の先に黒い外套の男の髭面があった。体を横向きに抱きかかえられ、通りを大股で歩いている。


 ふと、男の三白眼と目が合った。私と同じ目をしている、と直感した。

 凛々しくも、どこか切なげなその瞳の中に眠る孤独を感じると同時に、怪しい者ではない気がしてくる。


 男の体温が心地良い。思えば、誰かとこうして体を寄せ合うことは今まで経験したことがなかった。人という生き物はこんなに温かいことを、このような状況で初めて知る。

 その温もりを感じていたくて、頭を男の肩に寄せた。一瞬、男の体が強張ったが、気のせいだろう。


 人通りの少ない路地にたどり着くと、男は私をゆっくりと降ろした。


「あの……」


「たったひとつのリンゴを盗んで、自分の人生無駄にするな」


 渋い声音はぶっきらぼうなのに、優しい。


「すみません」


 言葉を発するのと時を同じくして、私のお腹が盛大に音を上げた。恥ずかしくてうつむいていると、頭上から声がかけられる。


「腹、減ってんのか」


 こくりと頷くと、男は「見てろ」と命令してくる。視線を上げると、節くれだった大きな手を目の前に差し出していた。

 その手に吐息を吹きかけると、たちまちリンゴが姿を現した。照りのある赤い皮は、まるで紅石ルビーの如く輝いている。それも、普段よく見るリンゴよりもひとまわり、いやふたまわりも大きいのだ。


 仰天して口をあんぐり開けている私をよそに、リンゴを、荒っぽく突き出してくる。


「ほら」


「今の……ま、魔法?」


「今日はクリスマスイブだ。魔法のひとつやふたつあっても不思議じゃない」


 恐る恐る男からリンゴを受け取った。中身がみっちりしているのか、今まで持ったリンゴよりも重みがある。


「二つ目の角を右に曲がれ。お前の人生が変わる」


「えっ?」


 意味深な言葉を言い残すと、無精髭の生えた口元を緩ませた。ぎこちない微笑みは一瞬のことで、黒い外套を翻して人通りの多い大通りに姿を消していった。


 人生が変わるとは一体何を意味しているか。半信半疑だったが、物は試しと二つ目の角を右に曲がってみた。


 曲がった瞬間、体に衝撃が走ったかと思うといつの間か雪道に仰向けに倒れていた。雪の冷たさが背中から伝わり、身震いする。


「だっ、大丈夫?」


 覗き込んできたのは、中年の男女だった。身なりが整っているからお金持ちなのだろう。どうやら、角を曲がった際に彼らと衝突したらしい。


「ごめんなさい。怪我はないかい?」


「えっと……」


 寒さで凍え、空腹も相まってうまく口が回らない。私の様子がおかしいことを悟った二人は、気遣わし気に見下ろしてくる。

 すると、私が持っていたリンゴと私の顔を交互に見ていた男性は目を輝かせた。


「なんて綺麗な赤なんだ!」


 咄嗟に、冷や汗が出た。自分の身なりに似つかわしくない美しい光を放つリンゴを持っていたら、きっと盗人だと勘違いされる。

 だが、その心配は杞憂に終わった。


「お嬢さん、そのリンゴと、君の絵を描かせてくれないかい?」


 口髭を蓄えた恰幅の良い男性が申し出てきた。呆気にとられていると、隣に立っていた柔らかい印象の女性が微笑みかけてくる。


「主人は絵描きなのよ。リンゴとあなたの綺麗な瞳が気に入ったみたい」


「綺麗な、瞳?」


 そんなことを言われるのは生まれて初めてだったから戸惑っていると、どうか描かせてほしい、と何度も何度も懇願された。ついには押し負け、彼らについていくことにした。


 辿り着いたのは、今まで見たこともないような、石造の豪華なお屋敷。広大な庭には様々な種類の樹木が植えられて、雪の帽子をかぶっている。

 恐る恐るふたりについていく私は、リンゴを両手で握りしめて歩を進めていった。


 ——お前の人生が変わる。


 黒い外套の男の言葉は、この後に判明する。絵のモデルをすることになった私を気に入ったのか、この夫婦に養子として迎えられることになった。


 黒い外套の男がムスタ•ヨウルプッキだと知ったのは、この国——フィルデン王国——の民俗学の博士であるお母様の書斎に忍び込んで、本を漁って読んでいた時だった。

 古い民俗資料集の中にあったムスタ•ヨウルプッキの挿絵と、黒い外套の男が瓜二つだったことは目が飛び出るほど驚いた。


(子供に罰を与えるって書いてあるけど、とても良い人だったわ)


 ムスタからもらったリンゴは、大切に戸棚にしまってあった。魔法で作られたリンゴは腐ることもなく、ムスタの吐息で生成された当時のままの状態を維持している。


 もう私は孤独ではない。それならば、孤独を感じている彼に、幸せをくれたリンゴを返す番だ。そう思い立って、アップルパイをプレゼントする計画を練り始めたのは夏のことだった。

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