テレビ塔にて

 

 任務を終えた翌日の夜明け前、私達は、バイクに乗ってテレビ塔のある山に向かった。四日間走り回ったがれきの街を、きちんと目に焼き付けておきたかったのだ。

 荒れた山道を登り切ったその先には、申し訳程度の駐車場と、屋上に鉄塔の載ったコンクリートの無骨な建物だけがポツリと建っていた。

 周りはうっそうとした木々が生い茂り、眺望は全然なかった。

 だが、建物の扉には鍵がかかっていなかった。恐らく、地震の後で誰かが非常用発電機のメンテナンスに訪れ、施錠を忘れて下りていったのだろう。この上なら、もう少しは見晴らしがいいのでは。そう考えた私達は建物に忍び込み、今はこうして鉄塔にもたれたまま日の出を待っていた。


「結局、活動中はほとんど話もできなかったね」


 眼下に広がる真っ白い霧の海には、崩れたビルの上層階だけが、まるで海原に浮かぶ小島のようにぽつぽつと透けて見えた。


「でも、まあ、最後にここに来れたからいいや」


 彼はただ無言で霧の海を眺めていた。

 私はもっとちゃんと彼の顔が見たくなり、くるりと振り返って建物の手すりに背中を預けた。彼の顔を正面から見つめ、そして言う。


「世界の終わりに、また逢ったね」


 その瞬間、彼は何か懐かしい物でも見たように表情をやわらげ、うっすらと微笑んだ。


「多分、今の私は君と同じことを考えていると思う。ここに……」


 背後にがれきの街を背負い、私は大きく手を広げた。


「……救えなかった命がこれほどたくさんあるのに、どうして私はいまだにこちら側にいるんだろう……って。でもね……」


 彼は一瞬顔を歪ませる。

 恐らく、彼が救えなかった少女のことが頭をよぎったのだと思う。

 今回、彼が見つけ出した要救助者はそのほとんどが命をとりとめた。

 大勢の命を救うことが、失われた命の引き換えになるとまでは言わない。でも、君はそろそろ救われてもいい。私は、そう彼に伝えたかった。だが、彼は小さく首を振る。


「……僕はちょっとだけ違うことを考えていた」


 目を見開く私に、彼は小さく頷きかける。


「僕が、こちらに引き留められた理由はなんだろうかって」

「え?」

「あの日以来、ずっと考えているんだ」

「あの日?」


 彼は言葉を切ってやわらかく笑った。


「ええ、二子玉川が濃霧に沈んだあの日。僕が死ななかったのは、貴女が救ってくれたからなんですよね?」

「あ……」


(覚えて……いや、でも……)


「気付いていたの?」


 彼は、驚きのあまり言葉をなくす私に向かって一歩踏み出した。


「いいえ、つい最近ようやく気付きました。ヘリで運ばれてきたけが人を貴女が必死に励ましている声を聞いて、ああ、この声は前にもどこかで聞いた事があるって……」

「ああ……そうか」


 胸の奥がポカリと暖かくなる。気付いてくれていたんだ。

 そのことが本当に本当に嬉しくて、私は一生黙っていようと思っていた思いをポロリと口にしてしまう。


「最初に出会ったあの日、私は、キミに一目惚れしたんだ」

「えっ?」


 その瞬間、彼の顔色がさっと変わった。

 私は青ざめ、慌てて言い訳を試みる。そりゃ引くよね。こんな年増の女が何を言い出すつもりなんだって……。


「でも、ほら、初対面の人にそんなこと言い出すなんてなんだかはしたないし、私が背負ってる業に君を巻き込みたくなかった。でも、ずっと気にはなってたんだ。ホント。それだけ!」


 後は何を言ったのか覚えていない。わたわたと言い訳し、ついには彼の顔を直視できなくなって背中を向ける。沈黙が怖い。今すぐここから逃げ出したい。


「実を言うと、陸前高田には貴女に会えないかと思って行ったんです。色々悩んでいたのは事実ですけど、僕はあの時、何より貴女に会いたかった」


(え!?)


「……うそ」


 あまりの驚きに、そんな月並みな言葉しか出なかった。


「嘘じゃないですよ。おかげで、一面真っ白な霧の中で、ようやく一本の道が見えた気がしたんです。それが貴女に繋がっていたのは多分偶然じゃない」


(それって……どう受け取ればいいの? 彼が、私のことを……えええっ!!)


 頭の中がグチャグチャだ。ついには涙まで出てきた。


「こんな世界の終わりの霧の中で、自分の足元すらおぼつかないのに?……」


 涙声でバカみたいなグチを返す私に、彼は落ち着いた声で静かに答えた。


「だからですよ。お互いこれ以上迷わないように……」


 次の瞬間、背後から突然左手を掴まれた。私は硬直し、そのまま身動きが取れなくなった。


「この仕事を続ける限り、僕らはこれからも何度でもこんな世界の終わりを見る。でも、せめてお互いを見失わないでいられたら、少しはマシな気持ちでいられると思いますよ」


 涙がポロポロと流れる。私はみっともなく鼻をすすり、どうにか気持ちを鎮めようと荒い息を繰り返す。


(ごめん。もう少し、もう少しだけ待って)


 彼は私の手をやわらかく包み込んだまま、静かに私の返事を待っている。

 遠く太平洋から、五月の風が吹いてくる。

 霧がさっと晴れ、朝日が海原を鮮やかに照らし出した。

 背後には凄惨な世界の終わりが広がっているのに、それでも世界はこんなに美しく私を魅了する。

 私は広がる風景に一瞬見とれ、思わず息をのんだ。


〈了〉

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濃霧の朝ーSIDE Bー 凍龍(とうりゅう) @freezing-dragon

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