終活男と始活女

月緋

第1話

 何もない人生だったなんて、そうそう言えるものではない。生きてきて本当に何もない人間など存在しない、存在するだけで誰かに影響を与え、与えられる。

 僕は酒を片手にテレビを見る。

 お笑い芸人がしょうもないネタを披露し、無観客の客席に愛想を振りまいている。その顔は若干頬が引きつり、ぎこちない。

 いまや世界的に流行したウイルスによって、僕らの生きる世界は狭まってしまった。職を解雇される者、そもそも仕事ができず職が自然消滅する者様々だ。

 僕は前者。会社から役に立たないとの烙印を押され、職を解雇されてしまった身だ。

 貯金はもう底をつき、生活にすら困窮している。一人暮らしにとって働き口がないのは社会に見捨てられたようなものだ。いくら面接へ行こうが職を探そうが見つからないものは見つからない。もう限界だ。

 くつくつと渇いた笑いをこぼして、酒を一口煽る。喉に熱を感じ、頭が少しぼーっとしてきた。

 ーーそうだ。遺書を書こう。

 夏の昼下がり、マンションの一室で僕は遺書を書き始めた。スマホを片手に書式を調べ、必要なものをゴミ屋敷のような部屋から漁る。ついでに身辺も片付けておこう。

 僕が命を落としたあと、この部屋を片付ける人の迷惑を少しでも減らすために。そもそも死ななきゃいいんだけど、もう生き方がわからない。

 狙うは明日のゴミの日。なんとか早起きして、収集車が来るまでには片付けを終えよう。

 そしたら、あとは。

 僕は自身の終わりを形作るために行動を開始した。ちょっとした安堵感と、心が軽くなったのを感じて作業が捗る。

 あとは、どうやって死のうか。


「あ、母さん。……うん、クビになっちゃって……なかなか次が見つからないけど頑張ってるよ。……うん、ありがとう」

 僕にできる精一杯の感謝の言葉だった。

 振り返ると、何もない部屋が広がる。その真ん中にポツンと封筒が一つ。

 ーーうん。僕にしては上出来だ。

「今までありがとうございました」

 玄関から部屋へ一礼する。仕事を始めてからずっとここで生きていた。ここにあった生活感も匂いも全て僕のものだった。

 少し寂しい気持ちを押し殺して、鍵をかける。

 ガチャン、という音を最後に僕は歩き出す。

 終わりは、何も残らないくらいぐちゃぐちゃになってしまった方がいい。身分証も何もかも、封筒に入れて置いてきた。残すはこの鍵……だけど、これだけは手放せなかった。


 駅のホームは閑散としている。自粛自粛と騒がれているせいなのもあるが、通勤ラッシュを少し免れたおかげもあるだろう。

 これくらいが、ちょうどいい。不快に思う人は少しでも少ない人がいい。僕の身勝手で誰かに……いや、もう、どうでもいいか。

 ふらりふらりと、電車が来るのを今か今かと待ちわびる。不思議と恐怖はなかった。どうやら心が死を受け入れたらしい。

 ホームにかかる放送の音、近づいてくる鉄の塊の重量感をひしひしと感じ、足を運ぶ。

 ここから飛び降りれば、すべてが終わる。

「うん」

 倒れるように身を投げようとする。着地の前には僕の意識も、体もすべてがなくなっているだろう。この世界から、歯車でもない人間が消えることなど、誰も気にもかけまい。

「だ、ダメですよ。そんなことしちゃ」

 手を引かれ、現実へと引き戻される。

 ペタンと尻餅をついた僕の目尻から滴がこぼれ落ちていた。体と一緒に心も引き戻されたみたいだ。とめどなく涙が溢れてくる。

 周囲の人間が集まってきそうになるのを横目に。

「とりあえず、一緒に来てください」

 女の子は、僕の手を強引に引っ張りホームから出ていこうとする。力なくそれについていくことしかできない。


 それからどうしたのかほとんど覚えていない。気づけば、別れを告げたはずの部屋に戻ってきていた。

「余計なことをしてすみません……でも、どうしても見ていられなくて」

 正面に座る女の子がぽつりと言葉を紡ぐ。

 僕の涙はとうに止まって、目の前の女性を空虚に見つめることしかできない。

「あの、ありきたりですけど……あなたが死んだら誰かが悲しみます」

「もう何もないんだ、僕はもう社会から生きるなって言われているんだよ」

「それでも……」

「じゃあ君は、僕のこれからを背負ってくれるっていうのか?」

 最低だ。どう考えても年下の女の子に僕は何を言っているんだろう。

 さすがに成人はしているようなスーツ姿。化粧もしていて、どう考えてもこれから仕事だった風体だ。

「えっと……はい! わたしでよければ」

「えっ」

「ふふふ、彼氏を作るの夢だったんです。それに、彼女がいたら頑張ってくれそうな顔をしてます」

「なっ……」

 名前も知らない彼女は、あっけらかんとして答えた。この子は、僕の生きる理由になってくれるらしい。どう考えても無責任だけど。

「これから時々ここへきてもいいですか? 半分同棲みたいな形で?」

「君は、僕が怖くないのか?」

「何言ってるんですか? さっき人生を投げ出して死のうとしてた人に女の子がどうのこうのできるわけないじゃないですか」

 眩しいくらいの笑顔に目を細める。ああはいったものの、確かに僕には彼女をどうともしようとは思わない。そもそも初見だし。

「あ、そうそう、これを見てください」

 女は一冊のノートを取り出す。

「なにこれ?」

「私の始活ノートです。たくさん、やりたいことが書いてあるんです」

 パラパラとめくるページの中に、彼氏を作る、食事を作ってあげたい、たくさん通う、のように一つの項目に対して枝が生えるように多くの「したい」が詰まっていた。

 女の子は、まるで生命力の塊のような笑顔で僕を見据える。

「あなたを選んだのは簡単です。私が、家族以外で初めてちゃんとお話ができた人だからです。出会い方は衝撃的でしたけど」

「そんな理由で?」

 むうっと頬を膨らませて少し上目遣いに僕を見つめる。

「ダメですか?」

「いや……」

「あっ、少し台所を借りてもいいですか?」

 何かに気づいたように立ち上がって尋ねてくる。どうぞ、という言葉とともに彼女はコップに水を汲み、持ってくる。

「すみません、まだしばらく薬を飲んでなくちゃいけなくて」

 そういって大量の薬を喉に流し込むのを静かに見つめる。

 女の子がこれまでの人生になにがあったのかは僕は知らない。けれど、僕は少しだけこの子に興味が湧いたのだ。生きる意味になってくれるというなら、もう少しだけ。この子が僕に飽きるまでくらいは、一緒にいてもいいかもしれない。

 そんな、さっきまで死のうとしていた僕からは想像もつかない思考が頭を巡り始めている。

「それで、少しは生きる気になってくれましたか? 私の彼氏さん?」

 どうやらもう彼氏認定されているらしい。悪い気はしないが、この子のスピードは早すぎてついていくのが大変そうだ。

「もう少しだけ、ね」

「やったー!」

 跳ねるように喜ぶ彼女を横目に、さっきかるずっと訊こうとしていたことを口に出す。

「そういえば、君の名前」

「あ、私としたことが忘れてました。私の名前は……」

 太陽のような笑顔で僕をまっすぐ覗き込んで。

「春陽っていいます!」

 その名前にふさわしい笑顔だと、僕は感嘆する。

 どこか心が温まる、そんな気がした。

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終活男と始活女 月緋 @tsukihi-kiseki

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